荷風マイナス・ゼロ (45)

アッパッパ

 

昭和12年(1937)

 

8月4日、「夕飯を喫し玉の井を歩む。この里よりも戦地に赴くものありと見え広小路の大通り提灯を提げて人を送るもの長き列をなしたり。」この月も吉原、玉の井、放水路、浅草、銀座の徘徊はつづく。

8月8日、「浅草に往き仲店裏今半に夕飯を喫す金七十銭也」

8月10日、「食後千束町の妓街を歩む。とある待合の塀外に新内語り三人立ちて例の蘭蝶を語りいたれば立ち止まりて聞く。丈高き男幇間らしき風俗をなし行き過ぎるを見れば西洋人なり。路傍の煙草屋にて聞くに魯西亜人にて太鼓持ちとなれるなりと云う。現代の世の中いよいよ不思議なる事ばかりなり。」

8月11日、「夜五反田散歩。カフェー裏町の醜陋に一驚を喫す。」

(この日に上海事変が勃発し、開戦に大きく舵を切った。抗日テロと居留民保護を理由に海軍が上海の黄浦江に艦船を着け、砲火の応酬がはじまった。華北から華中に戦火は拡大した。)

8月12日、「北千住所見 ・・街灯の光に路傍に立てたる活動写真の画看板の人物おぼろに見ゆ。この画の前に一人の男、シャツに半ズボン草履ばきにて、眼鏡をかけ、自転車にもたれ、アッパッパ着たる若き女と私語す。女は自転車のハンドルに片肘をつき、たがいに顔と顔とを近づけたり。表通りの方より蓄音機の流行唄きこゆ。」

8月15日、「浅草公園今半に餉す。日曜日にて人雑衆す。北里を漫歩して帰る。」

(「盧溝橋事件ニ関スル政府声明」が発表された。「帝国トシテハ最早穏忍ソノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻ヲ鷹徴シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断固タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」)

8月16日、「夜向島散歩。市中到る所出征の兵卒を送る行列提灯また楽隊のはやしなどにて祭礼同様のにぎやかさなり。」

8月17日、「北里を漫歩して家に帰れば十日ごろともおぼしき半月も山形ホテルの屋根に落ちかかりて夜はふけ虫の音細し。」

(この日に日中戦争不拡大方針放棄が閣議決定された。)

8月24日、「夜浅草散歩。今半に夕飯を喫す。今宵も月よし。十時過ぎ活動館の前を過るに観客今まさに出払いたるところ、立ち並ぶ各館の戸口より冷房装置の空気道路に流れ出で冷なるを覚えしむ。花川戸の公園に至り見れば深更に近きにもかかわらず若き男女の相たずさえて歩めるもの多し。みな近隣のものらしく見ゆ。

余この頃東京住民の生活を見るに、彼等はその生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるもののごとく、軍国政治に対してもさらに不安を抱かず、戦争についてもさらに恐怖せず、むしろこれを喜べるがごとき状況なり。」

8月26日、「上海にて日本兵英国大使ヒーゲツセンを射てこれを傷つく。」(ヒューゲッセン)

8月27日、「昏暮銀座に夕飯を喫し、上野を歩む。出征の兵を送るもの停車場に雑衆す。省線電車に乗るに新宿渋谷五反田の各停車場も兵卒見送り人にて雑衆す。」

8月28日、裏通りの魚屋からまたも魚類いぶし焼きの悪臭が流れてきて、窓を開けられない。・・近隣の家をうかがい見るとどこも窓を開け平気で蓄音機を奏でている。現代人の神経は物の匂いまた灯火の光などに対してほとんど働いていないようだ。築地本願寺のあたりを電車で通過する時は魚市場より発散する悪臭を感じる。数寄屋橋有楽橋を渡れば溝水の悪臭が人の面を打つ。しかし世の人は平然としてこれを口にしない。三十間堀の汚水に貸しボートをうかべて喜ぶほどだ。日本の国土に住むかぎり悪臭は忍ばなければいけないのが国民義務の第一なのだろう。