谷崎潤一郎の疎開 3

勝山の船着き場

5月6日、「名古屋駅にて窓外を望むに・・駅近辺は真に一物も止めず焼野原となりおれり。」

7日、「大津より京都に入る。沿道の風物も街も東山西山も、昔の通りなり。」

大阪駅頭より見たる街上も何等変わりなし。」大阪から省線電車に乗り換え住吉駅下車、魚崎の家に帰る。

9日、「新聞に依れば欧州戦は一昨日午前二時ランスに於ける全面降伏調印を以て終了せる由なり。」

11日、「午前九時頃警戒警報ついで空襲警報となる。紀州南部に集結せるB29の編隊北上して魚崎上空を通過。高射砲の音しきりなるを以て皆々壕に入る。・・編隊は三度に別れて頭上を過ぎ、その度毎に壕中船の如くに揺れ、サアと云ふ音して爆弾落下す。」

「東方は阪神電車が蘆屋まで通じおること尼崎西宮は無事なること判明す。その他阪急も省線も国道も皆不通なり。水道はまもなく出るやうになる。御影は旧国道郵便局を遺し、あれより西方の街がやられてゐると云ふ。予は先刻壕内にて想像したるよりは遥に身近に危険が迫ってゐたことを知り今更恐怖す。」

「本日は牛肉あるを以て氏を引き止めて夕飯を供す。・・肉の外にフキ、コーヤ豆腐、菊菜、アサが熱海より持参のコンニャク等あり。酒なけれども中々豪華版なり。」

12日、「予等は相談の結果十四日中に当地出発姫路に泊まりて津山へ行くことにきめる。」

14日、姫路に向かう。「神戸は元町西部より兵庫にかけ焼けたれどもなほ市の半ば以上は無事」だった。

15日、姫路の宿朝食は「高粱米のモリキリにじゃこ出しの味噌汁、菜のおひたし、蓮根と筍のスライス四切程の煮き合せ、小蕪のつけものなり」。

午後津山着。目的地の松平邸では十畳と六畳の御殿作りの座敷をあてがわれた。津山藩主の別荘だったところだ。「廻り縁ありて池に臨む。」

17日、知人がいるので当初あてにしていた、津山からさらに西の月田に出かける。ところが当人は脚気で死の床にあり、失望して帰る。

18日、津山に疎開していた知人を訪ねる。缶詰のパイナップルをご馳走になる。卵1個1円を4個得る。農家で杓子菜大風呂敷いっぱいを3円50銭で買う。

19日、持参してきた2万円を当地の安田銀行に預ける。魚崎の神戸銀行口座にある2万5千円を取り寄せる手続きをする。計4万5千円(9千万~4千5百万円)は、ほぼ全財産だったろう。十年前は離婚にともなう借金に追われている身の上だった。春琴と谷崎訳源氏でもりかえしたようだ。

 

この点、荷風のほうが資産家だったと思われる。断腸亭日記によれば昭和19年の総所得は7220円で別に株式配当が240円あった。すでに執筆収入はなかったが、まだ人気作家で印税が1000円と査定されている。残りは利子と想定されるから、相当額の預金があったのだろう。

株式も谷崎290株に対し荷風は3000株近く所有していた。

荷風は利子生活者だった。ただ東京には購入できる物資がなく、農村に買い出しにいく体力気力縁故がなかった。そのため、金はあっても困窮した。

 

「本日の夜食は杓子菜煮びたし大豆と若芽煮き合わせ、ウニ、胡麻塩外に沢庵と水菜の漬物なり。熱海よりは急に質素になりたれどもこれにても飢えをしのぐに足る。」

 

6月2日、信子が津山に来る。これで細雪三姉妹がそろった。

3日、勝山に貸間があることを知る。

4日、勝山で物件を見る。二階六畳二間一階八畳二間、部屋代65円。気に入ったので契約する。

5日、朝から阪神地方大空襲。

16日、荷風の岡山疎開を知る。「まことに意外の吉報というべし。」

岡山での荷風の所持金は1万5千円ほど、東京三菱の当座預金は1万円以上あった。(「考証永井荷風秋庭太郎

29日、岡山空襲。荷風、河原を走って逃げる。

 

7月4日、津山空襲。「此の土地の人々は全く空襲の経験なきためかその慌て方も甚だしくして常軌を逸す。荷物疎開も徹底的にして畳建具漬物樽洗濯盥まで運び去り、身一つになりていざと云ふ時に逃げる算段と見ゆ。家人も此の空気に怯えて一刻も早く勝山へ移らんと云ふ。」

7日、勝山移転。「夕飯は女将の好意にて白米を焚いてくれ胡瓜に金山寺味噌及び味噌汁(ジャガ芋、茄子、玉葱、落とし玉子一個づつ入り)を供さる。津山より遥に上等なり。・・河原に小屋掛け芝居あるらしく太鼓の音きこゆ。」

11日、「荷風氏より来翰先日の空襲に無事避難せること判明す」

 

勝山では三姉妹、妻の娘、妻いとこ母子の大所帯だった。

 

8月6日、魚崎の家空襲で焼ける。

8月8日、「大本営発表に依れば敵は六日朝八時二十五分頃新型爆弾を以て広嶋市を焼きたるものの如し」

13日、荷風が勝山訪問。「思った程窶れても居られず、中々元気なり。」

14日、荷風は「出来得れば勝山へ移りたき様子なり。但し岡山は三日に一度ぐらゐは食料の配給ありとの事にてその点勝山は条件甚だ悪し。予は率直に、部屋と燃料とは確かにお引き受けすべけれども食料の点責任を負ひ難き旨を答ふ。結局食料買入の道を開きたる上にて荷風氏を招く事にきめる。」

この日牛肉一貫(200円)入手し、さらに一貫以上が届いた。強飯を炊き豆腐の吸い物で荷風を招く。酒二升入手し荷風にすき焼きをふるまう。

15日、大阪城中心に爆撃があり、尼崎甲子園など阪神間もほとんどやられたと聞く。荷風は昼前岡山に帰る。無条件降伏の放送は聞き取れなかったが、午後に確認する。町の人々みなは興奮し、妻は涙を流した。

 

谷崎の疎開は、結局それほどの困難もなく終わった。縁者にも戦死者は出なかった。

荷風は断腸亭日記に街中で拾った「世の中は星に錨に闇に顔 馬鹿な人達立って行列」との落首を記している。星に錨は陸海軍。

戦時には、やはりコネが大事だ。