荷風マイナス・ゼロ (74)

ガダルカナル島


ニューギニアの東隣にニューブリテン島があり、1942年1月に日本軍は英濠軍を破り占領した。ラバウルに要塞が造られ敗戦まで存続した。水木しげるラバウルに送りこまれ、かろうじて生き残っている。

そこから1000km南東にガダルカナル島があり、オーストラリア攻略のためそこをも要塞化しようと日本軍は労働者(大半が朝鮮人)を送り飛行場を建設した。8月5日に完成したが7日に米軍が奇襲をかけて占領し、ヘンダーソン飛行場と改名した(地図上のAir Strip)。米軍の反攻は翌年までないと予想していたため、600名の守備隊しかおらず抵抗の余地もなかった。

以後ガダルカナル島をめぐり日米の攻防がつづくが、大量の兵員を送りこみいくつかの海戦をはさんでも制空権をにぎられているため日本軍は犠牲をふやすばかりだった。輸送船団はことごとく沈められ、武器食料の補給がない兵たちは飢えた。12月31日に撤退命令が出されたが、日本軍3万の半数が餓死戦病死したと考えられている。初めての米軍による反攻で、ミッドウェーにつづく太平洋戦争の転換点とされる。

 

昭和18年(1943)

 

1月1日、炭を惜しむため正午になるのを待って起き出て台所で焜炉に火を起こす。焚きつけは割り箸の古いものまたは庭木の枯れ枝を用いる。暖かい日に庭を歩み枯れ枝を拾い集めることも仙人めいて興味なくもない。焜炉に炭火のおこるのを待って米一合をといでかしぐ。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐいのみである。時には町で買った菜漬沢庵漬を食うこともある。しかし水で洗うのがいかにもつらい。とかくして飯を食い終われば午後二時となり、室内を掃除して顔を洗う時はいつか三時を過ぎ、煙草など吞んでいるうち日は傾いてたちまち暗くなるのである。これは去年十二月以降の生活。ただ生きているというだけである。

町の噂

一 銀座尾張町西側の老舗二軒、そのひとつは足袋屋、そのひとつは大黒屋という塩物屋、いづれも去年十一月ころに店を閉ざした。大黒屋は薬舗丸八と同じく銀座の大地主で当代の主人は一時役者のような身なりをしてダイヤモンドの指輪を三つ四つもはめ、純金の杖をたずさえて歩くほど気障な男だという。

一 去年横浜港桟橋に横づけしたドイツ軍艦二隻は支那人の仕掛けた爆弾のため破壊されドイツから送られた軍用機械もまた破壊されたという。

一 浅草公園の道化役者清水金一は公園内の飲食店で殴打され一時舞台を休んだという。なおまたエノケン緑波などという道化役者の見物を笑わせる芝居は不真面目なので芸風を改めよとその筋から命令があったという。

1月3日、三時過ぎ地下鉄で浅草に行って見ると、群衆の雑踏すること今年はさらにひどく去年の比ではない。雷門から東武駅の内外は真に立錐の余地もない。仲見世も人並みに押し返されて歩きにくいので観音堂に詣でることもできない、また玉の井にも行けないので、上野行の市電に乗る。市電はどこも思いのほか雑踏せず。広小路の夜店を見歩き新橋をすぎて帰る。

1月8日、河風もそれほど寒くないので箱崎川の岸に沿って歩き新大橋に出る。乗合の汽船で永代橋に行こうとすると桟橋も札売り場も取り払われて跡もない。岸の上に立って川下川上を見渡すと曳船が石炭船をひいて行くだけでかの一銭蒸気の形は見えない。ここにおいてこれも時勢のために廃滅したことを初めて知ることができた。一銭蒸気は明治時代のなつかしい形見でさてもさても惜しむべきことである。

1月13日、去年の暮に町会から売りつけられた国債を現金に換えようと午後兜町山二商店に行く。店長は三十年前からの知り合いである。

・・オペラ館楽屋を訪ねるともと常盤座にいた踊り子四五名が今年正月からこの楽屋に来たといってみな喜んでわたしを迎える。この別天地にはかつて戦争の気分がない。夕方芝口に行こうとして楽屋を出るとどこの煙草屋にも人々がその店先に長蛇の列をつくっていた。去年の暮れから煙草の品切れが今にいたって続いているからである。値上げがしたいなら早く値上げをするがいい。いたずらに品切れをつづけて人民を苦しめるのは思うに得な政策ではないであろう。

1月18日、25銭の巻煙草45銭となる。

1月19日、町中に流言あり。ロシア侵略のドイツ軍はなはだふるわず。また北アフリカ遠征の米軍が地中海からイタリアをおびやかしつつあるという。願わくばこの流言が真実であろうことを。

(東部戦線ではドイツが夏季攻勢でスターリングラードまで迫ったが、9月からソ連軍が反攻しドイツ第6軍を完全に包囲した。同軍は2月2日に消滅した。85万人の死傷者と10万人の投降者を出した。北アフリカでは、1942年11月のエルアラメインの戦いで敗北したロンメルはエジプトから撤退した。)

1月20日、市内の経師屋はこのごろ麩糊のよいものがなくなったため掛け軸の注文は馴染みの顧客でなければ引き受けないようになったという。

・・風が静かで暖かなので今日もまた食うものをあさろうと千住に行く。大橋のあたりではかつて軒並みに名物の佃煮を売る店があったが今は残らず戸を閉ざしていた。葛餅を売る問屋だけ一軒もとのように人々が行列をしていた。

1月21日、小堀四郎氏は先日その夫人(小堀杏奴)とともに来訪の際わが家の炭火が乏しいのを見て近いうちに炭俵を送りましょうと言われたが、果たしてその通りに、今日の午後豪徳寺ほとりの家から遠路をいとわず炭俵を自転車に積んで訪ねて来た。深情謝するにことばなし。氏の親切でことしの冬はこごえずに過ごすことができるであろう。

1月25日、街談録

〇ある人が昭和十二年から今年まで日本政府が浪費した戦費を合計しこれを支那軍隊戦死者の頭数に割り当てて見たところ一人当たり約2000円になったという。すなわち支那人を一人殺すのに2000円を費やしたことになる。このたびの戦争の愚劣なることこれをもって推察することが出来る。

〇(2.26参加の兵卒で議事堂に立てこもってのち帰順した一隊はすぐに武装解除され、数日後汽車に乗せられたが車窓は密閉されたままでどこに送られるかもわからなかった。やがて船に乗せられ上陸した港は釜山らしかったが、そこからまた行く先のわからぬ汽車に積載された。最後に下車したのはハルピンで同僚八人はここで分けられ、その一人は蒙古の名も知れぬ要塞の守備隊に編入され、昭和十六年まで六年間勤務し去年ようやく帰国除隊を命ぜられた。六年間勤めてわずかに上等兵になっただけだった。その男は除隊後現在は大森のある工場の職工になっているという。)

1月29日、日光街道の杉並木を伐って軍事用材とするとの風説がさかんである。またかの杉並木の杉はあまりに年を経ているので油気が失せ用材には適さないというものもいる。いずれにせよ国家の窮状あわれむべきである。

1月31日、金兵衛で食事する。来合わす人々が語るのを聞くと川崎の女郎屋で玉川の丸子園という連れ込み宿はすでに兵器工場職工の宿舎となった。大森品川辺りの待合料理屋もまた近いうちに同じ悲運に陥るだろうという。人心の不安は日を追ってひどくなっていく。

 

2月3日、電話局からわが家の電話を三月三十一日かぎりで取り上げると通知書が来る。また町会から本年中隔月に150-60円債権を押し売りすることを申し来たった。和寇の災害はいよいよ身辺に迫ってきた。

2月4日、ロシア軍大勝を博すという。喜ぶべし。

2月5日、合羽橋のほとりでニ三年前オペラ館に雇われていた踊り子に逢う。満州興行の一座に加わりさすらいの旅から帰ってきたばかりだと言った。とある漬物屋に惣菜の筍を売るのを見て買うと100匁1円だという。わたしは浅草辺りを歩くときはかならず風呂敷に包んだ重箱をたずさえてよさそうな物があれば買ってかえるのである。漬物惣菜のたぐいはわが家の近くよりも浅草辺りの陋巷にかえって味のよいものが多い。玉の井中島湯の向こう側の煮しめ屋にも時々味のよいものがある。

2月7日、夜読書のかたわら火鉢で林檎を煮てジャムを作る。砂糖は先日歌舞伎座の人からもらったのである。(リンゴは菅原明朗から)

2月9日、わが家に配給された石鹸、粗悪で使用しないものが数個あったので踊り子に贈る。先月から座付きの踊り子が激増して二十余人となった。

2月14日、阿部雪子という女から羊羹をもらう。(不思議な女性阿部雪子の初出)

・・(いとこの大島五叟が三味線職人の男を連れてくる)この職人をわたしの代理人にして町会で防空演習の際出てもらうことにしたのである。

2月19日、噂のききがき

荏原区馬込あたりでは良家の妻女で年ニ十才から四十才までのものを駆り出し落下傘米軍襲撃を防御する訓練をしたという。その方法は女らがめいめいに竹槍をつくりこれを携え米兵が落下傘で地上に降り立つとき、竹槍で米兵の眉間を突く計略だという。軍部から竹槍の教師が来て三日間朝十時から午後三時まで休まず稽古をしたという。怪我した女もあったという。良家の妻女に槍でつく稽古をさせるとは滑稽至極。何やら猥褻な小咄を聞くようである。(馬込は高級住宅地。それつけやれつけの連想だろう。)

2月21日、(金兵衛で)炭が欠乏して魚を焼くことができないといって料理はことごとく煮たものばかりである。

2月22日、洗濯屋の主人が来て米が欠乏しているという。五升ほどやる。このごろ日々の見聞は食物のことばかりである。

 

3月1日、タクシーは夜九時で切り上げ。電車は十一時半ころ切り上げとなり、世間はますます暗黒に陥る。待合茶屋勘定税金二十割という。

3月5日、池上あたりでは庭木もやがて材木にするため強制的に伐り倒されるところがあるようになったという。

3月6日、午後オペラ館楽屋に行く。このごろ公園の興行場は午後から夕方近くどこも大入り満員。夜はかえって見物が少なくなったという。

3月8日、流言録

築地二丁目に河庄という待合がある。おかみさんは大正の初めころ浦子といった新橋の芸妓である。この待合は上海戦争のころから陸軍将校の遊び場となった。塀外に憲兵の立番をしている晩は軍人中でも大頭の者が攀柳落花の戯れに耽る時だという。今年三月一日は芸者買いに二十割の税金がかかる最初の夜だったが、軍人の宴会があった。東條大将は軍服のままで公然と自動車を寄せたとこれを目撃したものの話をここに記す。

3月10日、早朝から飛行機の音が轟然としている。今日は市民一般は外出のさいは男は糞色服にゲートル。女は百姓袴(もんぺ)を着用すべしとその筋から御触れがあったという。

3月11日、午後浅草公園を歩いてオペラ館楽屋で休む。女優のなにがしが詩を作った、昨夜稽古がおそくなり電車バスがなくなり暗い町を歩いて鶯谷の家にかえる道すがら作ったといって書いたものを出して見せる。商女不知亡国恨のおもむきがある。(杜牧の詩。酒家の伎女は亡国の詩を歌ってもその意味を知らない)浅草は何かにつけて忘れがたきところである。

3月13日、午後阿部来話。餅をもらう。(阿部雪子は勤め人で荷風からフランス語を教わっていた。)

3月14日、平田禿木歿行年七十一という。(一葉文学界同人)

3月15日、オペラ館女優踊り子らと木馬館裏のベンチで笑談する。露店の甘酒は店ごとに値段がちがう。ひとつは8銭、ひとつは10銭、また12銭というのもある。どれを味わっても薄くて甘味にとぼしいのは同じである。角のビヤホールの前には夕方五時の開店を待って行列の人が長蛇をなしている。

3月25日、午後土洲橋に行き薬と診断書をもらって帰る。ガス風呂を焚くため医師の診察書が必要なためである。

3月28日、浅草に行く。田原町表通り猪料理山口屋の店先に人が多く立っているので喧嘩かと近寄って見ると何かわからないが鶴くらいの大きさの鳥を幾羽となく束にして吊り下げているのを通行の人はみな歩みをとどめて眺めていた。そのなかにはぼんやり口をあけてよだれを流さぬばかりに見とれていたものもいた。市民飢餓のありさま哀れむべし。

流言録

一昨年翼賛会成立ののち日々街頭に掲示されたポスターの意匠文案をつくったのはもと奈良の筆墨商古梅園の家に生まれた一青年だという。・・その家の息子某は二科の洋画家だったがどんな伝手を得たのか、翼賛会に入りこみポスター文案の専任者となった。昭和十五年二千六百年祭のころ町の辻々に立てられた「祭は終わったさあ働こう」という掲示、また「贅沢は敵だ」「進め一億火の玉だ」といったたぐいのものはみな古梅園の息子が案出したものだという。年齢は四十がらみで色がわりのきざな洋服を着て一見活動写真俳優のような風采の男だという。銀座で聞いた。

3月30日、向島漫歩。・・小道の角々に黄色い服を着た男が四五人ずつ立っているので道をきくついでに防火演習が始まるのかと問うと、夕方五時から寺島町吾妻町あたり一帯で演習すると答えたので曳舟通りを歩き玉の井の色里に行ってみた。演習はすでに始まり女たちが路地の中にあつまり屋根に梯子をかけてポンプで水をそそぐものありバケツを運ぶものあり。叫声笑声が相交って喧噪かぎりない。前から知る家に立ち寄り留守番の老婆と語る。このほど警察署長が代わってむやみにやかましく商売がしにくくなりました。燃料節約とやらでお客さまにお茶さえ上げられなくなりましたからお茶代ももらえませんと嘆息した。

3月31日、去年中オペラ館の舞台に出ていた男の俳優某、徴用令で職工になり右手の五指を失ったものに逢う。兵卒ならば名誉の負傷者として過分の手当てにもありつけるのに工場から解雇されひどく困窮しているという。・・帰途電車で一人の酔漢五十年輩の洋服姿が乗り合わせたドイツ水兵二名に戯れているのを見る。醜態憎むべし。

 

赤印はマイコープ。

 

ミッドウェーとならぶ第二次大戦の転換点とされる欧州東部戦線でのドイツ軍の敗北は、1942年の夏季攻勢の結果としてもたらされた。ドイツ軍攻勢は物流のハブで軍需工場拠点のスターリングラードヴォルゴグラード)攻略と、現アゼルバイジャンバクー油田占領をめざしたものだった。後者はカフカス山脈を越えなければならず、すでに精神の平衡を失っていたヒトラーの妄想の産物だった。戦力を二手に分けたためロストフ攻略までは容易だったが、スターリングラードの手前で進攻は止まってしまった。

 

ドイツ軍夏季攻勢

 

同市ははげしい空爆で全市が廃墟となり戦術目標は達したものの、ヒトラーは完全制圧に固執し瓦礫の町の争奪をめぐって8月から独ソの市街戦が開始された。バクーをめざした軍は南部マイコープの油田に達したが、すでにソ連軍に破壊されドイツ軍は燃料調達ができなかった。マイコープは「春の祭典」のモデルとなった、クルガン文化発祥の地だ。

スターリングラードの制圧がほぼ近づいたころ、11月から市の外縁でのソ連軍の攻撃が開始されドイツ第6軍は逆に包囲されてしまった。それでもヒトラーは死守を命じたので、撤退もできず第6軍85万人の命運は尽きた。同時にソ連軍の全面反攻が行われ、ドイツ軍は占領地からの敗走をかさね欧州戦線の大勢が定まった。

 

ソ連軍反攻。