荷風の疎開先をさがす

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麻布偏奇館はいまの六本木泉ガーデンあたりの崖上にあった。

 

永井荷風作品の愛読者ではないが、断腸亭日乗大日本帝国敗亡の記録としていま読んでもおもしろい。荷風アメリカとフランスに留学と銀行勤務の経歴があり、海外を知っていた。文学者としては仏文学に影響をうけ、西洋崇拝でもあった。このため偽りの近代化として明治以後の日本社会のありさまを憎み、江戸文化を懐旧した。

断腸亭日乗は大正時代から書きはじめられ、とりわけ軍部が台頭し敗戦によって自滅するまでの世相描写と痛罵は胸のすくものがある。日本人によるこうした書き物はほかに類がないからだ。荷風にとっては日本の敗北は自明のことで、戦争協力を拒みその時を待ちつづけた。

 

時代が見えていたのだが、当人は戦中に4回も被爆している。賢者の身のふりかたとしては、ずいぶんうかつではないか。

昭和18年9月28日の日記に

「来十月中には米国飛行機かならず来襲するだろうとの風説がある。・・わたしの友人中には田舎に行くのがよいと勧告するものがある。著書草稿だけでも田舎へ送り給えと言うものもある。生きていたとて面白くない国だから焼死するもよし、とは言いながら、また生きのびて武断政府の末路を目撃するも一興だろうと、さまざま思いわずらい未だ居留を決することが出来ないのである。」(現代語拙訳)

資産家で人気作家だったから疎開が不可能だったわけではないが、しなかったのにはいくつか理由がある。

 

老い

焼死するまえに国は亡びるだろうと希望的観測をしていた部分もあるし、60代なかばとなり老耄して決断や行動が遅くなっていたことがある。

 

都会人

荷風は海外生活以外には、国内をほとんど知らなかった。京都と軽井沢に小旅行したくらいだ。それだけ東京、というより江戸の遺跡、近代化以前の子供時代の記憶の残る東京に愛着があった。ただ住居としたのは生家の小石川台、実家の牛込台、偏奇館のあった麻布台と一貫して山の手で、下町は享楽の足を向ける先だった。ほかに土地勘のある場所がなかった。

 

好色

芸者、銀座のカフェ、玉ノ井の新興遊郭、と時代ごとに快楽を求めてきた荷風だったが、このころは浅草のオペラ館の楽屋に入りびたっていた。留学中に西洋音楽に傾倒し日本への紹介のはしりともなっていた。帝劇オペラが導入されても「上等すぎていけない」と目を向けず、浅草オペラの残り火を愛し脚本を提供した。裸で着替えする踊り子たちに囲まれ、「ニフウ先生」と呼ばれることが生きがいになっていた。オペラ館は昭和19年の3月まで存続した。

 

無縁

疎開するにも名古屋に本貫のある実家とは絶縁し、戦争協力する文人仲間とは一線を画していた。結婚を否定し風俗にのめりこみ、金はあったが頼るものがなく無縁だった。好色、都会人、無縁これらはひとつのことだ。都市生活すれば地縁血縁の絆を産まない性の快楽を求め、孤独に生きることになる。

こうして昭和20年3月30日の東京大空襲で偏奇館は焼亡した。

 

行き場をなくしたが生き永らえた荷風は、オペラ館での荷風の演目「葛飾情話」の作曲家菅原明朗と主演歌手永井智子夫妻を頼って東中野の芸術家村に転居する。菅原は今の朝ドラ主人公の師匠にあたる。しかしここも5月26日の空爆で消滅した。タイムトラベルSF古典である広瀬正の「マイナス・ゼロ」は、同日の世田谷区梅ケ丘への空襲がすべての因縁の発端となっている。

 

次に向かった先は菅原の実家のある兵庫県明石市だった。菅原は道真の末裔だという。ここでは寺の本堂の階段にすわっているとき爆撃をうけ、転げ落ちている。

 

さらに岡山市に縁をもとめて移動するのだが、ここも空襲の対象となり河原を走って逃げて命びろいしている。

これで4度となるが、向かった先がまちがっている。瀬戸内海は海軍の大兵站で、ねらわれて当然だからだ。同行者の菅原は8月に広島に用事ででかけ、被爆の前日に岡山に帰ってあやうく難をのがれている。荷風は戦争の成り行きは知っていても、日本を知らなかった。さらにこの逃避行の時期は、PTSDもあったか認知症の気配があったといわれる。

 

同じ岡山に向かったのは谷崎潤一郎だった。これは妻の縁があったからで、県内でも中央部で安穏で物資も潤沢だった。谷崎を頼ろうとしてたずね歓待をうけ、菅原夫妻ともども移住しようかと打診のためもどったところで敗戦の報を聞いた。これで荷風疎開は終わった。

別に教訓をさがす必要もないが、やはり人間年をとってはだめだ。

 

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戦後また楽屋でごきげんの荷風