荷風マイナス・ゼロ (71)

1941年暮れから1942年5月までの東部戦線。ドイツ軍は進撃から一転して後退を重ねたが、まだ夏に反攻する力は残っていた。

 

昭和17年(1942)

 

4月7日、魚類品切れとなり今明日銀座通辺の日本料理屋は休業の貼り札を出した。

4月11日、近ごろの茶の湯の流行は日本精神涵養のためだという。足利精神北朝精神の誤りであろう。

4月17日、八重桜が散り残っているのに狂風が枝も折れよとばかりに吹きすさむさまはいかにも戦乱の世らしい心地がする。

4月18日、芝口の金兵衛に行き初めてこの日午後敵国の飛行機が来て爆弾を投下したことを知った。火災の起こったところは早稲田下目黒三河島浅草田中町あたりという。歌舞伎座は昼間から休業、浅草興行物は夕方六時ごろで打ち出し夜は休業したという。新聞号外は出ず。(初空襲。B25が16機で東京大阪名古屋を爆撃した。)

4月19日、人の語るところを聞くと大井町鉄道沿線の工場が爆弾で焼亡、男女二三百人が死んだという。浅草今戸あたりの人家に高射砲の弾丸の破片が落ちてきてケガをしたものがあった、小松川あたりの工場にも敵弾が命中して火災になったところがあったという。新聞紙は例によって沈黙しているので風説いたずらに紛々とするのみ。

4月26日、昭和十一年二月二十六日の朝麻布連隊叛軍の士官に引率され政府の重臣を殺した兵卒はその後戦地に送られ大半は戦死したとの噂があったが事実はそうでない。わたしの知った人はもと慶應義塾の卒業生で叛軍士官に従った者。先日偶然銀座街頭で邂逅し重臣虐殺の顛末および出征中のはなしを聞いた。南京攻撃の軍に従い二年半かの地にいたという。南京は一度に落ちたのではない。二回敵軍に奪回され三度目にいたって初めて占領できたという。この人は高橋是清が機関銃に打たれて倒れるさまを目の当たりに見、また中華人の数知れず殺されたのを目撃しながら今日にいたって戦争の何たるかについては一向に考えるところがないようだ。戦争の話も競馬のはなしもさらに差別がないように見える。今日の世にはこのような無神経の帰還兵士がとても多い。過去の時代にはトルストイなどの理想家がいたこと夢にも知らぬのだろう。

4月29日、夜ユーゴーの詩集恐怖の年を誦する。

4月30日、京橋区内カフェー洋食店に雇用される者のうちおよそ二百人ばかりが徴用令で二年間沖電気工業会社工場の職工にされ合宿所に入れられたという。金春新道喫茶店キュペルの息子もそのなかにあるという。

 

5月7日、ある人のはなしに松竹会社文芸部員小出某その他ニ三名、去年から徴用令で南洋に送られ、その資格は軍曹で仕事は紙芝居の筋書きをつくることという。背景はおなじく徴発された大道具の画工が描き占領地の住民に見せ日本国は神国であることを知らしむるという。

5月13日、一昨日日本運送船太平丸が玄界灘で米国潜水艦に襲われ沈没し死人八百人あまりにおよんだという。新聞には今日にいたるもその記事はないという。

5月14日、上海から帰港の商船がまた一隻撃沈されたという。

5月18日、脚気の疑いありといって注射をする。先月から市中に野菜果実ほとんどなく沢庵漬けさえ口にすることが稀になった。脚気が生じたのはこのためだという。

5月29日、与謝野晶子没。

 

6月3日、二三月前から市中に石鹸が品切れとなったがこのごろは洗濯石鹸もなくなったという。

6月4日、玉の井に行き七丁目の知った家を訪ねる。四年前この家で働いていた女が帰ってきたのを見た。一昨年の暮れに石鹸製造工場の職人の妻となったが浮気商売のおもしろさが忘れられず今年の春から二度目の勤めをするようになったと語った。

空爆阻止のため計画された6月5日-7日のミッドウェー海戦で日本は大敗し、戦局の転換点となった。)

6月8日、巷の噂に朝日新聞記者中にはその後も間諜の疑いあるものが多いため同新聞は近いうち廃刊を命ぜられるだろう。またその事に引きつづいて近衛前総理の身辺も危険になるだろう。開戦当時英米政府から莫大な金をもらったことが露見したためという。

6月11日、隣組の人が豆腐をもってくる。一丁6銭だという。牛乳配達夫がきて医師の診断書がない人には牛乳を売らないことになったので何卒その手続きをしてくださいという。夜金兵衛に行く。客の中に萩の餅を持ってくる人あり、食パンを持ってくる人あり、少しづつ知った人に分かちあたえるのである。日英開戦以来食料品の欠乏は日を追ってひどくなった。

6月13日、夜金兵衛に行って食事する。支那青島から持ち帰った羊羹をもらったといっておかみさんが薄茶を立ててご馳走してくれた。先日にはあるところで台湾の羊羹を馳走してくれた人がいた。あわれ不思議な世となった。

6月15日、築地佃茂の店から砂糖をもらう。

6月19日、金龍館南側ハトヤ茶店のあたり一帯に焼跡となった。火事はいつごろか。

6月20日、午後町会の役員が来てわが家は防火設備をしていないので二三日中に警察官が同行して来る、その時の様子で罰すると言って去った。このごろ町会の役員は古いものがおいおい去り新しいものが多くなった。そのためこの後は偏奇館独居の生活がむづかしくなる様子である。いよいよ麻布を去るべき時節が到来したのだろう。アパート空室の有無を電話で菅原氏に問い合わせ、夜になるのを待って銀座富士アイス店で会談した。菅原君居住のアパートには目下空き室はないが一二ケ月中にはなんとかなるだろうとの返事であった。この夜永井智子も同伴だった。銀座通りの喫茶店いづれも九時に閉店早いのは八時ごろに客を断るところもある。百貨店松屋三越の黄銅の手すりはみなはずされていた。

6月23日、幸橋税務署から本年もまた文筆収入高6000円との通知があった。政府の不義を痛嘆すべし。

6月27日、歌舞伎座の前を通りすぎる際建物の装飾に用いた銅鉄類を取り外しの最中だった。表入り口の庇に取り付けた鳳凰絵看板の銅瓦もまた除かれるようだ。新政府は劇場の建築をもって現代の美術とはしないようだ。築地電車通りの人家を見ると二階窓の欄干格子など鉄製のものはおおかた木材に取り換えられていた。

6月28日、オペラ館に行く。館内の金具黄銅の手すりがみな取り換えられていた。道路に敷いた溝の上の鉄板も土管に似た焼き物に取り換えられていた。

荷風マイナス・ゼロ (70)

シンガポール陥落時スィク教徒捕虜を銃殺。

 

昭和17年(1942)

 

1月1日、旧暦の暦を売ることを禁じられたので本年からわれわれは太陰暦の晦朔四季の節を知ることが出来なくなった。昨夜は月がやや丸かったのを見たので今日は十一月でなければ十二月の十三四日になるであろうか。

1月3日、午後に隣組の老婆が来て大晦日から夜半より点火禁止。当分正月中は街灯もつけられないだろうという。その理由を問うと正月夜中に明るくする時は人々が酒を飲み遊び歩くものが多くなるからこれを防ぐためだろうと言った。

1月4日、午後地下鉄で浅草に行った。東武電車の表階段に乗客が押し合うさまが物すごい。西新井の大師に初詣する人々だという。

1月5日、近隣の人のはなしに塩醤油とも去年の暮れから品切れとなりいつ酒屋の店に来るやら望みはない。砂糖も十日すぎにならねば配給しないという。いよいよ戦い勝って食い物のない世とはなり行けり。

1月6日、金兵衛で夕飯を食べる。隣室に某所の病院の院長だと称する人が元日から三日の間房州館山におもむき心身鍛錬のため未明に海水を浴びて禊をしたと高声に語るのを聞く。語調はなはだ高慢である。わたしは黙然として思うに寒中水を浴びて行をするのは禊だけにかぎらない。東京にはむかしから寒参というものがあったが近年しだいに衰え軍人執政の世になってからミソギというものがにわかに流行りはじめた。寒中の水浴がもし精神修養に効果があるなら夏の日に暖炉にむかって熱湯を飲むのもまた然りであろう。滑稽和合人と題する小説に泰平の世の道楽者が寄り集まり土用の炎天にどてらを着て物干し台にあがって日見の宴を開くくだりがあった。滑稽で顎がはずれる。

1月8日、銀座に行く。家ごとに旗を出していた。人に聞くと毎月一日の興亜禁酒日が今年から今日に変更になったという。

1月17日、来月から衣類呉服物も切符制になるとの噂である。

1月19日、人の話に玉の井亀戸の銘酒屋ではお客に1円の少額債券を買わせるという。これはこの色町では芸者娼妓のように揚げ代に遊興税を付加することができないので政府はその代わりとして1円債権を売りつけることにしたという。窮状憐れむべし。

1月21日、隣組の人が菓子切符一人前20銭分をもってくる。・・衣類の制限一人前若干の事いよいよ決定され来月一日までは靴足袋肌着ふんどしなども買うことができないという。

1月22日、日本橋通を歩く。白木屋前の露店に人々が行列を作っているので何かと見ると軽焼き煎餅を買おうとしていた。市中の呉服屋洋品店は一軒残らず戸を閉めていた。靴帽子屋は例外だといって平日通り店を開けていた。

1月23日、チリ紙石鹸歯磨きが配給切符制になるとの風説がある。市中からこれらの品が昨夜中に消失したという。チリ紙ふところ紙がなくなり銭湯の休日が多くなる。戦勝国婦女子の不潔なること察すべきなり。

1月26日、町の噂に玉の井亀戸の女も一週間に一日づつ朝十一時より午後三時まで付近の工場に赴き箱貼りをするという。市中の芸者はすでに去年から見番に集まり紙貼り箱貼りなどの仕事をしているという。

後日の噂に玉の井の女は工場には行かず一軒で週に一回組合事務所三階で箱を貼るという。

1月28日、午後銀座通り買い物。資生堂洋食店モナミその他休業する飲食店が追々目につくようになった。土橋のエイワンはすでに閉店したとの噂がある。

1月29日、町会から衣料購入切符を送ってくる。

1月30日、情報局から芝居の人を呼び出し中佐某なるものが上杉謙信を芝居にせよ、謙信が兵を動かしたのは前後七度みな義にもとづいている、名将というべしと申し聞かせたという。輝虎入道が親を殺したことは中佐某は知らないのだろうか。

 

2月2日、羊羹をもらう。甘いものをくれる人ほどありがたいものはない。過日には熱海大洋旅館の主人からココアと砂糖をもらった。このよろこびも長く忘れないだろう。

2月3日、この夜は節分であるといっても撒くべき豆がなければ鬼は外には行かないだろう。豆まきといへど豆なき家の内 福は来たらず鬼は追われず。

2月4日、オペラ館踊り子の部屋に行く。・・幕間の雑談は、甘いもの欲しいという事ばかりである。

・・近日市中飲食店の検挙が行われるとの風説がある。金兵衛では万一のことを考えなじみの客以外はいっさい料理酒を売ることをさしひかえているという。この夜おかみさんから醤油また二三合をもらい空き瓶に入れもちかえる。

2月10日、物買いにと夜浅草に行く。瓶詰牛肉大和煮と称して鯨肉を売る店が多い。

2月12日、二三日このかた日英戦争のため株式相場暴落という。

2月14日、夕方土洲橋病院に行く。このごろ外来患者の靴外套が盗まれること再度におよぶという。市中では銭湯の盗難がひどいとのことである。震災以後近年はこのような盗難は一時その跡を絶っていたが再びこのことがあるのは細民の困窮がしだいにはなはだしくなった証拠であろう。アパートや貸し二階などの昼鳶(コソ泥)もいよいよ多くなったとの噂である。

2月16日、午後日本橋を通ると赤塗自動車にシンガポール陥落記念国債金10円20円の幟を立て蓄音機をしかけ国債を売り歩いているのを見る。大蔵省の役人どもだろう。(1月にクアラルンプルを落とし、2月15日にシンガポールを占領した。)

2月17日、上海から帰ってきた芸人のはなしに昭和十一年二月政府の元老重臣を虐殺した将校はみな無事に生存し上海にいるのを見たという。

2月18日、午後浅草向島散歩。実は場末の小店にはおりおり売れ残りのよい缶詰がありまた汁粉今川焼などを売るところがるので暇あるときは所定めず足を運ぶのである。白髭神社のほとりに女たちが多く集まっているので近づいて見ると玉の井娼家の女が組合の男につれられシンガポール陥落祝賀祈禱のため隊を作って参詣していた。滑稽のきわみというべきだ。

2月21日、(理髪店に行き)化粧用の油石鹸正月ごろから品切れという。この後理髪用の香油がなくなるときは日本人は老弱をとわずイガグリ頭になるしかない。これは軍国政府の方針であるという。

2月22日、本年より毎月二十二日および八日は魚屋料理屋休業。

 

3月1日、夕方嶋中氏に招かれ上野鶯谷の塩原に行く。上野地下鉄構内の売店がつづいたところに若い男女ふたりが寄り合い別れようとして別れがたいようでふたりとも涙ぐんだまま多くを語らず立ちすくんでいるのを見た。ふたりの容姿服装は醜くない。中流階級の子弟らしく見える。わたしはしばらくこれを傍観し今の世にもなお恋愛を忘れないものがいるのを思い喜びを禁じ難いものがあった。

・・塩原に行くと谷崎氏はすでに居た。・・おかみさんらしき人は年四十前後であった。女中はみなしとやかだった。料理の中で記憶に留まるものは鯛塩焼き、飯蛸さくら煮、刺身、鱧吸い物、蕎麦切など、食後ぜんざい、菓子最中餡のかわりに飴を入れてあったのを出す。

3月7日、愛宕下税務署に行き去年から文筆で得た所得が皆無であることを告げ、以後免税がしかるべきであることを申請した。

3月8日、風聞録

一 土方与志中条百合子村山知義らは去年から市中各所の警察署にいまなお留置中であるという。

一 去年十二月八日の戦功があった海軍士官および水兵四五百名、その一部は九州別府温泉、一部は熱海の温泉宿に保養休暇をあたえられた。海軍省では旅館組合の者を呼び出し戸障子畳などを破るものがいても制止することは無用である。損害は海軍省に申し出れば即金で弁償してやるだろうと申し渡した。熱海では土地の芸者でもし無理やりに慰み者にされる者は組合で後日祝儀を与えるから所をとわず言いなりになるよう内談したという。以上熱海居住の人から聞いたままを記した。

3月12日、市中昼の中から酔漢が多い。戦勝第二回祝賀のためだという。

3月19日、噂のききがき 上野東照宮五重塔のほとりの休み茶屋では近年茶くみの女に花見の時節に赤襷赤前垂れをしめさせていた。しかしこのほど警察署で赤前垂れは目立つから緑または桃色にすべしと申し渡したのに茶屋のかみさんは承知せず、警察署に行きなぜ赤い色は御禁止になったか。日の丸の旗も赤いではございませんか。赤前垂れは派手なので桜時にはふさわしいものです。もし派手なものがいけないと言われるならばお上の御威光で春も来ず、花も咲かないようになさいませとしゃべり立て、役人も返す言葉なくついに例年通り赤前垂れを許すことになったという。

能年の新MV 夢が傷むから

 

能年が監督編集した、一週間前に発表されたMVがいい出来だ。映像作りの技術をすっかり身につけたようだ。

能年と加藤千尋カップルを死神が見守る、わけではなくて能年が表紙をつとめた又吉エッセイのアンサーソングになっている。能年はさかなのこのように男役が似合い、恋人役の加藤もいい感じだ。記事

 

去年から能年は精力的にMVを発表、出演している。

 

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堀込泰行の曲を歌っている。ダンスレッスンに励んだかいあって、踊れるようになった。

堀込MVでは WHAT A BEAUTIFUL NIGHT は横顔をずっと見せているだけなのに、さまざまな表情をあらわし魅力的だ。

 

 

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KANA-BOON のゾンビロックで無数のゾンビ能年がカクカクしている。終わりに恒例のコントも付いている。

 

 

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これも監督編集は能年で、ここでもダンスを演じている。むかしのブキッチョな身体表現がウソのようだ。

 

 

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アジアン・カンフー・ジェネレーションの曲で、ミュージシャンぶりを見せている。

ライヴも安定してきた。

 

 

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忘れらんねえよの曲を歌う。この天気雨はCGでないし消防隊の協力もなさそうだと思っていたら、メイキングを見るとふつうにスタッフがホースで水を撒いていた。

 

 

おまけ

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2年前の銀杏BOYZのMVに客演。いまから考えるととても贅沢なメンバーだ。大奥の家光もお知保の方もいる。

荷風マイナス・ゼロ (69)

昭和16年(1941)

 

10月2日、風呂桶屋来る。新しい風呂桶は130円であるという。

10月3日、銀座教文館で倉払いの古本を陳列即売すると聞いたので午後行ってみる。買うべきものなし。電車で浅草に行く。観音堂の横手銀杏の樹の下に露店商人が馬鈴薯を見事に細く切り蕎麦のようにする秘伝の薬を売る。来年から麺麭にも蕎麦饂飩にも馬鈴薯を混ぜるようになると商人の口上である。

10月4日、芝口の牛肉屋で食事する。一人前3円税45銭。

10月5日、オペラ館昼間から大入りで大入り袋1円80銭だと踊り子の語るところ。

10月6日、(慰問袋のはなし:老人のはなしでは日露戦争まで慰問袋はなかった。今回の戦争は去年あたりから強制的となった。女学校では女生徒に住所氏名を記入させる。兵士と手紙写真を交換するものもある。除隊となった兵士は女子を訪問し銀座で会うものもいる。銘酒屋カフェーの女は客にしようと慰問袋を利用して誘惑するものもあるという。)

10月12日、岩波書店勘定左のごとし。

金130円也 おもかげ 第四刷 1000部

10月15日、防空演習で近隣の家はみなその準備をし水桶高箒などを門口に並べていた。しかしこの用意をしないところはわが家一軒だけ。わたし一人で何もできないからである。今年は防空令違反で厳罰に処されるかもしれないと胸中ひどく不安を感じる。

・・午後丸の内から浅草に行ってみると小春の天気がよいためか、人の出盛ること日曜日のようである。行き来の人の中には投島田に素袷半纏引掛帯というような風俗の女もいた。博徒遊び人のかみさんであろうか。浅草ならでは見られない風俗の女を見れば何ともなく一種の慰安をおぼえるのもおかしい。

10月16日、オペラ館踊り子田毎小田の二人が公休日だからといって遊びに来た。電話で東京日日社内移動劇場事務所小川丈夫を招き芝口の今朝に行って晩餐をする。(移動劇場とは巡業慰問の斡旋か?)

10月18日、この日内閣が変わって人心さらに恟々とおそれている。日米開戦の噂がますます盛んである。(近衛から東条になった。8月に内閣研究機関が日米戦争必敗を報告し、近衛は撤兵を言い出し東条はこれに反対した。)

10月20日、隣のかみさんが来て隣組で昨日合議して先生のところは女中も誰もいない家なので今度の防空演習には義務もなにもないものとして除外しました。

10月21日、(銀座で)亀屋相模屋など食料品を売る店には山の手の奥様令嬢らしき女が出入り多数である。その服装を見ると帯はみな金襴に金銀の縫箔をしている。赤地に金銀の孔雀の尾を縫い取りにして衣服は一面に赤い蔦の葉を染めたようなものを平気で着ているものもいる。数年前のカフェー女給の華美姿にくらべて一層毒々しくきらびやかになっている。浅草興行場の女芸人の舞台衣装といってもなお三舎を避くべきものが遂に良家の婦人の外出の衣服となった。金銀でぴかぴかひかるものを好むこと現代の日本人ほどはなはだしきはないだろう。男は勲章まがいの徽章その他を胸につけ、女は模造の蜀江錦でなければ帯にしない。これは軍人執政の世の風俗である。外形すでにかくのごとし。その性情趣味にいたっては推して知るべきのみ。

10月22日、今日は世間が騒がしく夜は暗闇になると思いのほか日の丸の旗があちこちにひるがえり夜も暗くはならぬ由。どこやらにお嫁入りのお祝い事があるためだと。(三笠宮結婚)

・・日本橋に出て八木長で鰹節を買う。鰹節も近いうちに米同様切符制になるとのうわさがさかんなので万一に備えようとするのである。わたしは今日まで鰹節のことなど念頭においたことがなく洋風の肉汁があれば事足りるとしていたが、今年春ごろから食料品何にかぎらず不足品切れとなり、ここにはじめて昔の人が飢饉の用意に米と鰹節と梅干があれば命はつなげると言ったことが真実らしいと知ったのである。

10月24日、旧帝国劇場専務に逢う。関西に行くところだが汽車の切符がなかなか買えずやっとのことで三等の切符を得たという。

10月28日、芝口の金兵衛に行くと宵の口まだ七時にならないうち配給の魚介が少ないため料理ができず客を断っていた。塩鮭と味噌汁で茶漬け飯を食べる。・・このごろ役者連は自動車がないためいづれも遠方から雑踏の電車に乗って木挽町に通うという。

10月29日、谷町電車通りの焼き芋屋は久しく休んでいたが芋俵の配給があったといって早朝からふかし芋を売り出す。買おうとするものが行列していた。

10月30日、午後浅草公園に行きオペラ館踊り子大勢と森永で夕飯を取り汁粉屋土筆で汁粉を食べる。砂糖の不足を補おうと西瓜糖また蜂蜜などを用いるためか、汁粉の甘味が一種異様なのも可笑しい。

 

11月8日、世の噂を聞くと今年九月以来軍人政府は迷信打破と称し太陰暦の印刷を禁じ酉の市草市などのことを新聞紙に記載することをも禁じたという。今夜十二時から一の酉であるが新聞には出ない。十月中日本橋べったら市のことも新聞紙は一斉に記載しなかったという。清正公の勝ち守りも迷信だろうし鰹節を勝武士などと書くことも御法度になるべきか否かと笑う人もいる。

11月14日、(日米開戦を予期し貯水池を掘った残土を偏奇館近くに勝手に捨て、通学路整地のため寄付したと言う業者に)これはさながら満州の人民が張作霖のために苦しめられているので救うと称して日本の軍人が張を殺し奉天府を占領した策略と揆を一にするものである。美名の下にかくれて不義をおこなうのは今や天下の通弊となった。

11月19日、(おもかげをドイツ語に翻訳したいとの申し出に)わたしは拙作が独逸人に読まれることを好まないので体よく避けて断ることにした。

11月22日、オペラ館に行くとこのごろ吉本興行部から転じてオペラ館踊り子となったものがいた。市兵衛町一丁目スペイン公使館下のアパートに住むといい帰路が同じなので共に帰る。芝口で市電に乗り換えするときかつて玉の井にいた女に逢う。銀座裏エトワールの女給になったといい名刺を出した。この夜は何やら意外なことに遭遇したような心地がした。

11月23日、銀座通り食料品店の店先にその筋からのご注意により行列しないで下さいという貼り紙を出していた。この日は日曜日なのに松喜食堂その他は灯を消し戸を閉めていたのもあった。蕎麦屋にも饂飩がないという。

11月25日、去年十二月ころ折々訪ねてきたある会社の女事務員が数日前に本郷農科大学裏弥生館というアパートから電話をかけてくることが再三だったので銀座で夕飯を食べたあと行って訪問する。このごろは根岸また下谷池ノ端の待合に出入りすると語った。

11月28日、隣組のおかみさんが木綿手拭い配給の切符をもってきて来月三日ごろ銅鉄器具がいよいよお召上げになると語って去った。

11月29日、明後日から物品税がほとんど倍額になるため今日明日中に物を買おうと銀座日本橋辺りへ人々が朝のうちから押しかけると、電車車掌のはなしである。

11月30日、洗濯屋の男が勘定を取りに来て言う。隣の酒屋の息子十七才が徴用令ですでに連れて行かれた。二年間たたなければ還れない。還ればつづいて徴兵に行くと。

 

12月1日、(谷崎潤一郎が断腸亭の刻印を贈る。)

12月2日、今月から電灯メートル六割節減という。街頭の灯も薄暗く家の内の灯火も力なげである。

12月4日、牛肉屋今朝に入ると十一月末から肉類がないといって蛤鍋を出すという。去って金兵衛に入る。魚類が少ないので鰻の蒲焼を兼業とするという。鰹節海塩が先月来品切れとなったという。わたしが砂糖がなく困難と告げるとおかみさんは蓄えておいた砂糖二斤ほどを惠贈してくれた。謝するに言葉なし。

12月6日、銀座食堂で食事する。定食2円50銭に付税二割50銭。晩餐3円に付税三割90銭で受取証に客の署名を請う。食後日本橋に行く。鰹節屋では朝九時から十時ころまで鰹節を売るという。海苔屋葉茶屋乾物屋の店先はどこも買い手が行列をしていた。

12月7日、この冬はガス暖炉も使用できなくなったので、火鉢あんか置炬燵などひとつずつ物置の奥から取り出し四畳半の一間に昔めいた冬支度がようやくととのってきた。これらの器具は二十余年前あるときは築地あるときは新橋妓家の二階、またあるときは柳橋代地の河岸で用いたもの。今日偶然これを座右に見る。感慨浅からず。

12月8日、小説浮沈第一回起草。

・・日米開戦の号外出る。帰途銀座食堂で食事中に灯火管制となる。街頭商店の灯は追々に消えていったが電車自動車は灯を消さず。省線はどうであろう。わたしが乗った電車は乗客が雑踏していたが中に黄色い声をあげて演説するものがあった。

12月9日、開戦の号外が出てから近隣は物静かになり来訪者もいないので半日心やすく午睡することができた。

12月11日、日米開戦以来世の中は火が消えたように物静かである。浅草辺りの様子はどうだろうと午後行って見る。六区の人出は平日と変わりなくオペラ館芸人踊り子の雑談また平日のごとくで、不平もなく感激もなく無事平安である。わたしのような不平家の眼から見れば浅草の人たちは堯舜の民のようである。

12月12日、開戦布告とともに街頭電車その他いたるところに掲示された広告文を見ると、屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だとある。ある人はこれをもじり昔英米われらの師困る億兆火の車と書いて路傍の共同便所内に貼ったという。現代人の作る広告文には鉄だ力だ国力だ何だかだとダの字で調子をとるくせがある。まことにこれ駄句駄字というべし。・・向島玉の井を歩く。両所とも客足は平日と異ならないという。

12月16日、牛肉屋松喜で食事をしようとするとその後引きつづき牛肉鶏肉ともに品切れである。十八九日ころには鶏肉くらいは配給されるだろうと下足番のはなしである。

12月22日、世上の風聞によればかつて左傾思想を抱いた文士三四十人が徴用令で戦地に送られ苦役に服しつつあるという。その家族で東京に残るものはこのことを口外することを禁じられているという。また戦地のどこに居てどんな苦役に服しているか、一切秘して知ることが出来ないという。また徴用令で引致されたものは二年後にならなくては放免されないという。この危難に遭遇した文士は誰かは聞き洩らした。察するに村山知義武田麟太郎一派のものであろう。(村山は前年逮捕獄中)

12月29日、町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とか書いた立て札があるが銀座通りの露店には新年ならでは用いるさまざまな物も並べられていた。も組の横町にも注連飾りを売るものがいた。花屋には輪柳福寿草も見えた。・・灯火執筆毎夜怠りなし。

12月31日、朝令暮改の世の中は笑うべきことばかりである。・・先日は唱歌蛍の光は英国の民謡だから以後禁止と言い伝えられたがこれもたちまち改められ従前どおりとなった。・・寝ようとするとき机上の時計を見ると十二時五分を過ぎたばかりだったが除夜の鐘の鳴るのをきかない。これまた戦乱のためであるか。恐るべし恐るべし。

荷風マイナス・ゼロ (68)

独ソ戦の推移(7月から12月)

昭和16年(1941)

 

7月2日、午後大塚という怪しげな女が電話をかけてくる。今年正月五六日ころだったと思う。かねてから知っている派出婦なにがしの紹介で夜九時ころはじめて訪ねてきた女である。自分で語るところによればひと月100円である人の妾となり、大塚あたりのアパートに居住し毎日丸の内のある会社に通勤しているが、旦那が来るのは月に四五回でその他の日は勝手だからと言って、初めての夜も十一時近くまでいたが、この三月ころふとまた訪ねて来た、会社の事務員は月給わずか四十五円でそれ以上になる見込みもないので、二月かぎり辞めてしまいましたから、この後は昼でも夜でも電話さえかけてくださったらいつでも参ります、旦那には以前通り会社へ通勤していることにしてありますからと、自分から先に帯を解き捨て、翌日は夜も十時過ぎまでまめまめしく働いてのちまた一寝入りして立ち去った。その後引きつづき四五月中には月に三四回きて泊って行った。実家は甲府の商家といいそれほど貧しい様子もない。なぜ東京に来て私娼同様の生活をしているのかほとんど理解できない。・・震災からこのかた世の風俗は乱れ乱れてこの二三年ことに若い女が大胆になったことはただただ驚くほかない。

7月3日、昼ごろ米屋の男が配給米を持ってきて言う。お米はだんだんわるくなるばかりです。これまでは精白米六分に外米四分のところこのたびは外米六分に日本米は四分、しかも外米の品質もいよいよわるくなり、かの産地では鶏や豚に食わせる下等米で人間の食うものではないという話です。じきに虫がつきますから五升だけもってきました。うんぬん。

7月5日、夜に入って四隣のラヂオが喧噪きわまる。毎年暑中となれば夕方六時日がまだ没しないうちから夜は十時過ぎまで軍人らの政論田舎訛りのラヂオドラマ浪花節など止む時がない。驚くべき都であり実に住みにくい国というべきである。

(備忘)

一 毎月一日および七日を奉公日とか称して酒煙草を売ることを禁じ、待合料理屋を休みとしたのは昭和十四年七月七日を始めとする。その原因は戦地から帰ってきた士官が発狂し東海道列車中で剣を抜き同乗した車内の旅客を斬ったことがあった。また浅草公園で兵卒が酒に酔い通行人を傷つけたことがあったため、軍人への申し訳にこのような禁欲日を設けるにいたったのである。以後この日は芸者と女給の休業日となり、熱海をはじめ近県の温泉旅館は連れ込みの男女で大いに繁昌するようになった。ついに十五年四月ころより温泉場の手入れとなり新婚の夫婦まで警察署に拘引される奇観を呈している。

一 円タクが遠方に行かず夜十二時過ぎは客を断るようになったのは十四年三四月ころよりである。

一 燈火管制というのは昭和八年七月ころから始まる。

一 煙草二割値上げとなる。ヒカリ11銭だったのを13銭とした。

一 十二月一日から市中飲食店は半搗き米を炊いて客に出す。

一 舶来の酒化粧品ほとんどなくなる。十二月中。

一 市中自動車夜十一時限りとなる。

一 昭和十五年四月二日からカフェー飲食店は夜十一時限り。遊廓および玉の井亀戸は十二時までとなる。

一 六月から砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品製造ならびに販売禁止の令出る。

一 八月二日から市内飲食店夕飯は夕方五時から八時ごろまで。昼は十一時から二時ごろまで。この時間以外には米飯を出さない。九月一日から酒は夕方だけである。待合玉の井吉原あたり、夕方五時より昼遊び禁止となる。

一 十月より自動車は芝居の近所または盛り場浅草公園付近で客の乗降を禁じる。

一 十一月かぎり市中舞踏場禁止。

7月13日、腕くらべ 第六版の一 金300円也

7月15日、本年の税金が暴騰して一回分の金高145円75銭となる。一年分で金1783円となるわけである。戦禍いよいよ驚くべし。街頭の広告に経国イタリヤ婦人朝日など新しい雑誌の名が見える。洋紙節約のため新刊雑誌は出ないはずなのに奇怪千万というべきである。政党も解散させられたはずなのにこれも東方会建国会日本大衆党その他いろいろあって辻々に勝手次第に立て札を出している。このごろ共栄圏といい仏教圏というような圏の字が大いに流行している。今まで見なれぬ漢字を使いたがるのはどんな心でか。笑うべきである。

7月16日、数日来市中に野菜果実なく、豆腐もまた品切れで、市民が難渋しているという。銀座通り千疋屋の店頭にはわずかに桃を並べただけ。牛肉はすでになくこの次は何がなくなるのか。

7月17日、新聞に近衛内閣総辞職の記事が出たが誰ひとりその噂をするものもない。

7月18日、今朝の新聞では近衛一人が残って他の閣僚を更迭するだけと見える。初めから計算した八百長であるようだ。それはともかく以後軍部の専横はひどく世間は一層暗鬱になるであろう。(北進派松岡外相を除くための解散だった。)

・・わたしはつくづく老後に家庭なく朋友なく妻子がないことを喜ばないわけにいかない。模倣ナチス政治のごときは老後の今日わたしの身にはひどく痛痒を感じさせることもない。米は悪く砂糖は少ないが罪なく配所の月を見ると思えばあきらめはつくだろう。

7月20日、汽車の荷物混雑がはなはだしいため、西瓜の産地から西瓜を東京に送ることを禁じたので、今年は果物類すべて品切れのものが多くなるだろうという。

7月24日、下谷外神田辺りの民家には昨今出征兵士が宿泊する。いずれも冬支度なので南洋に行くのでなく蒙古かシベリアに送られるだろうという。三十代の者だけでその中には一度戦地に送られ帰還後除隊させられたものもいるという。市中は物資食料の欠乏がはなはだしいところからこの度の召集に人心はひどく恟々としているようだ。(老兵を北に送り、南進の準備をしている。)

7月25日、夜芝口の金兵衛で食事する。この店の料理人も召集され来月早々高崎の兵営に行くという。この夜ある人のはなしをきくと日本軍はすでに仏領インドシナ(40年9月から北部進駐していたが、41年7月南部にも進駐)と蘭領インドネシア(実際は1942年1月)の二か所に侵入した。この度の動員はこのためだろうと。この風説がほんとうに事実であるならば日軍のなすところは欧州の戦乱に乗じた火事場泥棒に異ならない。

(北部インドシナ進駐を理由に、米は対日石油輸出を禁止した。)

7月26日、野菜果実がいよいよ払底して八百屋の店を閉めるところが少なくない。牛肉に次いでこのニ三日鶏肉もなくなったという。

7月29日、夜店で買った一年有半中江兆民著を読む。幸徳秋水の序がある。

 

8月2日、浅草に行く。地下鉄で水兵が乱酔して係員と争うものがあるのを見る。憎むべきなり。

8月5日、谷町電車通りのパン屋にジャムを買いに行くと主人がいうには、パンにつけて食うものはいっこうに売れません。近頃のパンを買いに来る人は日に三百人くらいありますがジャムの缶は日に三つ四つ売れればよいほうであろうと。お客は以前とまったく違うようになった。これも時勢であろうと。

8月10日、東京市教育界疑獄の噂が高い。それ見たことかというような心地がして愉快を禁ずることができない。陸軍主計などの収賄沙汰があればいよいよ痛快である。当然あるべきはずだが秘して新聞には書かせないのであろう。

8月19日、虎ノ門から桜田へかけて立ち連なった官庁の門を見ると、今まで鉄の鋳物だったものがことごとく木製に取り替えていた。日比谷公園の垣は竹にしてあった。これは米国から鉄の輸出を断られたためのようで貧国の物資欠乏は察するに余りある。先日荒物屋に買い物に行くと魚串金網はりがねの類が久しく前から製造禁止になったことを知った。役人軍人らの銅像も取り払い隅田川の橋梁を昔のように木製にすれば物資の欠乏を補い、かつまた市街の醜観を減らせて一挙両得の策になろう。・・浅草に行く。公園内の八百屋には市中と異なり三つ葉胡瓜トマトなどが並べられていた。・・今年十月から増税のため木戸銭はまたまた高くなるようだ。現在でも公園興行場の景気はニ三年前に比べれば二割がた減少したというはなしである。(屑鉄禁輸は1940年10月)

8月21日、隣人の話では野菜果実はじめパン菓子その他日用品を買うのにみな行列するさわぎで物一つかうのに一二時間を費やすという。

8月25日、日用品が欠乏するにつれ人心の不安はなはだしく、今年の暮れあたりには銀行預金の引き出しにも制限を加えられるおそれがあるといって、市中の商家では紙幣を田舎へ持ち運ぶものが少なくないという。東京の家に隠し置くときは空襲の際に火災にかかるとのことである。わたしも万一のことを慮り2000円ばかりを銀行から引き出し西洋煙草の缶に入れ、台所の棚の上に載せて置くこととした。これは火災をおそれるためでなく、盗難を避けるためである。笑うべし笑うべし。

8月28日、ある人の話に麻布青山辺りのアパートには軍人の妾または軍人相手の売春婦が多く間借りしている。警察署でも遠慮して手入れをせず知らぬ顔をしているという。

8月30日、(今年の税額が倍近くなったので抗議していたところ税務署に呼ばれた。役人は有名税というべきものなので今年は我慢してほしいといった。以下、政府への罵言がつづく。)

 

9月1日、写真フィルム品切れ。煙草もこのニ三日品切れである。町の噂に近いうち民家で使用する鉄銅器を召し上げられるといって、鉄瓶釜のごときは今のうち中古道具屋に売るものが少なくないという。刻み煙草をのむ煙管も隠さねばならぬ世とはなった。

市中のタクシー車数が半分くらいになるという。

9月3日、日米開戦の噂がしきりである。新聞紙上の雑説ことに陸軍情報局とかの暴論など馬鹿々々しくて読むにたえない。

9月5日、玉の井広小路に缶詰問屋がある。市中にはない野菜の缶詰などがこの店にある。小豆黒豆の瓶詰もある。その向かい側の薬屋には蜂蜜がある。北海道から直接に取り寄せると店の者のはなしである。この日浅草で夕飯を食べ缶詰買いに行った。路傍に人だかりがして巡査の白服も見えたので何事かと立ち寄って見ると、喧嘩ではない。背広の安洋服を着た役人が数名屋台店の飲食物を取り調べている。役人の相貌は下賤でその目付きの陰険なこと浅草公園に出没する無頼漢の比ではない。このような人物が市中を徘徊して貧民の営業を妨害するのはまことに痛嘆すべきことである。

・・活動写真統制の禍にあい失業するものが数千人に上るだろうという。

9月6日、街頭の流言にさきごろ内閣総辞職があった原因は松岡外相がロシアに行った際に随行したものの中に間諜がいたためだという。

(松岡はドイツにつづいて対ソ参戦を主張し、主流の南進派に追放された。)

無題録:今日の我が国の状態は別に憂慮するには及ばない。ただ生活するにひどく不便になっただけである。今日わが国において革命(ファッショ化)が成功したのは定業なき暴漢と栄達の道のない不平軍人と、この二種の人間が羨望嫉視するあまり旧政党と財閥、すなわち明治大正の世の成功者を追い退けこれに代わって国家をわがものとしたのである。かつては家賃を踏み倒し飲酒空論に耽った暴漢と朋党あい寄って利権獲得で富を作った成金との争闘に、前者が勝ちを占めたのである。今日のところではまだ日が浅いので勝利者の欠点は顕著でないが遠からず志士軍人らそれら勝利者の陋劣なこと、旧政党の成金と少しも異ならないところに至るのは火を見るより明らかである。幕末西藩の志士がひとたび成功して明治の権臣となりたちまち堕落した前例もある。ここに喧嘩のそば杖を受けて迷惑するのは良民だけである。火事に類焼したのと同じく不時の災難でこれだけは如何ともする道はなく、ただ不運とあきらめるより外ない。手堅い商人はことごとく生計の道を失い威嚇を業とする不良民愛国の志士となって世に横行する。しかし暴論暴行もある程度にとどめておくことが必要である。牛飲馬食も行き過ぎればついに胃を破るだろう。隴を得て蜀を望むという古いことわざもある。志士軍人らも今日までの成功をもって意外の僥倖として反省し、この辺で慎むのがその身のためであろう。米国と砲火をまじえたとえサンフランシスコやパナマあたりを占領してみても長い歳月には何の得るところもないだろう。もしあるとすれば、それは日本が再び米国の文物に接近しその感化に浴する事だけだろう。すなわちデモクラシーの真の意義を理解する機会に遭遇する事であろう。薩長人の英米主義は真のデモクラシーを理解したものではない。

9月7日、街頭の集会広告にこのごろは新たに殉国精神なる文字を用いだした。愛国だの御奉公だの御国のためなどでは一向に効き目がないためだろうか。人民ことごとく殉死すれば残るものは老人と女だけとなるであろう。呵々。

9月8日、東武鉄道浅草駅および上野停車場の出入り口には大根胡瓜などをたずさえた男女が多く徘徊して、争ってタクシーに乗ろうとするのを見る。市中は野菜が払底したので思い思いに近在へ出かけるのであろう。日本の食事にお茶漬けに香の物を味わうことはむかしの夢となったのである。戦争の災害はどうにもならない。

9月10日、この日郵便物中に報知新聞社から書をもとめる手紙があった。これで三木武吉なるものが同社の長となったことを知った。野間清治の死後それを継いだものだろうか。三木は世人がすでに知るように神楽坂の待合松ヶ枝の亭主でかつて東京市役所の疑獄に連座したもの。すなわち刑余の罪人である。しかして公然新聞社の長となった。社会道徳がいかに廃頽したかを知るに足るであろう。しかしまた思うに三木の輩は要するに旧時代の政治ゴロにすぎない。これを今日の尊独愛国者の危険な策略に比すればなお許すべきものがある。今日世界人道のためにもっとも恐るべきものはナチス模倣志士のなすところである。その害の及ぼすところは日本国内のみに留まらないからである。

9月13日、広小路の松喜に上がる。女中のはなしに半年ばかりの間にお客様の種類が一変したという。

9月14日、タゴールの詩集を読む。

9月18日、水天宮門外に漬物屋が二軒並んである。いづれも品物はわるくない。人の噂に梅干しもよい物はやがて品切れとなるだろうから今のうち蓄えておくほうがよいというので、今夕土洲橋までいったので立ち寄って買って帰った。

9月23日、東京には生まれながらの都会人が年とともに少なくなって、都会生活すなわち町住まいの興趣は今やまったくその跡を断った。これは戦争のためだけでないだろう。戦争なく平和の世でも生活に興趣がなくなることは同じであろう。昭和七八年ころ戦争前の世のありさまを回顧すれば、東京の生活の荒廃は戦争の有無にかかわらないことは思うに言うをまたないだろう。

9月26日、夜浅草の煮豆屋に豆を買いに行ったが豆類は毎日何キロときまった制限があるため正午ころには売り切れになるとのことである。

9月28日、(生家の金富町あたりを散歩する)わたしは今年に入ってからようやく老いが迫り来るのをおぼえ歩行すればたちまち疲労を感じることはなはだしいので生まれた小石川の巷を逍遥するのもおそらくは今日この日をもって最後とするであろう。

9月30日、銀座で食事する。このごろ飲食店に入ってすぐに目につくものは四十五十くらいの老婆が三四人づれで仔細らしく話し合っていることである。戦争前には見られなかったことである。国民服とやらを着た中年の男の四五人寄って何やら届け書きらしい紙をひろげて飲み食いしつつ談合するのは珍しくない。電車の中だけでなく銀座丸の内あたりでは街の角で手をうごかして立談するものもいる。戦国の奇風ともいうべきだろうか。

 

 

1940年6月に英仏軍がダンケルクから追い落され、欧州はほぼドイツの支配下となっていた。ドイツは英国上陸の計画や軍備はほぼなかったものの、7月から対英戦争を始めた。海軍力空軍力で劣るドイツは物量で攻めたが、戦闘機は海峡を渡る力が不十分で護衛のない爆撃機は初期レーダーと優秀な戦闘機をもつ英空軍の餌食になった。地力のない英軍も徐々に疲弊したところ、ベルリン空爆が功を奏しドイツは報復感情から安全な夜間空爆に転換した。必然的に無差別爆撃となり、打つ手のない英軍は多数の民間戦死者を止められなかった。損害も多く手詰まりとなったドイツは勝利と主張して10月に対英戦を中止し、ひそかにソ連侵攻を計画した。反共と人種主義理論が根本イデオロギーにあり、南部の穀物石油資源をねらうドイツには当初から対ソ戦が射程にあった。

 

独ソ不可侵条約と日ソ中立条約で安全を確保しようとしたソ連は、誤った判断から攻撃に対する備えが出来ていなかった。満州をにらむ東部に大きな戦力を張り付けていたため、西部はその分防備が不十分でもあった。

6月22日からはじまったバルバロッサ作戦は、史上最大の陸戦となった。ソ連は最初期に航空戦力を奇襲で失い、ドイツ軍はたやすく領内に進攻できた。レニングラード、モスクワ、ウクライナの三方向での作戦により、ソ連のヨーロッパ部分とウクライナは9月初までにドイツの手に落ちた。

だがレニングラードはもちこたえ、ウクライナの掌握に戦力をそいだ結果として冬が近づくまでにモスクワを占領することができなかった。モスクワまで50kmのところで早い冬が訪れ、10月に進軍は止まった。ドイツには過大な自信はあっても戦略や戦争目標がなく、装備や兵站が不十分だった。機械も兵士も凍った。ソ連はもともと国力軍事力がドイツにまさり、ウラル山脈を越えてつぎつぎと新たな兵力が補充されてきた。

あちこちノウルーズ

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イラン東部ケルマーン市のガンジャリ・ハーン建物群サファヴィー朝のもので、エスファハーンナクシュ・ジャハーンに似ている。内部はバーザール、ハマム、キャラヴァン・サライマドラサ、モスクを含む。

 

 

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イラン北部のホイ(フボイ)。タブリーズ北西で国境に近い。

 

 

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パーキスターンのハイバル・パフトゥンフア Sherkot 。南アジアのノリだ。

 

 

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カザフスターンの Kokshetau 市。世紀を経て羽根付き帽子が健在だ。

 

 

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キルギスターンのビシュケク

 

 

MHadiJF

濃淡は新年で休日、休日、祝うコミュニティーがあるの違い。

テヘラン ノウルーズ

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今年もノウルーズがやってきた。

グランドバーザールに隣接したハフト・タン通りのにぎわい。人出がすごい。

 

 

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ゴレスターン宮殿近くの Parvaneh 金曜マーケット。

 

 

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ショッピングモールでのハージー・フィールズ

 

 

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Tabiat 橋に隣接する水と火の公園の縁日。

 

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ノウルーズはじまりのタビアト橋の花火。

 

タビアト橋はテヘラン北部にある。

 

 

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新年直前のテヘラン北部タジリッシュ。タビアト橋から5kmほど北。