春の祭典

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1913年初演再建版「春の祭典

 

ニジンスキー振付の春の祭典の舞台は、後のルーシとなる黒海北の中央ユーラシアのどこかだ。発案者のひとりニコライ・リョーリフはスキタイを念頭に置いていた。
スキタイといってもアジアとヨーロッパを支配した遊牧民ではなく、その隷属下の農民スキタイだ。ほら吹きのヘロドトスによればスキタイにも数種あって、農耕に従事したスキタイがいたとされている。
農民だというのは、祭典が農耕儀礼とそれにともなう人身御供に他ならないからだ。よりよい収穫と共同体成員の命を、神Yarilo と交換する取引がおこなわれる。あいにくそれは因果関係を取り違えた迷信で、犠牲者はむだ死なのだが。

 

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19世紀から20世紀にかけて、列強のゲームに参加したロシア帝国の南下膨張とともにスラブ主義が台頭した。スラブ故地がもとめられ、オスマン帝国と争う中央アジアの草原が脚光を浴びるようになった。そしてスラブの起源も、古代に覇をとなえたスキタイと結びつけられることとなった。


バレエ・リュスに協力していたリョーリフは画家であると同時に考古学者でもあり、マイコープ文化の発掘に参加したことがあった。リョーリフはそこで人身供御の痕跡を発見し、そのころから「春の祭典」を着想していた。作品化にあたっては舞台美術や衣装も提供している。

衣装はロシア農民のものだが、初期農耕社会の素朴な意匠はアメリカ原住民や邪馬台国のものといっても通じるところがある。スキタイらしさは、男のかぶる尖り帽子にわずかに現れている。
リョーリフは後に神智学に近づき、晩年はインドの研究に従事した。

 

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 リョーリフによる設定画

 

春の祭典」初演時の騒動についてはすでに伝説化しているが、ストラヴィンスキーの音楽、リョーリフの美術といったバレエの常套を越えた趣向以上にニジンスキーの動作設計に革命性を感じる。
しかしその振付は初演以降うち捨てられ、1987年になってやっと再建された。「牧神の午後」ではギリシア絵画の平面的描写が模倣されたが、「春の祭典」はリョーリフの描いた犠牲者のこわばった姿態が参考にされている。

 

ニジンスキーの前衛性は、生贄のふるまいに見ることができる。運悪くはずれ籤を引いてしまった少女は、従容としてあるいは英雄的に共同体の掟に従うのではなく、運命にあらがって悲嘆してそれを受け入れるのでもない。
殺虫剤を撒かれた虫のようにただ飛び跳ねるのだ。「春の祭典」初演翌年に勃発した第一次世界大戦で毒ガスを浴びた塹壕の兵士のように。