荷風マイナス・ゼロ (49)

ジョン・ラーベ ナチ党員だったが南京で多くの市民の生命を救った。日本軍の暴虐を記録したラーベの日記をのこした。

 

12月1日、暮れがた例の如く浅草公園に行き中西屋で夕飯を食す。公園の飲食店の中では珈琲も15銭なので万事上等の方であろう。オペラ館あたりの芸人はハトヤ茶店という店を好むという。珈琲一杯5銭という。常盤座の演芸を立ち見してのち電車で上野を過ぎて帰る。

12月2日、午後小説執筆1-2時間でたちまち嫌になった。筆を放って浅草に行き中西で食事する。常盤座の演芸を見て帰る。

12月9日、浅草オペラ館立ち見。松喜で食事する。

12月10日、午後銀座富士アイスで食事後浅草を歩く。映画館地下室のカフェーに入ってみると、銀座辺りで見知りの女給がいた。雰囲気もそれほど悪くなく酔客も少ない。思ったより居心地は悪くない。

12月12日、夜浅草散歩。ちょうど興行の終わる時間だった。公園外柴崎町の大通りでオペラ館出演の男女二人が歩いていくのを見たので、ひそかにその後を尾行した。女は出来合いの品らしいコートを着、手にかかえた包みの中から毛糸編み物の棒が突き出ているのを、ときどき気にしながら行く。男は長めの外套に折り革鞄を提げていた。本願寺裏をすぎ松葉町の裏通りに立ち並んだ貸家の格子戸をあけて入ったが、女はすぐさま用ありげに走り出て表通りの漬物屋で沢庵漬けを買ってふたたび家の中に入った。二人は昼夜三回の演芸をして家に帰ってはじめて夕飯を食べるのだろう。わたしはいわれなく一抹の哀愁をおぼえた。

(南京陥落)

12月13日、浅草公園中西で夕飯を食べ、オペラ館に入ってひと眠りした。バンドの音楽に覚めれば夜はすでに初更だった。

12月14日、銀座で食事して浅草に行き花月劇場を見る。(1935年に開場した東京吉本の本拠地。エノケン、ロッパが有楽町に進出したあとを埋めた。)

12月16日、午後浅草漫歩。カフェージャポンで少し飲んで帰る。

12月17日、カフェージャポンで飲む。暁二時に閉店したので付近のハトヤ茶店で焼きパンを食べる。公園の飲食店はこの夜(羽子板市)大半あけがたまで営業した。

12月18日、浅草公園に行き中西喫茶店でジャポンの女給いち子と待ち合わせ、いっしょにオペラ館の演芸を見る。いち子と別れひとり今半で夕飯を食べる。

12月19日、浅草ジャポンで休む。帰り道女給らと雷門の蕎麦屋で一杯飲む。

12月20日浅草公園で食事し、オペラ館の新曲を聞き、カフェージャポンで憩う。酔客雑踏。三鞭酒を抜くものが少なくなかった。

12月22日、共産党員400余人捕縛の号外出る。(人民戦線事件)

12月23日、浅草公園ジャポンに憩う。女給いち子泥酔見るに忍びず。出てハトヤ茶店に入る。夜はすでに一時になろうとする。オペラ館男女の芸人が七八人いた。みな近所に住むもののようでジャムトーストをたずさえ帰る女優もある。可憐の思いを生じさせる。わたしは震災前帝国劇場の女優と交わりその生活を知った。かれらは技芸ははなはだ拙いにもかかわらず心がおごって愛すべきところ少なかった。今夜はからずもオペラ館女優の風俗を目撃し、その質素なことを見てますます可憐に思うのだった。

12月25日、夜浅草公園萬成座花月座立ち見。偶然玉の井広瀬方の女に逢う。ともにその家に行き、夜半また浅草公園を過ぎる。ハトヤ茶店に立ち寄って見ると、露店商人が帰途空腹を満たそうとするものまたオペラ館の踊り子大勢がストーブを取り巻いていた。公園の深夜でなければ見られぬ情景だろう。

12月27日、浅草に行き中西屋で食事する。灯火はたちまち燦爛とする。ハトヤ茶店前で常盤座出演の女優まり子に逢い千束町のお駒の家に行った。公園興行物の内幕ばなしを聞きいつか十二時近くなったので辞して帰る。

12月29日、この日夕刊紙上に全国ダンシングホール明春四月限りで閉止の令が出た。目下踊り子全国で2000余人いるという。この次はカフェー禁止そのまた次は小説禁止の令が出るであろう。恐るべし恐るべし。

12月30日、夕飯を浅草で食べようと灯ともしごろ公園に着く。オペラ館を立ち見してのち中西屋で食事し銀座に出て富士地下室で一茶する。

12月31日、暮れがた浅草で食事しカフェージャポンに憩う。除夜の鐘を聞く。女給いち子を連れ観音堂に賽銭をあげる。群衆雑踏してほとんど歩くことができない。雷門から電車に乗り銀座に出て夜市を看る。灯火は煌々として白日のようだ。芝口の金兵衛に行きいち子とともに茶漬け飯を食べる。いち子はわたしの家に来てすこし休んでのち麻布十番にあるという姉の家に行くと言って待たせておいた円タクに乗って去った。

 

(12月12日南京が占領されて以降、6週間にわたって南京大虐殺と今日呼ばれる中国国民への虐殺がつづいた。)