荷風マイナス・ゼロ (43)

北京市豊台区盧溝橋

 

昭和12年(1937)

 

7月4日、「姪光代没す。」次弟鷲津貞二郎の娘で、荷風は子供のころからかわいがっていた。

7月5日、「水天宮の賽日にてにぎやかなり。裏門外道路の上に癩病の乞食数人座するを見る。日本固有の生活状態なればひそかに携帯のカメラに収む。」

「北平付近にて日支両国の兵砲火を交ゆ。」

満州関東軍とならび、義和団の戦後処理として天津には天津軍が駐留しつづけていた。それが華北の緊張の高まりとともに1936年5月に倍増され、北平(北京)からわずか4kmの豊台に駐屯したことで同年6月9月に日中軍の小競り合いが生じた。1937年7月に入ると天津北京で何か起きると噂が立った。

7月6日、「二氏とともに北廓に行く。水道尻午の日の縁日なり。この春玉の井の空き地に興行せし木下曲馬団公園裏の空き地にテントを張れり。五丁目を漫歩す。この夜仲之町の茶屋に客ある所多く、角町角の見番に芸者の出入りするを見る。」

7月7日、「電車にて吉野橋に至り、暗夜の山谷堀を歩み曲輪に入る。京町一丁目太華楼に登る。たちまち大引となる。室狭くして暑堪えがたきゆえ出でて江戸一彦太楼に登り三階表廊下の一室に宿す。炎暑はなはだしき夜なれば、三階の窓より見おろす近隣の娼楼、みな障子をあけ放ちたり。時として奇観目をよろこばすものあり。裏手の屋根上に出でて見るに、立ちつづく屋根のはずれに石浜の瓦斯タンク朦朧として影のごとく、南千住辺の燈火東雲の空の下に明滅す。」

7月8日、「朝八時彦太楼を出るに日光赫々舗道に反射す。三たび三ノ輪の浄閑寺に至り、見残したる墓石を展す。・・墓地の中央に立てる無縁塔のほとりに情死者の墓かと思わるるものあり。

・・目黄不動の門前よりバスに乗り、銀座不二あいすにオートミール一碗を食して家に帰る。

・・四氏と車にて芳原に往く。・・引手茶屋浪花屋に登り、仲之町の妓小槌小仙の二人を招き雑談暁の二時に至る。炎暑はなはだしければ大引過ぎても廓内人多し。・・妓小槌風姿清楚。挙止静粛にして明治時代名妓の面影あり。」

7月9日、「バスにて浅草に行き四万六千日の鬼灯市を看る。歩みて吉原大門口に至るとき雨またそそぎ来たり電光中空に閃く。昨夜の茶屋浪花屋に入るに表二階には大一座の客まさに帰らんとするところなり。昨夜招きし小槌および何某雛妓何某を呼ぶ。先刻田町孔雀長屋の辺りに雷落ちしと云う。おかみさん上がり来たりて曲輪はむかしより不浄の地なれば神鳴さまの落ちたることなしという。大引近きころ一同に送られ江戸一の大文字屋に登る。全家平屋なり。・・座敷はいづれも現代の待合風なり。・・広き家の中は人なきようにて草履の音もせず、寂々として寺院に在るがごとくなれば覚えず熟睡して夜のあくるをも知らざりき。」

「吉原の娼妓には床上手なるもの稀なるがごとし。余ニ十歳より二十四歳頃まで芳原のみならず洲崎にも足繫く通いしことあれど、閨中の秘戯人を悩殺する者ほとんど絶無と云いてもよきほどなり。これに反してその頃より浅草の矢場銘酒屋の女には秘戯絶妙のもの少なからざりき。三四十年の星霜を経たる今日、再びこの里に遊ぶことすでに数十回に及ぶといえども、娼妓には依然として木偶に均しきもの多し。余がこのたびの曲輪通いは追憶の夢に耽らんためなれば、その他の事は一切捨てて問わざるなり。」

7月10日、「朝八時茶屋の女中迎いに来る。江戸一のとある路地の口にいつぞや見たる猿回しまた来たりて猿を舞わし居たり。小格子の女集まりて看る。病院へ行きがけの女も歩みを止めてあたり俄かににぎやかなり。茶屋にて昨夜の勘定を払う。金二十五円余なり。大音寺前より電車に乗り銀座に飯してかえる。」

7月11日、「日支交戦の号外出ず。」

7月12日、「夜半を過ぎて溽蒸いよいよはなはだしければ仲之町浪花屋に至り、妓小槌栄蔵幾代等を招き閑談暑を消す。覚えず暁四時に至る。東天すでに白し。」

7月13日、「浪花屋を出で黎明の廓内を歩む。風なく蒸し暑ければ嫖客娼妓いづこの家にても表二階の欄干にもたれ、流しのヴィオロン弾きを呼び留むるあり、あるいは半ば裸体になりて相戯るるもあり。客なき女は入り口の土間また妓夫台のあたりに相寄りて低語するさま、これまたむかしの吉原には見られぬ情景なり。・・拍子木の音八時を告ぐ。大音寺前より車を雇ってかえる。」

7月15日、「夜玉の井に往く。この町の光景も今は目に馴れて平々凡々興を催すものなきに至りぬ。」

「銀座辺女の風俗を見るに丸髷に赤き手柄をかけ黒無地の明石縮に銀の繍を施し帯は絽に縫模様をなす炎天の日中なるに紋織淡紅色の羽織を着たるもあり涼しげに見ゆる女は一人もなし。」

7月17日、銀座「街頭には男女の学生白布を持ち行人に請うて赤糸にて日の丸を縫わしむ。燕京(北京)出征軍に贈るなりと云う。いづこの国の風習を学ぶにや滑稽と云うべし。

・・馬道より砂利場に出で仲之町に至る。絵行燈を掛け連ねたり。今宵は両国に花火ありてその帰りとおぼしき客多く、引手茶屋の二階はいつになくにぎやかなり。浪花屋の前を歩み過ぐる時隣の茶屋の腰掛より余を呼ぶものあれば、顧みるに妓小づちなり。今宵はつぶしに結いて銀のタケ長を掛けたり。この妓の外になおニ三人招きて雑談する中夜はたちまちほのぼのと白みかかりぬ。」

7月18日、「朝五時家にかえりて直ぐに眠る。・・三子とともに北廓浪花屋に登る。小槌小きんおよび某等を招く。某は余がかつて浅草代地河岸に住みしころ見知りたる妓なり。」

7月19日、「家にかえれば暁四時なり。風呂に入りて後すぐに寝に就く。」

7月21日、「深夜濹東散歩。月明なり。」

7月22日、「三子と北遊を試む。・・浪花屋の二階にいろ房丸小つち等を招く。・・彦太楼に登り朝五時にかえる。」

7月23日、「独り彦太楼に登りて暑を避く。夜もあけかかるころ新内来たり澤本楼の前にて稲川をかたりて去るや、入り替りて三味線ヰオロンを相方にしたる流行唄の連中来る。白きズボンはきたる男なり。」

7月25日、「夜濹上に月を看る。」

7月26日、「納税のため午前京橋第百銀行および最寄りの郵便局に赴き、尾張町不二氷菓店に朝飯を食してかえる。

・・W生より電話あり。不二氷菓店に会しそれより濹東に遊ぶ。」

7月28日、「北廓に走りいつもの浪花屋に登る。小づち房丸いろの三妓を招く。」

7月29日、「仲之町向側の屋根の上白みかかるころ三妓に送られ水道尻より千束町に出で、車に乗る。・・家に帰れば四時半なり。」

7月31日、「夜浅草散歩。」