荷風マイナス・ゼロ (39)

濹東奇譚 木村荘八

 

昭和12年(1937)

 

4月2日、「燈刻銀座にてW生に逢い共に濹東を歩みてかえる。」

4月3日、母危篤を伝えにきた弟威三郎を、居留守を使って帰す。

4月7日、洲崎に行った。大門外の掘割に沿って歩いた。空き地に捨てた塵埃をかきわけ物を拾う男女が多かった。

夜、前妻内田八重(藤蔭静樹)をひそかに電話で招き、母親臨終のさい取るべき態度を相談する。芸妓時代の八重との婚姻が理由で、弟と義絶した。

4月9日、「数寄屋橋橋上朝日新聞社飛行機の報告を見るもの垣をなす。」神風号(97式司令部偵察機)が東京パリ間の飛行記録を出した。

4月10日、為永春水の墓参りにいったが、寺の所在がわからなかった。このところ為永本を読んでいる。

4月12日、「W生と銀座に飯し濹東を歩む。」

4月14日、吉原に散歩した。「廓内に入るに仲ノ町の桜八重なればいまだ開かず。五十間はことごとく商店となりて茶屋はなし。三ノ輪に出でバスにて玉の井に至り鎌田方に少憩し、銀座に飯して初更近く家にかえる。」(五十間通は東の入り口)

4月15日、「拙作奇譚朝日紙上に出たりと云う。」

4月17日、「濹東奇譚を活動もしくは狂言に仕組むべきむね申し越されたれば辞退の由を書きおくりぬ。余は書生役者活動役者のために余が小説の毀損せらるる事をかなしむ。」(死後3回映画化された。)

4月20日、浅草に出てそこから四つ木放水路の堤を歩いた。水上に書生がボートを浮かべていた。橋上には貨物自動車の往復がさかんで、塵埃が煙のようだった。放水路の堤も昭和4、5年のころ初めて来て見たときに比べれば、北は千住から南は小松川にいたるまで今は騒然とした場末の町と変わりない有様になった。

4月23日、「燈刻W生より電話あり。銀座富士氷菓店にて待ち合わせ共に玉の井を散歩す。」

4月25日、「午前写真製作。午後二階の几案(机)を下座敷に移す。大正九年この家に来たりし当初には二階を書斎となせしが、しばらくにして玄関側の一室にて物書き馴るるに至りぬ。癸亥の秋大震の起こりし時にはこの室にて細井平洲の文集をよみいたりしなり。お栄とよぶ妾を蓄えるにおよび机を二階に運び上げていつか十四五年の歳月を過ごしたり。老い来たればせまき我が家の中に在りても、とかく感慨に沈めらるる事多きぞ是非もなき。」

4月26日、「電車は同盟罷業のため運転せざれば円タクにて駿台杏花君(左團次)招飲の約に赴く。」

4月27日、「出でて浅草より玉の井に至る。巡査に誰何せらる。思うに天長節

近きをもってその筋の警戒平常よりも一層厳酷となれるがためなるべし。」

4月28日、W生夫婦と会う約束があった。夕方銀座尾張町に行き、芳町の待合さとみという家に行く。かつて築地に住んでいた私娼お米が去年ごろから営んでいる家だ。

4月30日、いよいよ母親の臨終で連絡しきりだが、浅草に出かける。この日、弟威三郎との関係と題して言い分を箇条書きする。