荷風マイナス・ゼロ (44)

 

荷風が吉原で取材もかねたお大尽遊びをしているあいだに、日中の全面戦争は目の前までしのびよって来ていた。7.7事変盧溝橋の交戦はまだ小規模なものだった。どちらが先に手を出したとかは、いまでも論じられるが本質的問題ではない。1931年の満州事変とそれにつづく傀儡国家満洲国の誕生が7.7にいたる対決の起源であり、さらに東インド会社が本国をのっとったような軍部の増長により侵略の手は華北までおよんでいた。

北京周辺の軍備増強と、条約外の日本の軍事演習強行が小競り合いのみなもとだった。

日本政府の内部は衝突に対し拡大派と反拡大派の論争があり、中国の側は西安事件以後抗日の機運がみなぎっていた。反拡大派にしても満洲の利権確保を優先する立場で、平和主義だったわけではない。しかし7月いっぱいのあいだは、蒋介石が「最後の関頭」演説で抗日態度をはっきりさせたあとも事態はくすぶっていた。

 

人は勤労して寝ぐらをさだめ、食欲と性欲をみたして生きるのが日常だ。荷風も資産家ではあるが、筆耕して銀座で外食し吉原に登楼している。その平凡な生活のくりかえしと戦争に、つながりを見出すのはむずかしい。

だがもちろん連関はあって荷風は放蕩者ではあってもきちんとした納税者だったが、37年の軍事予算は国家財政の70%におよんでいる。

 

歴史は変わらないというのは、矛盾した物言いだ。歴史は、変化の記録にほかならないから。その変動が目に見えてあらわれる時がある。それが盧溝橋であり、西安の兵諫だった。波が荷風の足元までおよぶのは、もう少し先のこととなる。