谷崎潤一郎の疎開


谷崎潤一郎疎開日記に、永井荷風との往復書簡の項がある。それによると偏奇館焼亡のあと移転した東中野から出した手紙に、中野区住吉町23国際文化アパートと住所が記されている。

これはいまの東中野4丁目27番地にあたり、郵便局の敷地となっている。また芸術家村は通称で、国際文化アパートが正しいことがわかる。ただ芸術の名にふさわしく、住人たちが小音楽会を開いていたことは断腸亭日常に記されている。音楽関係者が多かったようだ。

 

谷崎の疎開日記は昭和19年正月から敗戦までで、また越冬記と題されて1945年12月から翌3月16日の出立までが記されている。

谷崎はおなじ上級国民でも永井とちがって縁者に事欠かなかったから、戦中困窮したわけではない。永井とおなじ岡山が疎開先でも、最初の地の津山が空襲にあうとただちに西の宿場町である勝山町(赤線)に越して被災の難にはあわなかった。

永井が谷崎をたずねたのは勝山で、8月13日から3日間滞在し帰途に敗戦を知り岡山で祝い事をしている。また半月ほどで、同伴者を置き去りにして東京にさっさと帰ってしまった。

 

 

谷崎は永井と別種のまめな記録者で、また家族が多くて(細雪のモデルたち)とりとめなく出来事がたえず興味深い日記となっている。

昭和19年正月は、兵庫でなく熱海の別荘で迎えている。買ったのは昭和17年4月で、万一の場合の避難所と妻には説明した。元は中央公論社の嶋中社長が借りていた場所だった。

妻は細雪では幸子だが、雪子にあたる妹重子も夫とともに屠蘇散をたずさえて元日にやってきた。北陸からは蟹がとどいている。

6日、妻とその連れ子や重子たちは歌舞伎座に行き、谷崎は細雪の執筆をしている。この日ガスを使いすぎとして止められ、また米の配給も残り1升となり東京に行った家族に帰途もってくるようにと連絡をした。

7日の日記には「戦時下なれども我等は勿体なきよき正月を過ごしたり、多少の物資の不自由くらいは何でもなき事なり」と記している。

11日に建築家の友人の告別式で上京する。「東京は此の頃棺桶入手困難の由」とのことだったが、「商売柄材木を提供して」もらい作ったという。このとき、妻たちを伴って熱海に帰った。

15日に妻たちは兵庫魚崎に帰り、重子も帰京した。

 

2月17日に谷崎も帰郷したが、熱海疎開の準備と乗り気でない妻を説得するためだった。東洋紡社長の紹介状をもって子供の校長や駅長に面会し、引っ越しの便宜を依頼した。

その後、重子の夫(細雪での子爵)がチフスの疑いで入院したとの報がとどく。(実際は牡蠣にあたった。)

26日、高級興行物禁止、旅行の徹底的制限、高級料理屋、待合等の禁令が出る。3月1日から実施とされる。

28日、創元社が手配した切符で熱海に向かう。

 

(この記事つづく)