荷風マイナス・ゼロ (57)

ノモンハン ロシアではハルキンゴル(ハルハ川)の戦い

 

昭和14年(1939)

 

5月3日、「新橋にて電車を乗り換えんとするとき去冬玉の井にて知りたる女に逢う。この春より芝口の処女林というカフェーにはたらき居ると云う。赤坂田町の貸間に姉と二人にて住むなりと云う。」

5月10日、「このごろ町の辻に日独伊軍事同盟のビラ政党解散を宣言するビラ貼り出さる。」(同盟成立は翌年。)

(5月11日、モンゴル人民共和国満洲国の境界ノモンハンで両軍が衝突し、9月までつづく日本ソヴィエトの戦争にいたる。国内では詳細は報道されなかった。ノモンハン事件

5月19日、「谷町通の荒物屋に行き高箒を買う。一本25銭なり。草箒は10銭なりという。」

5月24日、「つゆのあとさき再版印税金150円。」

5月25日、「夜銀座蕎麦屋吉田に一酌す。もりかけこれまで10銭なりしに12

銭となる。」

5月26日、「新大橋に至り船にて浅草に往く。潮落ちて両岸に露出したる石垣のさま、橋の石台に塵芥の堆積したるさま、溝(どぶ)のごとき水の色とともに不潔きわまりなし。」

5月30日、「田原町地下鉄出入り口にて辻君に袖を引かる。24-5の小づくりの女なり。」(●マークなし。)

ノモンハン:勢力はほぼ互角の前哨戦だった。航空力は日本優勢だったが、一支隊が全滅するなど地上では押された。ハルハ川を境に東岸西岸で一進一退した。)

 

6月1日、「去年この日は浅草富士詣の賽日なりしかばオペラ館の踊り子らと夜半麦藁の蛇を購い夜の明けるころ家にかえりぬ。今年は雨ならざるもすでに夜遊びの元気なくなりたれば独りさびしく家に留まりしなるべし。」

6月2日、「菅原氏のもとに手紙にて、去年九月ごろその需によりて作りし歌詞放送中止したき趣を言い送りぬ。」(放送ぎらいが理由と思われ一時菅原を避けるが、やがて旧交に復する。)

6月6日、「久しく放水路の景を見ざれば青バスにて砂町より葛西橋に至る。橋下の蒹葭ことごとく取り払われ、堤防の草は薄くなりて人歩めば赤土の塵たち舞うさま隅田公園のごとし。堤の下にも人家小工場ようやく建て込み数年前の寂しき眺めはなくなりたり。」

6月7日、「江戸川筋の蒹葭もおいおい刈り除かるる由。蒹葭蘆荻は水流を阻止し水底を浅くするがゆえ洪水の害を招きやすしとなり。当局官吏の妄説愚見笑うべくまた恐るべし。」

6月11日、「人の噂をきくに吉原遊廓も市内の芸者屋町と同じく貸座敷は午前一時引手茶屋は十二時かぎり戸を閉ざして客を上げざる由。市内盛場夜一時限客ノ出入ヲ禁ズ。」

6月12日、「帰途門外の崖道にて巡査に誰何せらる。時間を反問するに暁一時なりと云う。」

6月13日、「郵便配達夫書留郵便を持ち来たり認め印を請う時、国庫債券を買いませんかという。」

6月20日、「夜十時過ぎ谷中生西川千代美生田数馬らと森永に憩うとき土地の破落戸(ごろつき)三人来たりて銭を請う。三人とも顔にニ三寸の疵ありてこれを売り物にす。・・年はいづれも二十二三なり。銀座のカフェーなどにて喧嘩を売る無頼漢に比すれば無知愚昧かえって愛すべくまた憐れむべきところあり。ただしこの夜は酒手を与えずして去らしめたり。」(銀座はいわゆる羽織ゴロを指すか。)

6月21日、「世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪パーマネントウェーブを禁じ男子学生の頭髪を五分刈りのいが栗にせしむる法令を発したりと云う。林荒木(軍部政治家)らの怪しげなる髭の始末はいかにするかと笑うものもありと云。」

6月22日、「一昨夜の無頼漢来たり西川を介して再び銭を請う。5円札1枚を与えて去らしむ。」

6月28日、「この日浅草辺にて人の噂をきくに、純金強制買い上げのため係の役人ニ三日前より個別調査に取りかかりし由。・・一寸八分純金の観音様(浅草観音)はいかにするにや。名古屋城の金の鯱も如何と言うものありとぞ。」

6月29日、「新大橋より乗合汽船に乗りて吾妻橋に至る。雨後の河水はなはだしく悪臭を放つ。墨水の流れも今は文字通り黒くなりて墨のごとし。政府の役人は市中婦女子の服装結髪などにつきて心を労するかごとく見えながら、都市の美観につきては表面だけときどき文句を並べるにすぎず。実際においては放擲して顧みざること墨水両岸の景を観望すれば自から明なり。蔵前の橋下は河岸の中にてはもっとも不潔なる眺めなるべし。」

6月30日、「昨日警察署の刑事オペラ館に来たり、楽屋頭取に向かいオペラ館楽屋に出入りする人物の如何を質問して去りし由。そのなかには自然貴兄のことも話に出でしに相違なければ御用心しかるべしとなり。この日市兵衛町町会の男来たり金品申告書を置きて去る。余が手許には今のところ金製の物品なし。・・今は煙管一本と煙管筒の口金に金を用いしものの残れるのみ。浅草への道すがらこれを携え行き吾妻橋の上より水中に投棄せしに、そのまま沈まず引き潮に浮かびて流れ行きぬ。煙管筒には蒔絵にて、行春の茶屋に忘れしきせるかな荷風としるしたれば、これを拾い取りしもの万一余が所有物なりしことを心づきはせぬかと何とはなく気味悪き心地なり。」

ノモンハン:航空戦主体で日本が優勢だった。地上は戦闘準備。)

 

日本軍戦車隊

 

7月1日、「手箱の中にしまい置きし煙草入れ金具の裏座に金を用いしものあるに心づき、袋よりこれを剥ぎ取りて五六個紙につつみたり。・・晩間ふたたび吾妻橋の上より浅草川の水に投棄てたり。むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨て去るにしかず。」

7月2日、「オペラ館は来週戦争物を演ずる由。そのため憲兵隊より平服の憲兵一人来たり稽古を検分す。その筋の干渉ますます苛酷となりたるを知るべし。」

7月3日、「水天宮裏の鼎亭に夕餉を食す。主婦のはなしに今夜八時過ぎ刑事点検を行うとの風聞あれば日の暮るるとともに客芸者の出入りを避ける手はずなりという。」

7月4日、「今年三四月のころより辻自動車の便宜なくなりしためオペラ館のけいこ場に夜をふかして遊ぶことも稀になりぬ。」

7月6日、「明七日六区興行物夕方七時まで飲食店九時閉店の由。」

7月7日、「芝口の千成に至り夕餉を食す。酒を売らざるのみにてその他の飲食物平日と異なるところなし。カッフェーは戸を閉ざしたれど喫茶店には客あり。煙草屋も休まず酒屋も商いをなせり。ラヂオは軍歌を奏せり。市中禁欲日ヲ設ク。」

7月8日、「昨夜公園の飲食店はいづこも混雑はなはだしく十時過ぎても客の出入り絶えやらず。酒を飲むもの多かりしと云う。」

7月10日、「この日の新聞に戸川秋骨君病没の記事あり。行年70才という。」(一葉の文学界同人)

7月13日、「偶然竹久よし美の関西より帰り来たれるに逢う。」

7月18日、「郵便局に税金を納む。289円なり。・・燈火管制。」

7月20日、「日本橋に飯す。禁燈の三日目にて街燈点せず。」

7月21日、「市中の景況を看る。この日禁燈防空訓練の第三日目にて昼のうちより街上ことにもの騒がしければなり。電車に乗るに溜池四辻にて停車すること15分あまり、虎ノ門に至るにまた停車するのみならず乗客も運転手もともに車より降りて路傍に避難すべしと云う。・・玉の井に行きて見るに、広小路大通りには女ども七八人づつ一団になり、いづれも手拭いをかぶり、肌着一枚、袴、足袋はだしにて水まく用意をなせり。六丁目角に狸屋という薬屋あり。この店の若き女房、年頃二十六七、鼻高く色白の細面、このあたりにて名高き美人なるが、薄化粧して手拭いかぶり、ボイルの肌襦袢一枚に乳のふくらみもあらわなる姿、ことに今日は人の目をひきたり。」

7月23日、「芝口の千成屋に飯す。街頭の立て札さまざまなるが中に国論強硬で大勝利しろと云うがごときものあり。語勢の野卑陋劣なること円タク運転手の喧嘩に似たり。・・田村町より電車に乗る。車内に貼りたる化粧品の広告に挙国注視断乎!汗物を撃殺せよとかきたり。滑稽かえって愛すべし。」

7月25日、「元芸人手紙を寄す。大坂千日前花月劇場に在りという。」

7月30日、「炎暑焼くがごとき日盛りラヂオの洋楽轟然たり。真に焦熱地獄の苦しみなり。」

ノモンハン:日本軍はハルハ川を渡河したが、損害は大きく押し戻された。日本は戦闘経験と兵の練度で長じたが、ソヴィエト・モンゴル軍は機械力補給力でまさった。航空戦も互角になった。)

 

擬装するソヴィエト軍戦車