荷風マイナス・ゼロ (64)

弥次喜多道中記 (1938 日活 マキノ正博監督)

昭和15年(1940)

 

11月1日、正午ちかく久保藤子という女が訪ねてくる。先月中蛎殻町にある怪しい周旋屋野口というものの一室で知り合いになったのである。その語るところを聞くと年は三十で三つになる娘がいる。三年ほど前に夫に死に別れ、深川三好町で材木屋を営む叔父の厄介になり、丸の内鉄道省文書課の雇となり毎月40円の給料をもらっている。しかし生活費もおいおい高くなり娘の将来も心配になったので二三月前から同じ省内の女事務員で心安いものの秘密をきき、かつまたその勧告で日陰の商売をするようになった。三四年の間にせいぜい稼いで貯金をし、おでん屋か煙草屋のような小商いの店を買う資金をつくり娘を教育するつもりだという。心安い同僚の女事務員というのは年二十八で毎月50円の旦那を三人もち八丁堀のアパートに住んでいるという。また鉄道省勤務時間は朝九時から午後四時までで朝の出勤は女にかぎり十五分の遅刻は大目に見て黙許するという。藤子は半日わが家にいて台所の掃除をし夜具寝巻の破れをつくろってくれた。・・彼女の処世談は親独新政治の世のかくれたる一面をうかがうに足るべきものであろう。(このごろ蛎殻町に行くと●マークがつくので、なじみになっていたようだ。映画を一緒に見た女性か?)

11月4日、世の噂を聞くと二月二十六日反乱の賊徒および濱口首相暗殺犯人はことごとく出獄放免されたという。

11月5日、この夜町の噂をきくと市中銀行預金引き出しは最大額一口1万円かぎりとし、かつその用途を申告するという。預け入れの場合は3万円以上は同じくその収納の理由を明らかにするという。国家破産の時期がいよいよ切迫してきたようだ。

11月7日、暮がた銀座をすぎると路傍に祭礼の高張り提灯など出し、町のさまが先月ころに比べればやや活気を帯びている。人の語るところをきくと、芝居の狂言なども少しはやわらかいものを演じても差し支えない。時間も夜十時を少しくらい過ぎてもよい。自粛自粛といってあまり窮屈にせずともよいと軍部から内々のお許しがあったという。しかし一説にはこのお許しは年末にかけて窮民が暴動をおこそうとすることを恐れたためで、来春に至れば政府の専横はいよいよひどくなるだろう。内閣はまたまた変わるだろう。国外へ追放される名士は数十名に及ぶだろうという。

11月8日、浅草公園に行く。帰途街頭にふたたび酔漢が多いのを見る。田原町地下鉄入口で格闘するものがいる。車中で大声に口論するものがいる。虎ノ門でカフェー帰りとおぼしき者が酔って争うのがいる。禁令が少しゆるむと見るやたちまちかくのごとき光景になる。呆れ果てたる国民だと言うべし。

11月9日、銀座通りの人出がおびただしいこと酉の市の比ではない。

11月10日、蛎殻町アパート秀明閣に野口老婆を訪ねる。私娼がふたり居合わせて赤飯を食っていた。今日は紀元二千六百年の祭礼で市中の料理屋カフェーでも規則によらず朝から酒を売るとのことで待合茶屋また連れ込み旅館なども臨検のおそれがないだろうと語り合い、やがてどこかへ出かけていった。老婆は茶を入れ替え赤飯をすすめる。白米もち米ともに埼玉県秩父郡のさる客から内々で送ってきたものだという。また切り炭は同じところから夜具の中につつみ鉄道便で送ってくるという。

・・このごろもっぱら人の言い伝える巷説をきくと、新政治家の中で末信、中野(正剛、ファシスト)、橋本その他の一味は過激な共産主義者である。軍人中この一味に加わるものがまた少なくない。そして近衛公は過激な革命運動を防止しようと苦心しつつある。近衛の運動費は久原(房之助)小林(一三)などから寄付したものを合わせて3000万円余に上る。新体制の一味徒党のなかには以上の二派があって両者の葛藤は遠からず社会の表面に出るだろうとのことである。

11月11日、銀座食堂で食事する。表通りは花電車を見ようとする群衆が雑踏し、四丁目四辻辺りはほとんど歩くことができない。裏通りに出ると乱酔した学生が隊を作って横行し、数人ずつ抱き合って放歌し乱舞するさまは醜陋見るにたえない。南鍋町四つ角の辺りがもっともひどい。

11月12日、銀座食堂に行き晩飯を食べる。ちょうど花電車数両が銀座通りを通るのに会う。街頭の群衆は歓呼し狂するようだ。・・回顧すれば花電車は昭和十一年の秋が最後でその後はなかったようだ。

11月14日、夜買い物に銀座に行く。砂糖その他またまた品切れという。菓子煮豆のたぐいが先日から品切れとなっていた。街頭には花電車の見物人が今もって雑踏していた。

11月16日、町会のものが来て炭配給権を渡してくれたのでさっそく出入りの炭屋に行く。ほどなく炭一俵をもってきたが以前のように親切に炭を切りなどせず俵のまま門口に置き認め印を求めて去った。今年は炭団練炭も思うようには売れないという。水天宮門前に花電車を数両並べて置いてあった。見物人が雑踏している。一両3000円かかったなどと語り合っていた。わたしが病院薬局の女の語るところを聞くには病院内で花電車を見たことがないというものが三分の二以上で、これを知るものは四十以上の者ばかりだとの事から推測して、現在東京に居住するものの大半は昭和十年以降地方から移り来たったものであると知った。浅草公園の芸人に東京生まれが少ないのもあやしむに足りない。時代の趣味が低落したのも理由がないわけではない。浪花節が国粋芸術といわれるのももっとも至極である。今回の新政治も田舎漢のつくり出したものと思えばそれほど驚くにもおよばない。フランス革命また明治維新の変などとはまったく性質を異にするものである。

11月19日、オペラ館文芸部小川丈夫は頭髪を五分刈りにして制服のようなものを着ていた。数か月前とは風采が一変してまったく別人となった。

11月20日、西銀座のある商店の主人に逢う。その人いわく銀座西側だけで徴兵に出るものが今年は170人ある。ほどなく南京あたりに送られるとのこと。成人の体格が今年は著しく悪くなったと検査の軍人どもが眉をひそめていたと。

11月21日、中央公論社社員来話。来春から定期刊行物の紙形が小さくなるとのこと。追って書籍も同じく小さい形になるという。

11月23日、暮れがた米屋の男が米を持ってきて言う。麻布区内で米穀配給所という事でわずかに閉店失業の悲運をまぬかれた店は5軒である。その他数十軒の米屋はみな店を閉じ雇人は満州に行って百姓になる訓練を受けていると。また米穀は警察署の印判を押してもらわないかぎり店へ運搬することができない、日曜祭日などつづくときは警官役人ともに休みとなり店に米がないときがある。不便ひとかたならないという。この度の改革でもっとも悲運に陥ったものは米屋と炭屋で、昔から一番手堅い商売といわれたものが一番早くつぶされ、料理屋芝居のような水商売が一番もうかるありさまは何とも不思議のいたりであると。この米屋の述懐である。

町の噂・・(2.26民間犯人のうち先日大赦出獄したものの一人が大豪遊した話。)

・・熱海旅館の組合では、内務省辺りより秘密の通達があったのを奇貨として、外国人にはできるかぎり物を高く売って外貨獲得の効果を収めようとしつつある。まぐろの刺身一皿16円、りんご一個1円づつ取る旅館があるという。現代日本人の愛国排外の行動はこの一小事をもって全般を推知するに難くない。八紘一宇などという言葉はどこを押せば出るものだろう。おへそが茶をわかす話である。(八紘一宇は1940年8月に第二次近衛内閣が大東亜新秩序を打ち上げ、公式に使われ出した。大東亜共栄圏のスローガンとなった。)

11月28日、中央公論社と全集刊行の契約をする。(手付金5万円)

・・去る12日、岩波書店との相談が不調となったのは同店がわたしの著述の著作権を5万円で全部買い取りたいと言い出したためである。

11月30日、午後嶋中氏が来て中央公論社創業五十五年記念祝いのしるしとして金子一封を贈られる。・・嶋中氏が去ったあと紙包みを開いて見ると100円札が5枚あった。・・最近数年間の雑誌出版業の利益が少なくないことが知れる。

 

12月1日、(前妻藤蔭静枝の回顧譚)

・・白米禁止一周年。

12月5日、銀座通りの商店食べ物屋をのぞきたいてい九時に灯を消す。明治四十年ころの光景を思わせる。

12月7日、(送られてきたという戯文を掲載。たぶん荷風筆)世上困窮挙国一致の自粛振りに人間ばかりではいかぬとあって今般鳥獣ならびに虫けらいろくず(魚)共一統・・(以下風刺滑稽譚がつづく)

12月8日、谷町に行って今月配給の砂糖マッチを買う。

12月9日、夜蛎殻町の野口を訪ねる。今年九月ころから新聞広告欄で求縁広告を出すことがむずかしくなった。住所をかくし郵便局に留め置きの返書を依頼することもまた郵便局で応じないようになった。いづれも警察署の干渉によるのだろうと野口のはなしである。

12月13日、芝口の菓子屋の店先に人々が列を作っているのを何事かと立ち寄って見ると、金鍔を焼くのを買おうとしている。女だけでなく、いかめしい髭を生やした男もいる。この頃はここだけでなく玉木屋の店、不二家の店、青柳、筑紫堂など食物を売る家の店先はどこも雑踏がひどい。餓鬼道のあさましさを見るようだ。町の角々には年賀状を廃せよ、国債を買え、健全なる娯楽をつくれなど勝手放題出放題のことを書いた立て札を出している。

12月16日、新体詩集偏奇館吟草を編む。

12月20日、(東京市長についての噂話)

12月22日、銀座通りから新橋停車場にかけての雑踏には、われがちに先を争おうとする険悪な風が著しいのに反して、浅草公園から雷門あたりの雑踏にはむかしながらの無邪気な趣、今なお失せないところがある。観世音の御利益ともいうべきか。

世上の噂をきくと、発句をつくるものたちが寄り合って日本俳家協会とやら称する組合をつくり、反社会的また廃頽的傾向のある発句を禁止する規約を作ったとのこと。この人々は発句の根本に反社会的なものがあることを知らないようだ。

12月24日、女が昼ごろ電話をかけてきた。赤十字社の女事務員でときどき私娼になるものである。この女は夜九時ころ訪ねてきていろいろの話の末に女事務員は事務所の外では多くの人に顔を知られないのをよいことにして内々でかせぐものが少なくないという。

12月26日、米屋の男が米を持ってくることを嫌がるようになった。電話で催促すると来年から砂糖同様に切符制になるので店に米が少ないためただ今のところ一二升づつならお分けできますと言った。

12月27日、オペラ館楽屋に遊ぶ。踊り子の一人がわたしの小説すみだ川の一節を取って流行歌にしたものがレコード屋にあるという。・・表面はすみだ川、裏面は森先生の高瀬舟である。何人がしたことであろうか。その悪戯、驚くべきである。(歌詞あり。歌手東海林太郎ポリドール楽団)

12月28日、暮れがた米屋の男が白米5升2円50銭を持ってきた。去年精米禁止以来、注文するたびごと2-3円づつ祝儀をやっていた効能だろう。

12月31日、芝口の金兵衛に行って食事する。主人が仙台から取り寄せた餅だといって数片をもらう。この年の暮れは白米だけでなく玉子煮豆昆布〆その他新春の食物が手に入り難いからであろう。

・・今年は思いがけないことばかり多い年だった。米屋炭屋、菓子など商うものまた金物木綿などの問屋、すべて手堅い商人は商売が立ちゆきがたく先祖代々の家倉を売ったものも少なくないのに、雑誌発行人芝居興行師のような水商売をするもので一人として口腹を肥やさないものはいない。・・この度の変乱で戊辰の革命の真相もはじめて洞察し得たような心地がする。これを要するに世の中はつまらないものである。・・弥次喜多のごとく人生の道を行くべし。