荷風マイナス・ゼロ (47)

NHKたけくらべ

昭和12年(1937)

 

9月4日、知人から手紙があり池袋の飲食店は出征兵士送別会で日夜多忙だという。

9月5日、銀座四丁目から地下鉄に乗る。乗客の中に一人の女がいた。旅館の男物貸し浴衣に細紐をしめ平然としてその夫らしき男と話をしていた。男も同じ貸し浴衣を着ていた。年々日本人の無作法になっていくさまは驚くべきだ。

9月8日、朝のうちから民衆が歓呼する声が聞こえた。・・従弟が母の危篤を伝えに来た。後刻参上するから安心してくれと返事し、従弟を帰した。・・浴衣のまま出て浅草に行って夕食をとり駒形河岸を散歩して夜をふかし家に帰った。

9月9日、母親が亡くなったことを伝え聞く。葬儀はわたしをのぞき威三郎(三弟)一家で執行するといわれた。

9月12日、近所を歩く。(麻布)市兵衛町から箪笥町のあたりにも兵士の宿泊するところが多く、空き地に天幕を張り憲兵が立番しているのを見た。

9月13日、午後写真機を提げ芝山内を歩いた。・・通りがかりの僧がわたしを呼び止め増上寺に兵士が宿泊しているので周囲から山内一円は撮影を禁じられている。憲兵に見とがめられ写真機を没収されないよう用心しなさいという。わたしは深く忠告に謝して急いで大門を出た。

岩波書店編集員が来て、濹東奇譚印税1470円を小切手で渡された。

9月15日、この日から19日まで点灯禁止令が出た。市中の到るところが騒がしく住民は仕事を投げ打っていたずらに狂奔しているかのようだ。銀座三越は夕方5時に閉店し歌舞伎座は休みとなった。銀座辺りの飲食店はたいがい夜7-8時に扉を閉めるという。

9月17日、浅草公園外のアパートを2-3軒見歩いた。・・わたしはすでに麻布の家にも住みあきただけでなく裏隣りに食品製造所ができて臭気物音がはなはだしく、また近所も数年来貸家が建て込み雰囲気が悪くなって移居した当時のような粛然とした趣がなくなった。また年々灯火禁止のさい家庭防火団などに呼び出されるところもあり、家一戸かまえるのは何かにつけ煩わしさが多くなるようなので下町の陋巷に身を隠そうと思うのだ。

灯火を点じることが出来ないので写真現像をしたあと、押し入れの中に夜具を敷きヴォルテールカンディードを読む。

9月18日、この夜も灯火を点じることができないので戸棚の中で本を読む。家康が言った起きて半畳寝て一畳の言葉を思い出してひそかに苦笑する。

9月19日、廓内で好事家が発行する雑誌洞房語園を見せられる。「たけくらべのモデル」という記事があった。

頭の長吉(鳶の息子) 松山正太郎 現在亡 江戸一の為は正太郎の弟

田中屋の正太郎 質商三木屋 饗庭三之助 亡 饗庭篁村弟 (定説ではない)

藤本信如 大音寺先代住職 加藤正道 亡

9月21日、牛肉が戦争のため値上げとなる。一人前ヒレ60銭のところ70銭余となる。

(9月22日、国共合作成る。紅軍は国民革命軍に編入された。)

9月25日、玉の井組合事務所の二階に花嫁学校というものがあって私娼に家政生け花などを習わせるという。

(9月28日、国際連盟が日本軍の都市空爆を非難する決議を採択)