荷風マイナス・ゼロ (48)

オペラ館

 

10月4日、ある人の話ではかつて熱海のある旅館に共産党党員数名が宿泊していたのを、刑事ら大勢が捕縛に向かった。八月中のことだそうだが新聞には記載されなかった。党員はピストルを撃ったが弾丸が尽きてついに捕らえられた。一人の刑事が党員の一人に縄をかけようとするとき、拳でその顔を打ったところ党員は冷ややかに笑い、君は命がけでわれらを捕らえた。しかし政府から賞与を受けるのは君ではない、賞与を得るものはわがピストルで傷ついたものだ。政府の行賞はどんな時でも公平だった例がない。君は他日かならずわが言の当たっていることを知るだろうといった。はたしてその言葉通り賞与は無事だった刑事には下賜されなかった。これでその刑事は深く感じるところがあり、刑事の職を辞し、松竹キネマ会社の雇人になったという。

またある人の話に、戦地では出征の兵卒の中には精神錯乱し戦争とは何ぞやなど譫語を発するものが少なくない。それらの者は秘密に銃殺し表向きは急病にかかって死亡したものとするのだ。

10月16日、税金通知書を見ると左の如し、金80円17銭所得税第二期分 金26円71銭府市税 金8円3銭特別税つまり戦争税だろう。

10月12日、輸入雑貨品は追々禁止のため品切れとなるので、銀座聖路加薬舗で安全剃刀の刃英国製ペーアス石鹸(ペアーズ)米国製コルゲート歯磨きなどを購う。この中にはすでに品切れになったものもある。わたしはペーアス石鹸とコルゲート歯磨きは西洋遊学中から今日に至るまで30余年使い慣れたものだ。

10月13日、驟雨を松坂屋百貨店に避ける。東武鉄道乗り場は出征兵士見送り人で雑踏している。見送り人の大半は酒気を帯び喧噪はなはだしく出征者の心を察するような者はほとんどないように見える。

・・銀座辺の住民中出征する者はすでに250余名に達しているという。

10月14日、この夜富士アイスの地下室に尺八をたずさえた一人の乞食が入り来てボーイを恐喝して珈琲をすすりまたいやがらせのため尺八を吹鳴した。その去ったあとボーイに聞くと辻潤という狂人でときおり物乞いに来るという。辻潤は十年前銀座尾張町のカフェータイガーでわたしを恐喝した貧乏文士だ。今夜これを見てもその容貌はまったく一変しボーイの話を聞くまでわたしは気づかないほどだった。(伊藤野枝の元夫)

10月16日、玉の井に至るとまたもや降り来たった雨の中を楽隊の音楽を先駆として旗を立てて歩みゆく一群に逢う。路地の口々には娼婦4-5人づつ一団になってこれを見送りバンザイと呼ぶものもいる。思うに娼家の主人が徴集されて戦地におもむくのだろう。去年の暮れからわたしが知る家に来て様子を聞くと、出征する者は二部何番地の家の息子で見送りの人々はともに白髭神社まで行って社殿で送別の式をして帰るのが通例だという。

10月20日、古本屋の中村が来た。先月信越方面に古本を買い出しに行ったさいその地方では徴集される兵士がとても多く、旅館はどこも混雑していたという。

10月21日、三菱銀行に行き付近の郵便局をたずね税金を納めた。

10月23日、堀口(大学)氏翻訳のジードのソヴィエト紀行修正の一巻を読む。

10月27日、夕食をしようと銀座に行くと上海戦勝祝賀の提灯行列があった。喧騒がひどいので地下鉄で雷門に行く。町のさまは平常に異ならない。・・東武電車で玉の井に行く。ここはいつもより人出が少ない。

 

11月1日、本日から銀座通り百貨店は夕刻から閉店。

11月3日、大日本中央文化連盟とかいうところから公爵島津某の名義でわたしを同処の評議員に任ずるとの辞令風の印刷物を郵送してきたので、即刻郵便でこれを返送した。嗚呼わたしが文筆を焚く日も遠くないだろう。

11月7日、食料品を買いに銀座に行く。日曜日で街の雑踏がひどい。朝日新聞入り口にイタリアの国旗を出していた。(前日、日独防共協定にイタリアが加盟し三国協定になった。)

(11月11日、日本軍上海占領。)

11月12日、岩波書店から金500円送ってきた。

11月13日、公園所見(浅草)黄昏どき。空に宵月が浮かびあたりの電灯はすでに輝きわたっていた。小屋掛けの曲馬の前にたたずんで見ていると、高い所に軍服のような洋服を着た音楽師4人が休む間もなくラッパを吹いている。さだめて腹の減ることだろうと思って見ると夕風にさらされた姿はひとしお哀れだ。つながれた馬が三頭いた。その首にさげた桶にはすでに豆腐のからさえないようで、馬は絶えず鼻づらで桶の底をたたく。檻の中の猛獣は寒いためか乏しい藁を前足でかきよせつつ眠っていた。馬の足元に山羊が二匹ぼんやりと立ちすくんで馬の首にさげた桶から豆かすがこぼれ落ちるのを空しく待っていた。木戸番の男の容貌服装は貧し気で、そのあたりは不潔、看板の絵は拙く古び、これら一帯の光景は囃したてる音楽に調和して言い知れぬ淋しさを思わせる。

11月15日、夜浅草公園散歩。曲馬を看る。

11月16日、今年梅雨のころ起稿した小説冬扇記は筆がすすまない。その後戦争が起こって見ること聞くこと不愉快でないことはなく感興もいつか消散した。

・・今宵もまた浅草に行きオペラ館の演技を看る。わたしが浅草公園の興行物を看るのは震災後昨夜がはじめてだった。曲馬もこのオペラ館も10年前に比較すれば場内の設備をはじめ衣装背景音楽など万事清潔になった。オペラ館の技芸はかつて高田舞踊団のおさらいを帝国劇場で見たときのようでさして進歩していない。唱歌も帝国劇場に歌劇部があったころのものと大差ない。しかし丸の内で不快に思われるものも浅草に来て無智の群衆とともにこれを見れば一味の哀愁をおぼえてよい。(帝劇創設時は荷風も一時加担していた。)

11月18日、午後門を出て浅草公園興行物を巡見する。

11月19日、浅草に行きオペラ館の新曲を聴く。この一座の演じる一幕もの社会劇は誰が作ったものか、簡明で人をあきさせない。しばしば人情の機微をうがつ。侮りがたい手腕がある。

・・この秋から冬に至る女の風俗を見ると、髪はちぢらした断髪にリボンを結び、額際には少し髪を下げたものが多い。衣服は千代紙の模様をそのまま染めたものが流行している。大形のものは染色がけばけばしく着物だけが歩いているように見える。売店の女また女子事務員などの通勤するさまを見ると新調の衣服和洋ともを身につけるものが多い。東京の生活はまだひどく窮迫するには至ってないと思える。戦争もお祭り騒ぎのにぎやかさで、それほど悲惨の感を催させない。要するに目下の日本人はとても幸福であるようだ。(経済の軍事化で銃砲弾は戦地で消費され、艦船飛行機はより大きな戦争のために蓄積されていった。このスペンディング・ポリシーで不況から回復した。)

(11月20日大本営設置。国民政府重慶に移転。)

11月21日、街に防火団の警笛を聞く。灯火を点じられないので今宵も浅草公園に行き国際劇場に入り時間を空費する。安藤君所作の日高川その他レヴューを看る。品よく作ったものだから興味が少ない。オペラ館の通俗卑俚がかえって喜ばしい。

・・裏隣りの魚類燻製所は近隣の苦情が多いため昨日深川あたりに転居した。

11月23日、電車で浅草に行き萬成座の演技を見る。この一座にも一幕もの科白劇がある。俳優の技芸すこぶる妙。脚本もまた悪くない。おおいに感服した。(東京吉本の大衆娯楽演劇)

11月24日、浅草の興行物はその場限りで歌舞伎狂言のように記録にとどまることがないだろうからその大略を左に記載する。

オペラ館11月9日より11月18日まで。

第一 残されたる女 三場 科白劇

第二 君と歌へば 九コマ・オペレチカルショウ

第三 美人国突撃隊 五景

第四 戦捷歓喜一色 ヴァラエティー七景二十コマ

オペラ館11月19日より11月29日まで。

第一 むすめこころ 一幕

第二 カルメン 一幕

第三 浅草の歌

第四 黎明ニッポン

萬成座11月19日より

第一 瀧夜叉お米 三景

第二 二階貸します 一景

第三 仇討さくら榮五郎廓通ひ

・・雷門のほとりで玉の井の女4-5人に会う。24日は公休日なので映画を見に来るものが多いという。萬成座に入って見るとここにも2-3人がわたしの顔を見てそれとなく会釈するものもいた。

11月30日、ひとり浅草公園に行きオペラ館に入る。この夜は三の酉で公園もまた人出が多かった。10時すぎ待合お駒に立ち寄ると旧築地劇場女優吉野何子がいた。また常盤座笑の王国一座に出勤する女優柳澤マリ子という洋装の若い女が来合わせ雑談暁二時までにおよぶ。マリ子の話で公園芸人の事情が少しわかるようになった。