荷風マイナス・ゼロ (73)



太平洋戦争での日本の最大範囲 都市空襲を阻止するための6月ミッドウェー攻略失敗が、戦争の転換点となった。しかしまだ連合軍には空爆を続ける力はなかった。次にソロモン諸島ガダルカナル島の攻防が焦点となり長期戦が翌年2月まで戦われた。

 

昭和17年(1942)

 

10月1日、新橋駅のほとりを過ぎる。路傍の広告を見ると頭山満翁口述英雄を語ると書いたものがある。勤皇志士遺墨展覧会またソロモン海戦記またマレイ語教授の広告。それに続いて陸軍大将宇垣一成民族科学講習会などいうのもある。停車場入り口には国民服の小役人が机を据え弾丸債権というものを売ろうとして声をからして通行人を呼び止める。・・金兵衛の戸口をくぐると食卓についた一人の客が店のものに向かいしきりに米国飛行機襲来の日が近いと語っていた。

10月2日、久しくオペラ館を訪ねなかったので夕食の後おもむいてみると踊り子の多くが去って残ったものは七八人となった。この春ごろまでは少ない時でも二十人ぐらい居たのである。金龍館常盤座でも踊り子が少なくなってレビュウの演芸が困難になったという。この夜オペラ館の演芸はいつもの軍歌剣劇とか称するもので何の面白いところもないが見物は相応の入りであった。

10月3日、人の話にジョニーウォーカーウィスキー一壜金100円。キュラッソー4-50円。ベルモット3-40円くらいだという。

10月6日、ある人のはなしに市中の色町の薬屋に花柳病予防のサックが品切れになったという。

10月11日、門外に遊ぶ子供のはなしを聞くと今日から時計の時間が変わって軍隊風になるという。午後の一時を十三時に二時を十四時などと呼ぶという。

10月24日、偏奇館修繕費350円余を支払う。

10月28日、浅草公園に行く。仲見世の菓子屋はおおかた玩具屋となり角の紅梅焼は半ば戸を閉めていた。

 

11月2日、午後浅草を歩く。観音堂階前の鉄製用水桶、唐金燈籠、仏像および弁天山の釣り鐘などみな恙ない。鳩もまだ餓死していない。弁天山下のベンチに十七八の娘が襟付の袷に前掛けをしめ雑誌を読んでいるのを見る。明治時代の女風俗をそのまま見ることができるのはこの土地以外にはないだろう。

11月6日、野菜も切符で買うようになった。八百屋も町会で定めた店のほかは他の店では売らないようになった。結局野菜の欠乏がはなはだしくなったためであろう。野菜は冷凍して南洋占領地に送るのであるという。東京市民の飢餓も遠くないであろう。

11月12日、門前の落ち葉を掃いているとき菊の鉢植えを売りに来たものがいたので二鉢ほど買った。一鉢3円だといった。

11月16日、浅草に行く。東橋際の乾物問屋で葛を買う。100匁1円80銭だという。物価の騰貴が測り知れない。仲見世を過ぎるとき人はそれほど雑踏せず、酉の市の熊手を持つ人も多くなかった。オペラ館楽屋に入るとかつてこの座の作者だった小川丈夫が来合わせたので踊り子の大部屋に入って語る。・・舞台裏でレヴューの踊りを見ていた時ギャングの親分岡田という男が来て書幅にぜひ揮毫してほしいという。

・・人々の語るのを聞くと来十二月からガス風呂を焚くことを禁止されるという。

11月22日、政変以来作品を公表せずいわゆる文壇からまったく隠退したので出版商新聞記者文学志望者など雑客が門を叩くことが跡を絶った。これは最も喜ぶべきことだ。

11月24日、十一月になって今年のように毎日よく晴れて暖かい日が打ち続くことはいまだかつて知らなかったことである。乱世のさまも打ち忘れ人間生命のうれしさがただ訳もなく味わい知れる天気といえる。

11月30日、熱海大洋ホテル主人木戸氏電話でついに徴集され我孫子高射砲兵営に送られると通知あり。

・・南鍋町サロンハル閉店(濃厚サーヴィスで知られた)。

 

12月1日、本年配給の炭が立ち消えして火鉢の灰に埋めることができない。小さい七輪に入れておこす。・・立ち消えの粉炭うらむ日暮れかな。

12月4日、短編小説軍服起稿。

12月5日、金兵衛で食事する。隣席の酔客が語るのを聞くと日本橋通り高島屋デパートで奢侈禁制品に入る絵葉模様金銀縫い取りの呉服物を作っていると、刑事らが探知し厳しく取り調べると、注文先は東条首相の妻女らとわかり刑事らそのまま手を引っ込めたと。

12月8日、短編軍服を中央公論社嶋中氏に郵送する。・・このごろ市中は街灯を点じない。道路は暗然としている。横浜港内で怪火爆発の事があったためという。

12月11日、町会および隣組から市民税の五倍の金額に相当する国債を買えと町内各戸に触れ回った。わたしの市民税は40円なのでこの年の暮れに迫って200円あまり奪い取られることになった。

12月12日、嶋中氏から返書があった。小説軍服は掲載中止となる。

12月26日、今月初めからガス風呂は医者の診断書がなければ禁止とのことにつき夕方土洲橋の病院に行き帰途金兵衛に立ち寄り夕飯を食べる。

12月27日、朝早く起き出るときは炭を費やすことが少なくないので昼近く日陰が窓に射しこむころ寝床を出て米をといで炊く。冬寒くなってから毎日このようである。四時ごろ家を出て浅草に行って見たが買おうと思う食料品が得られずあたりを散歩する。東武鉄道停車場には日曜日にかぎり近県の温泉遊山場行きの切符を売らないためか人がはなはだしく雑踏しない。興行町もそれほど騒がしくなく世の中は追々真底から疲労していくようだ。

12月28日、砂糖闇相場一貫目17-8円という。

12月29日、新橋上野その他の停車場では年末の旅行者を制限し切符を売らずそのため地方から上京している者たちは年内には家に帰ることができず困却しつつあるという。

12月31日、隣家のオーストリア人から芋大根蕪をもらう。これは日頃わたしが牛肉配給券を贈る返礼だろう。肉類は配給されても硬くて食い難いのでつねに隣家に贈るのである。

・・新橋駅付近は街灯薄暗く寒風吹きすさび行く人もまた稀なので大晦日の夜とも思われない。銀座通りも同じであろう。

・・今月から配給米に玉蜀黍をまぜるに至り消化がますます悪い。世の噂に来春から玄米になるとのことであるからわが胃腸の消化力がはたしてこれによく抵抗することができるか否か。余命のほどもおおかた予測することができる。宋詩に世間多事悔長生ということもあるのであまり長生きはしたくない。これを今年除夜の言とする。