荷風マイナス・ゼロ (63)

仲よし三国

 

昭和15年(1940)

 

9月3日、寺島町の知った家を訪ねて帰る。この里も昨日から昼遊びの客を入れない。市中のカフェーと同じく夕五時から窓を明け泊り客は朝八時かぎり追い返すことになったという。広小路の屋台店もこの夜は数えるばかりに少なくなっていた。

9月5日、明夜からまたまた灯火禁止になると聞いたので夕餉してのち浅草オペラ館楽屋を訪ねる。帰途夜半の空を仰ぐと星斗森然銀河の影がとてもあざやかであった。市中ネオンサインの光なく街頭の灯火も今年に入ってにわかにその数を減らしたためであろう。

9月8日、物買いに銀座に行く。数年前おりおり見かけた車夫あがりの悪漢がまたもや松坂屋の前あたりを徘徊しているのを見る。恐るべきなり。

9月20日、文士中河与一が来て雑誌の原稿を請う。時勢の変遷を何とも感じない人間が世にはなお多いと見える。鈍感むしろ羨むべきである。(後に中河は文士の動向をスパイしていたと疑われている。)

9月23日、兜町辺りの噂によれば銀行預金引き出しもやがては制限されるであろう。世の中は遠からず魯西亜のようになるだろうという。いづれにもせよこの八月以来人心恟々、怨嗟の声が日とともに激しくなっていくようだ。いかなる巡りあわせかわが身も不可思議な時代に生まれ合わせたものである。(第二次近衛内閣のもと、日本型ファシズムといえる新体制運動が呼号された。八月に立憲民政党が解散し大政翼賛会に合流し、名実ともに議会政治が終焉した。)

9月26日、(全集発刊のごたごたがつづき)わたしは生前全集だけでなく著作を刊行することはこのさい断念したほうがいいと思うのである。わたしは現代の日本人から文学者芸術家などと目されることをのぞまない。わたしは現代の社会から忘却されることを願ってやまない。

9月28日、世の噂によれば日本はドイツ・イタリア両国と盟約を結んだという。愛国者は常に言う。日本には世界無類の日本精神なるものがあり外国の真似をするには及ばないと。それなのに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をする。国家の恥辱これより大なるものはない。その原因は種々であろうがわたしは畢竟、儒教の精神が衰滅したことによるものと思うのである。

三国同盟は9月27日成立した。海軍や宮廷内の反対論はあったが、欧州戦線でのドイツ勝利を見越して陸軍が「バスに乗り遅れるな」論で押し切った。英米をけん制して日中戦争を有利に運ぶ目的だった。)

9月30日、明日より六日まで世間はふたたび暗闇になり外出歩行が不便になるであろうから、灯刻銀座で食事してのち浅草に行く。・・九時ころ上野辺りまで歩いていこうと、入谷町の陋巷をすぎ根岸に出ると、とある喫茶店の門口に立ち通行人の袖を引く女給がいる。その様子いかにも淫卑であるので誘われるままに入って見ると、年ごろいづれも二十二三の女三人がぼんやりして片隅に腰かけているのみで客はひとりもいない。飲食物の用意もおぼつかない様子である。その時裏口から入ってきた一人の女給がわたしの顔を見て、あら旦那わたし気まりが悪いわといいながら抱きついてきた。この女は去年の夏ごろまで銀座二丁目裏通りの怪しげなカフェーにいたものなので心安いのを幸いにこの辺の様子を問うと、この店の女給は裏隣りの家の二階に間借りして、大丈夫なお客と見れば裏口から誘い一時間三円、十一時からお泊りは五円の商いをすると語った。表の看板はカフェーでなく喫茶店であるから午後でも客の出入りは自由である。四時五時ころがもっとも都合がいいといった。入谷から坂本辺りは明治のむかしから怪しげな小家が多い所。今日なお旧習を墨守する勇気は大いに感心すべきである。

 

10月1日、炭屋の亭主が勘定を取りに来て言う。市中の炭屋にはまだ炭一俵も来ないのに、さきほど通りがかった炭俵を満載したトラック荷台がいきおいよく宮様御屋敷の裏門に入ったのを見た。何物にかぎらず有るところには有るものでございますといかにも恨めしい口ぶりであった。今年はガス風呂も禁じられるという噂である。

10月2日、銀座四丁目四辻の電柱にラヂオ放送機を取り付けて流行軍歌の放送をしていた。銀座通りはさながらレビュウの舞台となり通行の女子は踊り子の行列を見るに異ならない。桜田門外の堀端には妙齢の女学生が群れをなし砂礫を運搬している。山椒大夫の伝説を目のあたりに見る思いがする。

10月3日、旧約聖書仏蘭西近世語訳本を読む。日本人排外思想のよって来るところを究めようと欲するだけでなく、わたしは耶蘇教仏教が今日にいたるまで果たしていかなる程度まで日本島国人種の思想生活を教化し得たのか知りたいと思う心が起きたからである。わたしは今日にいたるまでほとんど聖書を開いたことはなかった。今にわかにこうなったのは何のためか。

10月4日、終日旧約聖書を読む。唐玄奘西遊記をよむような興味がある。

10月5日、当月七日かぎりで洋服の売値が制限される・・日本服呉服も同じく定価買い付けとなるため目下投げ売りが盛んだとのこと。縮緬一反総匹田紋など三百円くらいのものが八九十円で手に入るという。水天宮四辻久留米絣の店は女洋服地専売になるとのこと。

10月7日、銀座尾張町をのぞき左右の横町にはタクシーの客待ちするものが一両もない。銀座界隈を遊廓同様の歓楽街としタクシー駐車場を廃止したためだという。しかし三原橋を渡り歌舞伎座東劇横には客待ちの車がかえって多くなった。運転手の話では浅草公園の周囲から向島玉の井辺り一帯に駐車場を廃止したので遊び客はバスか電車で行くよりほかなく、玉の井広小路には通りすぎる車は一台もなく屋台店もそのためだいぶ減少したという。(昭和初期からつづいていたタクシー排除、燃料政策の一環だろう。)

10月8日、八月このかた新聞紙の記事は日を追うにしたがっていよいよひどく人を絶望悲憤させる。今朝読売新聞の投書欄にある女学校の教師が虫を恐れる女子生徒を叱り運動場の樹木の毛虫を除去させたとの記事があった。このごろの気候から推察すると毛虫がつくのは山茶花または椿のたぐいで、その毛虫の害はもっとも恐るべきものである。・・都会に成長する女生徒に炎天に砂礫を運搬させまたは樹木の毛虫を取らさせて戦国の美風とするのはそもそもどんなわけだろう。教育家が事理を理解しないのもまたはなはだしいというべきである。

・・晩食の後浅草公園に行く。広小路から松竹座前通りタクシーの駐車場廃止となり一両の車もなく、街頭の眺望がにわかに広くなって並木の落ち葉が風に舞うのを見るばかりである。

10月10日、帝国大学慶応大学学生それぞれ数十名が共産党嫌疑で捕らえられる。新聞にはこの記事はないという。

10月11日、岩波書店十月勘定左のごとし。

腕くらべ 第五刷二回 5000部 金200円也

おかめ笹 第五刷一回 8000部 金320円也

雪解   第三刷一回 6000部 金120円也

〆金640円也

10月13日、銀座通りでかつて蠣殻町に住んでいた叶屋の婆に逢う。去年の暮れから神田辺りに移り玉突き場を営んでいるという。喫茶店に入って雑談する。浜松辺りでは妾の取り締まりのきびしいことは東京の比でない。ある商人の妾でわけもなく数日拘引されたものがいる。その旦那は呼び出されて厳しく説諭された上に妾を解雇しその給金若干円で国庫債券を買わされたという。京都では女子同伴の男をとらえ交番で衆人の面前で罵倒した巡査がいたという。世の中もこうなってはうっかりしては居られません。今までに待合稼業で相応に残しておきましたから、どうやら人様の世話にならずその日だけは送って行かれるつもりですと。叶屋婆の語るところがもし真実であれば日本人の羨望嫉妬は実に恐怖すべきものというべきである。

10月15日、十五夜の月が輝き出たが行くべきところもないので銀座三浦屋で舶来オリーブ塩漬けを買ってかえる。このごろは夕餉のおりにも夕刊新聞を手にする心がなくなった。時局迎合の記事論説読むにたえず。文壇劇界の傾向にいたってはむしろ憐憫にたえないものがあるからである。(即興詩一編を記す)

10月16日、(招魂社の祭で)銀座辺にも全国の僻地から駆り出された田舎漢たちが隊をなして横行するのを見る。

10月17日、築地劇場に関係ある者が数月前から拘留されていまだに放免されないという。

10月18日、(隣家の墺日二世が行儀悪いとして)日本人の教育を受ければ人みな野卑粗暴となることこの実例でも明らかだ。わたしが日本の支那朝鮮に進出するのを好まないのは悪しき影響を亜細亜州の他国人におよぼすことを恐れるからだ。

・・昭和七年暗殺団首魁井上橘出獄(血盟団井上日召、愛郷塾橘孝三郎

10月21日、ある人のはなしに書籍雑誌店も店数を減じ、閉店を命ぜられた家の主人は雑誌配給所の雇人となって給金をもらうことになった。先日、市内書店営業者一同その筋の呼び出しで内閣情報部に出頭したところ係の役人の他に二人の軍人が剣を帯びて出て来た。表には忠節とやらを説き聞かせ、裏には不平反対することを許さない勢いを見せたという。どんな店が配給所として残りどんな店が閉店の悲運にあうのか。世の中はいよいよ奇々怪々となったと言う。

(この日即興詩一編)

10月22日、佃茂のおかみさんが来て佃島名物のつくだ煮も公定価格の制限を受けたため従来のような上等の品はつくれない、この後は市中どこにでもあるようなまずい品ばかりになりますと語った。

10月24日、このごろふとした事から新体詩風のものをつくって見たがやや興味を覚えたので、灯下にヴェルレーヌ詩編中のサジェスを読む。戦乱の世に生をたのしみ悲しみを述べるには詩編の体を取るのがよいと思われたからである。散文であらわにこれを述べると筆禍がたちまち来るはずと知るからである。

・・九段参拝の群衆にまぎれ十六歳の女学生がスリをはたらき捕らえられる。

10月25日、雑誌新聞紙などに寄稿しないようになってわずかに半年ほどとなったが、このごろは訪問記者雑誌編集員の来ることがほとんどその跡をたった。

10月26日、日本橋の花村で食事する。魚類の相場が制限されてからこの老舗の飲食物もきわめて無味となりかつまた女中も次第に去って代わるものなく、料理人の女房家の娘などが女中に代わって給仕をするさまは商売はどうなってもかまわないと言わぬばかり。店に活気というものがない。遠からず閉店するつもりかと思われる。日本橋辺り街頭の光景も今はひっそりとして何の活気もなく半年前の景気は夢のごとくである。六時ごろ群衆の混雑は変わりないが、男女の服装は地味というより爺むさくなった。女は化粧せず身じまいを怠りひどく粗暴になっている。空は暗くなっても灯火が少ないので街頭は暗淡として家路をいそぐ男女、また電車に争い乗ろうとする群衆の雑踏、何となく避難民の群れを見るような思いがする。法令の嵐にもまれなびく民草とはこれであろう。

10月28日、市中商店の電気時計に再び不良と書いた貼り紙を見ることが多い。しかし今は怪しむものもなく、日常生活の万事万端不良不便であるが当然のこととあきらめているようだ。

10月29日、ギリシア・イタリア交戦。

10月30日、専制政治の風波はついに文筆家の生活をおびやかすにいたったと見え、本月に入ってから活版摺りの書状で入会を勧誘してくるものが急に多くなった。・・勧誘の手紙のひどく滑稽拙劣な一例として・・本会は特に文学の局部的機能を強調宣伝せんとするものではない。文学そのものの大使命を提げ文学報国の真意義を世に徹底せしめる・・

わたしは笑って言うがもしこの文言のようになろうとするならまず原稿をかく事をやめ手習いでもするより外に道はない。