荷風マイナス・ゼロ (36)

12.12西安事件

昭和11年(1936)

 

12月3日、「燈刻渡辺夫妻(3P仲間)来る。共に富士見町に往きて飲む。夜半帰宅。」

12月7日、「午後土州橋の病院に往き、それより葛西橋に至る。写真撮影二三葉なり。境川停留場より五ノ橋通りにて電車を降り、三ノ輪行きのバスに乗りかえ、寺島町二丁目に至り、それより曳舟通の岸を歩む。寺島警察署あり。水を隔てて林亭演芸館という幟を出したる寄席あり。中村播磨蔵市川某などの幟も立てられたり。迂回したる小径を歩み行く中玉の井四部の裏に出でたり。自動車にて銀座に出で夕餉を食してかえる。」

12月12日、「土州橋より亀戸に至り、停車場付近の町を歩む。狐を箱に入れて占いをなすものあり。神籤の紙を幾枚となく狐の口許に持ち行けば、狐その中の一枚をくわえて引き抜くなり。しばらくして再び数枚の紙を差し出せば、狐はやはり以前引き抜きたる紙を口にくわえておとす。この紙にその人々の吉凶印刷してあるなり。山雀を馴らして歌がるたを取らせると同じことなるべし。されど狐を馴らしたるはもっとも巧みなりというべし。」

12月15日、「留守中中央公論社使いの者現金四百九十円を下女に渡して去る。下女これをそのまま手にして家に帰りし事を知り、深夜自動車を走らせ下女の家をさがし僅かに事なきを得たり。下女は一週間ほど前に雇入れしものにて毎日通勤するなり。」

12月16日、留守中、義絶していた弟威三郎が叔父阪本釤之助(枢密顧問官)の死を知らせに来た。荷風は若いころ阪本をモデルにした小説を書き、絶縁されていた。「余は言うまでもなくその葬式には参列せざるべし。」

12月26日、「晩間烏森に飯す。藝妓閨中の艶姿を写真に取ること七八葉なり。」

12月30日、「乗合バスにて小名木川にあたる。漫歩中川大橋をわたり、そのあたりの風景を写真にうつす。小名木川くさやという汽船乗り場に十七八の田舎娘髪を桃割れに結い盛装して桟橋に立ち船の来るを待つ。思うに浦安辺の漁家の娘の東京に出で工場に雇われたるが、親の病気を見舞わんとするにやあらん。しからずば大島町あたりの貧家の娘の近在に行きて酌婦とならんとするなるべし。五ノ橋の大通りに至りて乗合バスを待つに、若き職工風の男その妻らしき女に子を負わせ、二人とも大なる風呂敷包みをたずさえ三ノ輪行きの車の来るを待つ。およそこのあたりの街上のさま銀座とは異なりて何ともつかず物哀れにて情味深し。」

 

 

12月12日、西安事件が起き蒋介石が抗日を訴える張学良と楊城虎に監禁された。

張学良は北洋軍閥をひきいる父親の張作霖が、昭和3年(1928)に関東軍に爆殺されてから蒋介石の国民党政府に服属した。しかし安内攘外戦略で日本の侵略に立ち向かわない蒋介石に、しだいに不満をつのらせていた。

共産党の平定に力をそそぐあまりやすやすと満州国を成立させ、さらに万能感におちいった日本軍は華北に手を伸ばしていた。日本と衝突しても勝てないことは自明だから、安内攘外は軍略としては成り立つ。しかしそれはナショナリズムと排日行動を激化させ、権益保護を口実に日本軍がさらに侵攻する悪循環を生み出す政略だった。

一方、満州問題を国際連盟の手にゆだねる国民党外交戦略は功を奏し、日本は国際的孤立の道を歩んでいた。当初は防共の網をかけるために打ったドイツとの協定は、欧米中国に相手にされずさらに三国同盟の袋小路に突き進む運命にあった。

12月、対共産党の督戦に西安に赴いた蒋介石は、張楊二将軍によって身柄を確保され抗日への転換を迫られた。この兵を用いた諫言、兵諫は全中国を震撼させた。国民党を対日の主力と規定するソヴィエトと中国共産党や欧米は、仲介の手をのべて蒋介石を救った。解放された蒋介石はやがて抗日統一戦線へと転換し、日本との全面対決は避けられないものとなっていった。

1928年、1931年の関東軍の独走は軍人支配と日本滅亡を結果したが、1936年の張楊二将軍の兵諫は中国史の転換点となった。 百度