荷風マイナス・ゼロ (72)

妖絃怪猫伝(1938)

 

昭和17年(1942)

 

7月15日、町会の役員が来て防空用古樽金7円、むしろ一枚4円づつを取りに来る。

高価驚くべし。

7月16日、この日税務署の通知を見ると本年はまた去年よりも多く一回分623円40銭、一年分で金2490円60銭となる。わたしの実収の三分の一は税金として取り上げられるのである。戦争の被害はいよいよひどくなった。世の噂をきくと日本橋通の山形屋浅草田原町の池田園など江戸時代からの旧家がいづれも税金の負担に堪えず閉店したという。

7月21日、浅草に行く。公園に入ると盆過ぎで人出が少ない。区役所の入り口に日本皇道会とかいた高張提灯を出し赤尾敏の名をかかげていた。入場料20銭払って入る者が少なくない。浅草はいかなる世でも面白おかしい所である。

7月23日、銀座尾張町乾物屋大黒屋が閉店したという。

7月31日、今宵は氷があると見えどこの氷屋にも人がむらがっていた。氷水一杯10銭でその量はむかしの半分よりも少ない。

 

8月10日、先月ころより市中にチリ紙が品切れだったがこの度配給制となり一日一人分三枚あてだという。

8月12日、金兵衛に行くと料理場の男二人いずれも妻子あり年三十四五が徴用令でニ三日中に軍需工場に送られるという。

8月15日、金兵衛で食事する。隣家の亀寿司で軍人が酔って刀を抜き客ニ三人女中などを斬った騒ぎがあった。宵の口で人が出盛るころだったので近所一帯に大騒ぎとなった。

8月20日、昨日電話で幸橋税務署へ出頭すべしと言ってきた。午後におもむいて直税課長に面談した。文筆所得金6000円だったのを3000円とした。

8月22日、町中に噂あって煙草専売局が廃止され煙草の制作が中止されるであろう、軍人関係のところへは支那製の煙草を輸入し市中には一時煙草がなくなるだろうと。

8月25日、今年は女の洋服がその裾いよいよ短くなって膝頭すれすれである。白粉つけずに日に焼けた顔に剃刀をあてたこともないようで頭髪は蓬のように乱れ近寄れば汗くさい。

8月27日、電車内で偶然もとタイガーの女給で昭和八九年ごろイタリア大使の妾となっていた信子というものに逢った。年はすでに三十四五であろうにむかしに変わらず二十四五に見える。西銀座のある酒場に行って働いていると語った。世界の形勢時代の変遷には少しも煩わされることなくその境遇の変化にさえそれほど心を労さない様子である。これを見るにつけ無智の女ほど強いものはない。

 

9月5日、夕方食事のため新橋駅を過ぎる時に巡査刑事らが不良少年を検挙するのを見る。

9月8日、金兵衛で食事する。居合わせた客からいろいろの話を聞いたまま記す。

一 (小田急の相模原に土地を所有していた人がいた。突然憲兵署に呼び出されこの辺の土地は軍部で入用になったので即刻ゆずりわたせ、日本国内の土地はもともと皇室のものなので書面に署名捺印すべしといわれ、憲兵の言のとおりに捺印した。時価15-6円の土地の買い上げわずかに5円だったという。)

一 仙台辺りでは日曜日に釣竿を持ち歩くものを、憲兵が私服で尾行し、人のないところに至るとこれを捕らえ工場その他の構内の雑草を取らせあるいは土を運ばせ、1日の賃金80銭を与えて放免するという。

一 伊豆西側の海岸に山林をもつ人のはなしに、その地のミカン園は除虫剤と肥料欠乏のため樹木が次第に枯れ今年は果実の収穫がおぼつかないという。

9月11日、芝浦波止場付近では憲兵が私服で見張りしてその辺を徘徊するものは誰かれの区別なく拘引するという。先日ひとりの洋装した女を捕らえたところ、この女は靴下をとめる金具のなかに小さい写真機を装置し、ときどきスカートをまくり靴下が下りたのを引き上げるふりをして港内停泊の運送船などを撮影していたという。写真機は米国製で日本にはないものという。

9月16日、東京でいままで名物といわれるものを作っていた老舗はおおかた店を閉ざした。蔵前の鮒佐、並木の濱金、築地の佃茂その他なお多いだろう。

9月20日、噂によれば化物の見世物怪談および猫騒動の芝居など禁止されたという。

9月29日、十日ほど前から両足と両手がマヒして起き伏しが自由にならず歩行するときよろめきがちになった。また灯下に細字を書くことが困難となった。昨日土洲橋に行って診察を請うたが病状明らかならず治療の道はないようだ。わたしの生命もいよいよ終局に近づいたようだ。乱世の生活は幸福でない、死は救いの手である、悲しみにおよばずむしろ喜ぶべきである。

9月30日、門外で遊ぶ子供の話を聞くと文房具屋の店に墨が品切れになったという。