荷風マイナス・ゼロ (58)

南北にハルハ川、下の横線がホルステン川。何もない土地だ。ハルハ東岸の日本軍第23師団は、ホルステン南岸から縦に30kmにわたって高地に拠った陣地を築いて展開していた。

 

昭和14年(1939)

 

8月3日、「午後谷中氏浅草より電話にて、この頃警察署にて余および谷中氏の身辺に注意することしきりなる由。オペラ館楽屋衣装方の女池の縁の交番より親しく聞き来たりし由を報ず。こは兼ねてより予想せしことなれば、今宵は浅草に行かず・・直に電車にて家にかえりぬ。日本という国にては一個人単独にて事をなせば必ず障礙を生ず。集団の力を借る時は法を犯すもまた容易なり。たまたま余のごとき一文人が楽屋の生活を観察せんとするもまた能く志を遂る能わざるなり。滑稽なる国と謂うべし。」

8月10日、「久しく西銀座の裏通りを歩まざれば試みに杖をひく。二丁目より三丁目辺に軒を並べたるカフェーは数年前と変わりなく猥陋はなはだしき様子なり。麦酒コップ一杯70銭。テーブル代と称して祝儀2円。これが最低の値段なり。これに1円女給の祝儀を加うれば女給は客の膝の上にまたがりてそのなすがままの戯れをなす。女給はみな地方の出のものにて年頃十七八のものもあり。」

8月13日、「国木田独歩の小説販売禁止。またハムレット上演禁止となりしと云う。」

8月16日、「今月に入りてより市中の蕎麦屋も夜十二時きっかりに戸を閉ざすなり。店内には午前零時終業とかきし貼り札をなせり。夜半十二時といわず午前零時という現代語を用ゆるところ、いや味たっぷりというべし。」

8月19日、「上野線路下の酒肆街を歩む。銀座西三丁目裏の酒肆よりも醜陋さらにはなはだし。」

8月20日、「上野ガード下のカフェー二三軒の景況を視察し雨中車にてかえる。」

(ソヴィエト・モンゴル軍による日本軍陣地総攻撃開始。兵員物量に圧倒的な差があった。ソ軍が勝利を急いだため、双方に多大な損害が出た。)

8月22日、「日英会談不調となりてより株相場暴落せりと云う。」

(4月の暗殺事件処理をめぐって、6月に陸軍は天津の英国租界を封鎖し解決をめぐって会談がつづけられていた。7月にいったん妥協が成立したが、アメリカが日本に対し日米通商航海条約の破棄を通告した。8月21日に日英会談は決裂した。)

8月25日、「オペラ館楽屋を覗くに相貌凶悪なる遊人五六名出入りし何か紛擾ありげに見えたり。踊り子に様子を聞きしが不明なり。ある者は役者清水をゆすりに来たりしと云いある者は木村時子に言いがかりを付けしなりと云う。日本という国にてはいかなる方面にもギャングあり。浅草の芸人社界には甲州屋また丸腰組などいうギャングありて絶えず金銭を強請す。」

8月26日、「白木屋百貨店前にていつぞや西銀座裏の喫茶店にて見知りたる女に逢う。縮らし髪に裾短き洋服を着素足に流行のサンダルを履きたり。水天宮裏なる鼎亭につれ行きしにかみさんとはすでに知り合える仲にて小座敷に案内せらるるや否や扇風機の風をまともにシュミーズ一枚になり胡坐かきて煙草にマッチの火すりつけるさまいかにも馴れたものなり。」

(ハルハ東岸の日本軍は完全に包囲された。)

8月28日、「有楽町省線停留場を過ぐ。ここは日本劇場の裏手なるを幸い恋の出会いをなす男女幾組もあり。掲示用の黒板に日劇地下の食堂でお待ちしてますと走り書きする女もあり。商店の売り子にあらざれば喫茶店の女給らしき洋装のもの多し。

停車場前の路上には新聞の売り子大勢号外を配布せんとしつつあり。平沼内閣倒れて阿部内閣成立中なりと云う。これは独逸国が突然露国と盟約を結びしがためなりと云う。通行の若き女らは新聞の号外などに振り返るもの一人もなし。夜浅草オペラ館に行きて見るに一昨日までヒトラーに扮して軍歌を唱う場面ありしが、昨夜警察よりこれを差し留めたりとのことなり。」

(軍部は北進派と南進派で対立していた。ソヴィエトを主敵とする陸軍は、独伊との三国同盟締結と反英を煽っていた。海軍は南進派で、同盟にメリットがなかった。欧州での戦争を見越して、独英のあいだでソヴィエトを陣営につける綱引きがつづいていた。内部対立で煮え切らない日本を無視してドイツはソヴィエトに妥協し、スターリンは最終的に西部の安定を選んだ。独ソ不可侵条約によって、日本は防共の梯子をはずされ訳がわからなくなった。世界の反ファッショ戦線は混乱した。)

8月29日、「街の辻々に立てられし英国排撃の札いつの間にやら取り除けられたり。日独伊三国同盟即時断行せよまたは香港を封鎖せよなど書きしものその種類七八様もありしがみな片付けられたり。これとともにソ連を撃てという対露の立て札もまた影をひそめたり。人の噂によれば東京市役所の門に下げられたる反英市民同盟本部と書きし木の札もすでに見えずと云う。」

8月30日、「月よければ吾妻橋より車にて玉の井に至る。しばらく来り見ざる中に新来の美女多く出でたり。いづこより集まり来たるや知らねどこの地の繁華毫も時局の影響を蒙らざるは実に喜ぶべきなり。」(窮乏農村からに決まっている。)

8月31日、「午後銀座三越まで食料品買いに行きしに街上にて去月末蠣殻町にて紹介せられし時子という女に逢う。簡単なる洋服に夏帽を戴き四五才になる少女をつれたり。親類の娘なりと云う。誘わるるがままに数寄屋橋際なる日本劇場に入る。番組は活動写真と舞踊一組なり。余は今日に至るまでこの界隈の映画館に入りて日本製の映画を見たることなきをもって、自ら新たなる感想を得たり。観客の大半は若き女にて、夕方よりカフェー酒場にはたらきに行くもの、または定まりし職業なきものなるがごとし。昼夜銀座通りを遊歩し家に帰りて婦人雑誌を読みて時間を空費する者なるべし。これらの観客を喜ばせんがために製作せられし活動写真の愚劣なることは、見ざる前に予想せしものにたがわざりき。実地に観覧して余の深く感じたることは、脚本の筋立てといい撮影の方法といい、いづれも西洋映画の憐れ果敢なき模倣にして、その皮相的に整頓せしところ将来この以上の進歩は望みがたき心地せらるることなり」

(上映していたのは阿部豊監督女の教室。阿部はハリウッドで修行しジャック阿部と呼ばれていた。)

(月末までにノモンハン日本軍陣地は破壊され、第23師団は壊滅しわずかな残兵は撤退した。日本軍は劣勢な中国軍との戦いになれ、いつもの冒険主義で自己の力を過大評価した。出先と本国の無政府状態もそのままだった。戦争目的もはっきりしていなかった。スターリンは欧州の大戦前に関東軍を叩き、東部を安定させたかった。そのため補給に不利な遠隔地ながら、総力を注ぐことをいとわなかった。)

 

9月1日、「この日また禁酒禁煙の令あり。ラヂオしきりに君が代を奏す。・・公園の興行物午前より大入りなりと云う。」

(ドイツ軍ポーランドへの侵攻をはじめる。)

9月2日、「有楽町停車場にて一昨日約束せし女に逢う。この日新聞紙独波両国開戦の記事を掲ぐ。ショパンとシェンキイッツの祖国に勝利の光栄あれかし。」

9月3日、「この日日曜日にて公園の人出おびただしきこと銀座にまされり。世のいわゆる軍需品景気なるべし。」

(英仏がドイツに宣戦布告。世界大戦が開始された。米と日本は中立を表明した。)

9月5日、「六区の興行物はオペラ館のみならずいづこも興味索然看るにたえざるものとなれり。観客および散歩の人々も去年に比すればその風俗しだいに変化し、人をして時代の推移を感ぜしむることすこぶる深刻なるものあり。東京下町の風俗人情には今やなんらの詩趣もまたなんらの特徴も認めること能わざるに至れり。」

9月8日、「市内諸所の電気時計電力不足のため進行おそく、また百貨店その他建物の中に設置し昇降器運転せざるもの多しと云う。」

9月11日、「燈刻物買いにと銀座に往く。メリヤス夏の襯衣を購わんとするに怪しげなる模擬品のみにてよき物はまったくなくなりたり。」

9月12日、「枕上たまたま商子(法家商鞅)を読む。その説くところ国家の基礎を兵と農との二者に置き、儒者と商估(商人)とを有害のものとなしたり。これ軍部のもっとも喜ぶべきものなるべきに、彼らは今日に至るもなぜこれを広告せざるにや。」

9月14日、「浅草の米作に飯す。この店の料理あまり安き方ではなし。一汁三菜にて一人前たいてい二、三円を要す。しかるに客の風采を見るに小商人または小工場の主人らしきもの多く、その中には家族連れにて酒盃を傾るものもあり。この有様は戦争の禍害を示すものにあらずむしろその利福を語るものなるべし。」

9月15日、「三越店頭に立ちて電車を待つ。女の事務員売り子ら町の両側に群れをなして同じく車の来るを待てり。颯々たる薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き翻すさままた人の目を喜ばすに足る。余は現代女子の洋装をもって今は日本服のけばけばしき物よりもはるかによく市街の眺望に調和し、巧みに一時代の風俗をつくり出せるものと思えるなり。見るからに安っぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を闊歩するその姿は、薄っぺらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの広告、怪しげなるロータリーの樹木草花などに対して、渾然たる調和をなしたり。これを傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるがゆえなり。」

(9月16日、ノモンハン停戦。日本の敗北感は強く、以後南進派が主となり太平洋戦争の構図が描かれる。

17日、ソヴィエト軍ポーランド侵攻。)

9月18日、「人の噂にこのごろ市中に砂糖品切れとなりし由日本政府ひそかにこれを独逸に輸出するためなりと云う。」

9月21日、「終日隣家のラヂオに苦しめらる。・・この夜尾張町のあたりに酔漢多く、軍人の往々女子を携うるを見る。醜態憎むべし。」

9月23日、「銀座のモナミに夕食を喫す。バタおよびチーズ品切れとてこれを用いざれば料理無味ほとんど口にしがたし。この二品は日本政府これを米国に送り小麦および鉄材を買うなりと云う。東京市内いづこの西洋料理も今年三四月ころよりバタの代わりに化学性の油を用うるがため腸胃を害する者多しと云う。」

日米条約は破棄通告されたが、通商はつづいた。)

9月24日、「日比谷あたりの映画音楽、新聞雑誌の小説はこれ愚鈍なる東京人をよろこばす芸術なり。」

9月25日、「電車の内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。・・余はこのごとき醜態を目撃するごとにこの民族の海外に発展することを喜ばざるものなり。」

(9月27日、ポーランド降伏。29日ポーランド独ソで分割。)

9月30日、「明日はことによると飲食店いづこも休業のおそれあれば食料品を買わんとて夜銀座に行く。」