荷風マイナス・ゼロ (67)

独ソ開戦まえの欧州

 

昭和16年(1941) 

 

4月4日、新橋橋上のビラにもう一押しだ我慢しろ南進だ南進だとあった。車夫の喧嘩のようだ。日本語の下賤を今は矯正する道がない。

4月9日、終日パーレーの万国史を読む。(実際の作者はナサニエル・ホーソーン)この書はわたしが少年のころ英語の教科書に用いられていたことがある。今日たまたまこれを読むと米国人の米国を愛する誠実な感情が藹然として人を動かすものがある。愛国心を吐露した著述中のもっともよいものというべきである。日本にはこのような出版物がほとんどない。

4月10日、午後昼飯を銀座で食べて直にかえる。街頭電車ともに醜悪な老婆田舎漢で雑踏していた。

4月11日、食料品を買おうと銀座に行く。葛きな粉その他の乾物類はたいてい品切れである。

4月13日、尾張町竹葉亭は米不足で鰻にうどんをそえて出すという。天金は早仕舞にするという。銀座食堂は平素客が少ないので定刻まで米飯を出す。牛肉屋松喜も通りがかりに様子を見れば米の飯を出すようだ。

4月14日、出かけて銀座で食事する。来月から毎週一度づつ牛肉屋は休みになるという。洋食屋も同じく休業するだろうという。

4月16日、正午銀座洋服屋来る。洋服羅紗地はこの後はいよいよ悪くなるという。羊毛がますます少なく絹糸が多くなるから、洋服を着るよりは和服の方が冬は暖かになるだろうし、将来は洋服屋は立ちいかなくなるだろうと語った。

4月17日、浅草に行き公園の米作で食事する。木の芽あえ味よし。この店は新政により昼飯は2円50銭かぎりでそれ以上はできないという。

4月19日、電車で歌舞伎座前を過ぎる時あたかも開場間際と見え観客が入り口の階段に押し合いするさまは物凄かった。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場だけではないと見える。近年歌舞伎座大入りつづきでかくの如きありさまでは役人の嫉視の眼もおのづから鋭くなるわけである。近いうちに必ず制裁の令が下るであろう。観客の風采醜陋なること浅草六区と大差ないようである。

4月23日、銀座で食事する。先月来食料品店のみならず菓子屋果物屋の店頭に缶詰瓶詰物がおびただしく並べられている。今まで見たことのない缶詰もある。大西洋航路が閉止となり輸出することが出来なくなったためという。葡萄酒も戦前フランスの輸出品で上海神戸辺りに滞貨していたものを日本製ガラス瓶に詰め替えたものには値段の割に良い品があると三浦屋店員の話である。試しに一本買い帰って味を見ると果たしてその言う通りのようだ。

4月24日、谷町通りの靴屋で靴の直しをたのんでいたが皮も配給になり来月なかばころまで皮はないという。

4月26日、ある人のはなしを聞くと官吏で赤化の疑いがある者が数十名捕らえられたという。そのなかに高等官が多いという。政府はこのほどロシアと和親条約を結んだとき突然この疑獄が起こる。世情渾沌五里霧中にあるようだ。

企画院事件 4月25日日ソ中立条約発効。)

4月29日、鳩居堂に行き白扇を買おうとすると品切れであった。美濃屋で問うと四五本残っているという。

(噂の聞き書きとして出征軍人戦死軍人の妻の醜聞。)

4月30日、(亀戸天神に行く)鳥居前の茶店はみな店を閉め葛餅団子その他ことごとく品切れの札を下げていた。藤棚下の掛け茶屋では怪しげな蜜豆サイダーを売っていた。

 

5月6日、どこの店にも巻煙草がない。ある店で聞くと毎日配給はあるが早朝一二時間で売り切れとなるという。また日本酒の配給は一家族にひと月一合の割り当てである。これは飲食店へ配給した残りの酒であろう。理研とやらで化学的に調合した酒なので一種の臭気があって口にし難い。土方の飲む悪酒であるというものもいる。

5月8日、市兵衛町は大掃除で近所の派出婦会から女を雇うと、年二十二三の丸顔の女がもんぺを履いて来る。その顔と言葉遣いが玉の井で知る家の出方にそっくりなので、故郷は山形かと問えばそうです、と言った。戦争このかた若い女が他所へ移住することは禁止されている。汽車の中でも捕らえられた時はすぐに送還されるのである。親類で東京に居住するものがあれば前もって打合せし理由をつけて東京に旅立つのだという。江戸時代のはなしを聞く心地がする。

・・今月から八の日は肉食禁止になったということで銀座浅草とも飲食店の過半は店を閉めた。

5月10日、夜浅草で食事してオペラ館楽屋を訪ねる。踊り子大部屋に左のごとき紙片が落ちていた。滑稽なのでここに転写して笑いを後世に残すよすがとする。

「さて時局の進展は益芸能文化によって戦時国民生活を側衛するの急なるを感じます。吾等はここに時局認識をお互いに徹底し職域奉公の誠を効す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるる陸海軍当局要路の方々より御講話拝聴の会を左記次第にて開催致す(略)芸能文化連盟会長」

5月11日、(市中の風聞)角力取りの家ではどこでも精米が無尽蔵である。南京米など食うものは一人もいない。精白米は軍人のひいき客からもらうという。

五月八日に戦死兵士家族が招魂社に招待されたとき偕行社で出した料理は西洋食で肉が多かったという。(遺族を歌舞伎座に招待したさい折詰弁当の箱を燃していると火事になりそうになった。これらは軍部によりいっさい報道が禁じられた)

・・築地辺りの待合料理店は引きつづき軍人のお客で繁昌ひとかたならない。公然輸入禁止品を使用するだけでなく暴利をむさぼって売るものもいる。待合のかみさんもこのごろは軍人の陋劣さに呆れかえっているという。

尾上菊五郎大谷竹次郎家族の徴兵醜聞)

5月12日、市中の煙草店は煙草がいよいよ不足となった。刻み煙草も早朝売り切れになるという。ただし軍部に関係ある者また新橋の花柳界は不自由することがないという。わたしの机上には二三年前に買い置きしたリッチモンドの缶も今はわずかに一個を残すだけになった。先夜新橋から乗った円タクの運転手は年四十ばかりだったがガソリンも米も煙草もみな不足だけれど女ばかりは不足しない、米や酒は節約せよとの命令だが夜中の淫行は別に節制のお触れもない。松の実かにんにくでも食って女房と乳くりあうより外に楽しみはない世の中になりましたと語った。

5月15日、世間の風潮また読書界の状況を見ると不愉快かぎりない事だらけである。わたしは世間から文士あつかいされるほど耐え難いことはない。手紙で雑録出版延期または中止したいことを伝えた。

陰茎切り取りの淫婦阿部お定満期出獄。

5月16日、佐藤春夫が某新聞紙上でわたしに関してひどく迷惑な論文を掲載したという。事理を解さない田舎漢と酒狂人ほど厄介なものはない。

5月18日、熱海のある旅館の主人が来て旅館の女中も家の大小により人員を制限し解雇されたものは工場に送ることになるという。検査の役人は三島の役所から出張してくる。旅館ではこの役人に100円くらいの賄賂を贈り女中の人数をごまかすのだという。熱海の警察署はその以前から収賄ありさまであるという。

5月19日、病院で試験に用いるウサギはその死骸を一手に買い集める者がいて、やがては露店の焼き鳥になるとのことなので用心してくださいという。

5月20日歌舞伎座来月の狂言髪結新三はその筋が許さない。源氏店は与三郎が改心するように改作せよといわれたという。加賀鳶も改訂しなければ許さないという。

5月21日、深川扇橋辺地所一坪 金100円以上  本所千歳町辺 同  深川平井町辺 金50円以上  浅草橋場辺 金90円以上 右電車内広告競買地所価格である。

5月23日、先月来食欲がとみに減り終日ただ睡眠をもよおすばかり。・・外米の被害だろうと電気治療をする。新政の害毒がついにわたしの健康をおびやかすに至った。可恐可恐。

5月26日、市中に散在する鶏肉アスパラガスなどの缶詰はアメリカに輸出するため製造されたものだという。

5月29日、芝口の牛肉屋今朝に行って食事する。半年前に比べれば肉類野菜がことごとく粗悪となり値段はかえって一人前3円になった。漬物が殊にわるくなったのでその訳を聞くと今までは漬物だけこしらえるおばさんが居ましたがその人がよして代わりがないからでしょうと女中が話した。

5月31日、(戯文が郵送されてきたとして紹介:慾簒怪ヨクサンカイという化物は日本中の米甘藷バター牛肉などを食いつくし、吠える声はコーアコーアともセイセンとも聞こえる・・。書いたのは荷風自身だろう) 

 

6月3日、飲食店で夜十一時かぎりで灯を消さないところにはこの頃巡査が入ってきて客を拘引するという。女連れの客と見ればいよいよきびしく尋問するという。

6月4日、雀が人になれて毎朝勝手口に集まってきて洗い流しの米をついばむ。雀も今は閉口して南京米を嫌がらないようになったか。憐れである。

6月6日、葛粉一袋越後小谷町産金3円なり。・・新政以後東京市内で葛粉を売るところは一軒もない。

6月7日、池ノ端揚げ出しで夕飯を食べる。豆腐料理は品切れである。この店でもすでにかくの如し。市中に豆腐がないのは推して知るべし。

6月8日、銀座を過ぎるとこの日は牛肉が休みだから天ぷら屋天国その他蕎麦屋の店口に散歩の家族男女事務員らしいものが列をなして押し合うのを見る。まったく餓鬼道の光景である。

6月10日、芝口の牛肉店今朝で食事する。牛肉鶏肉いづれも品不足のため毎月四回休業。なお午後は毎日閉店すると女中の話である。

6月11日、オペラ館楽屋に行く。芸人某が徴兵に取られ戦地に行くといって自ら国旗を買ってきて、武運長久の四字を書けという。この語も今は送別の代用語になったと思えば深く考えるにもおよばず直に書いてやった。

6月12日、銀座の洋服屋新川が先月かぎり洋服仕立てをやめ雑貨店になったといって去年の勘定を取りにきた。新川は明治八九年ころから銀座で営業する老舗だという。

6月15日、(18世紀の俳人神沢杜口の翁草に、天子将軍のことでも筆を執ればいささかも遠慮の心を起こすべからずとあるのを引いて)わたしは万々一の場合を憂慮し、ある夜更けに起きて日誌中の不平噴惻の文字を切り去った。また外出の際には日誌を下駄箱の中にかくした。いま翁草の文を読んで慚愧することはなはだしい。今日以後わたしの思うところは寸毫もはばかり恐れることなくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。

日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺および満州侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)と称して支那の領土を侵略しはじめたが、長期戦争に窮した果てににわかに名目を変えて聖戦と称する無意味な語を用いだした。欧州戦乱以後イギリス軍が振るわないのに乗じ日本政府はドイツイタリアの旗下に従い南洋進出を企画するにいたったのである。しかしこれは無智の軍人らおよび猛悪な壮士らの企てるところで一般人民のよろこぶところではない。国民一般が政府の命令に服従して南京米を喰って不平をいわないのは恐怖の結果である。麻布連隊叛乱(2.26)のさまを見て恐怖した結果である。今日では忠孝を看板にして新政府の気に入るようにしてひと儲けしようと焦慮するためである。元来日本人には理想がなく強きものに従いその日その日を気楽に送ることを第一にしている。今回の政治革新(ファッショ化)も戊辰の革命も一般の人民にとってはなんらの差別もない。ヨーロッパの天地に戦争がやむ暁には日本の社会状態もまたみずから変転するだろう。今日は将来を予言すべきときではない。

6月18日、町の辻々に汪兆銘(漢奸)の名を記した立て札を出し、電車の屋根にも旗を出している。汪氏の日本の政府から支給される俸給は一年5億円であるという。(汪は前年南京にカイライ政府を樹立し、この年6月訪日した。)

(町の噂として、芝口の米屋の息子が召集され中国に行き、ある医師の家庭に侵入した。医師を殺しその家の母子を強姦し井戸に放りこんだ。帰還して自分の母と嫁を預けておいた埼玉の某市に行くと、二人の様子がおかしい。ある日母は息子に、留守中強盗に襲われ強姦されたと告白する。息子はほどなく精神に異常をきたし戦地でしたことを人前で語りつづけるようになったので、憲兵屯所に引かれやがて市川の陸軍精神病院に送られた。市川の病院には三四万人の狂人が収容されているという。)

6月19日、銀座四丁目木村屋の前にはパンを買おうとするものが正午ころ2-300mほど列をなしていた。毎日このようだという。

6月20日、(大学新聞が郵便で寄稿を求めてきたので怒って)現代人の心理は到底うかがい知ることができない。わたしはこのような傲慢無礼な民族が武力をもって隣国に侵略することを痛嘆せずにはいられない。米国よ。すみやかに立ってこの狂暴な民族に改悛の機会を与えよ。

6月21日、下谷辺りのある菓子屋で主人が店の者に給金のほかに慰労金を与えたことが露見し、総動員法違反のかどで1000円の罰金を取られたという。使用人に賞金を与えて罰せられるとは不可思議の世の中である。

6月22日、号外売りがドイツロシア開戦を報じる。

6月23日、牛肉屋松喜の店先に牛肉品切れにつき鶏肉を代わりにすることを書き出していた。

6月24日、税務署の通知にわたしの前年の乙種所得金6000円とあった。これはすなわち原稿料のことであるから正午愛宕下の税務署に行く。(交渉の結果のちに減税される。)

6月27日、独露開戦以降あやしげな政治家の演説広告が街頭公園のいたるところに掲示される。

6月29日、芝口の牛店今朝で夕飯を食べる。牛肉は十日ほど前から品切れで鶏肉を代わりとする。客は鶏肉を好まず牛肉なしといえばみな立ち去るという。この日も客はわたし一人だけである。鶏肉を好まず豚肉を好むのは現代人の特徴であるようだ。

荷風マイナス・ゼロ (66)

何て読む?

 

昭和16年(1941)

 

1月1日、「風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰いうけたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢えをしのぐ。思えば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過ごしたり。始めは物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚だしく世の中遂に一変せし今日になりてみれば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣いながら崖道づたい谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折りなど、何ともいえぬ思いのすることあり。哀愁の美感に酔うことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴虐なる政府の権力とても之を束縛すること能わず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。」

1月2日、午後銀座から浅草に行く。家に在る時は炭の入用が多くなるからである。浅草の人出はものすごいばかりである。駒形辺りまた田原町辺りから人が波を打っていた。・・浅草にかぎらず今年は市中の人出が去年よりはなはだしいようである。東京の住民は正月のみならず何か事があれば全家が外に出て遊び歩くものとみえる。これは近年の風俗である。その原因は何であるか。地方人の移住するものが多いためとのみ断定することもまた当たってはいないようである。

1月3日、今年は年賀状もわづかに四五通、来訪の客ひとりもなし。時勢の変化で喜ぶべきはこの事だけである。

1月4日、オペラ館に行く。館主田代氏が来て本年三ケ日は非常に大入りで毎日三千人以上の観客があったと、毛皮襟付きの外套をきてすこぶる得意の様子であった。

1月6日、夜赤十字社東京支部女事務員で春を売るものが電話をかけてきてよい人をご紹介したいお差支えなければこれからすぐ連れていくという。一時間ばかりして年は二十二三、小づくりの女を連れてきた。・・人心の変化はわれら老人の到底うかがい知れぬところである。むかしは提重(さげじゅう)とか呼んで独身の武家または勤番の侍の家を歩きまわった私娼がいたとのことであるが、これら女事務員たちのするところはおのづから一致するのも可笑しい話。新体制時代のことであるからサンドイッチとでも呼ぶべきではないか。

1月10日、(遺言書を書く。以前書いたもの同様だが、遺産はフランス・アカデミーでなくどこにも寄付するなと。ドイツ占領下の現状に応じてだろう。)

1月13日、芝口の牛肉屋今朝で食事する。米不足だとして一人客は門口で断って入れない。また七時ころからは米飯のかわりにうどんを出す。わたしは去年の夏ごろから女中に浅草興行物の切符または祝儀をやっているので断られたことはなく、また必ず米飯をもってくる。

1月15日、銀座竹葉亭で食事する。米不足だといって芋をまぜた飯をどんぶりに盛って出す。寄宿舎の食堂のようである。

1月16日、(ドーデの戦争日記を読んで)フランス国民が北狄に侵略されることも今度の惨禍を思えば免れがたい宿命というべきか。

1月18日、銀座食堂で飯。この店の客は数年前までは都人に限られたが去年夏ごろから田舎者または場末に住む商人のように見える者だけとなった。男女の容貌風采は尾久三河島辺りの裏長屋などによく見られるものと変わりない。卑賎から成りあがったものばかり多く目に触れ、昔はさぞとゆかしく思われる人物を見ることはほとんどない。世の変わり目はいつの時代でもこのようなものであろう。

1月21日、象牙の三味線バチが去年から製造禁止となったので現在の物がなくなればその後は樫の木のバチ以外ひくものがなくなるという。またピアノの製造ならびに販売も禁止されているという。・・三越でメリヤス肌着を買おうとすると品不足で上下がそろわない。

1月25日、人の噂にこのごろ東京市中どの家でも米屋に米が少なく、一度に五升より多くは売らないため人数の多い家では毎日のように米屋に米買いに行くという。パンもまた朝のうち一二時間でどこも売り切れとなり、うどんも同じく手に入りにくいという。政府はこの窮状にもかかわらずドイツの手先となって米国と砲戦を交えようとする。笑うべくまた憂うべきである。

1月26日、午後町会の爺が会費を集めに来て言う。三月から白米も切符制となるはずで目下その準備中である。労働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割り当てになるだろうと。むかし捨扶持二合半と言ったことも思い合わされて哀れである。

1月27日、(浅草寺おみくじで吉と出て)この分ならば世の変革もさして憂えるに及ばないか。筆禍が身に及ぶことはないようである。

1月28日、街頭宣伝の立て札がこのごろは南進とか太平洋政策とかいう文字を用いだしている。支那は思うようにいかぬので今度はマレー人を征服しようとする心だろうか。彼方をあらし此方をかじり台所中あらし回る老鼠の悪戯にもにていないだろうか。

 

2月1日、(たびたび交渉のあった鹿沼の女が訪ねてくる。)過去を清算して家庭の人になりますからお暇乞いに来ましたというそばから、今月末にはまた出てくるかもしれませんと言い、いやだったら逃げるつもりですなど言いだし、なんのことやら訳がわからない。しかし東京で日陰の世渡りをしたことは止してしまえばその時かぎり誰にも知られず消えてしまうものと確信してさらに気づかう様子もない。その心の単純なることわれらにはむしろ不可思議である。世間の前科者などの心情もまたこのようなものだろうか。朴訥仁に近しと古人が言ったのは真であろう。

2月4日、(オペラ館)楽屋に行くと朝鮮の踊り子一座がいて日本の流行歌を歌う。声柄に一種の哀愁がある。朝鮮語で朝鮮の民謡を歌わせればさぞよいだろうと思ってそれを告げると、公開の場所で朝鮮語を用いまた民謡を歌うことは厳禁されていると答えそれほど憤慨する様子もない。わたしは言い難い悲痛の感に打たれずにいられなかった。かの国の王は東京に幽閉されてふたたびその国に帰る機会がなく、その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止される。悲しむべきかぎりではないか。わたしは日本人の海外発展に対して歓喜の情をもよおすことはできない。むしろ嫌悪と恐怖とを感じてやまない。わたしがかつて米国にいたとき米国人はキューバ島の民がその国の言語を使用しその民謡を歌うことを禁じなかったと聞いた。わたしは自由の国に永遠の勝利と光栄のあらんことを願うものである。

2月8日、飯米三月から切符制になるという。

2月13日、岩波文庫二月勘定左のごとし。

雪解 第三刷二回 金120円也

2月15日、十時ごろ虎ノ門から地下鉄に乗る。乗客の大半は銀座京橋辺りの事務所または商店に通勤するとおぼしき中年の紳士である。役人らしく見えるのもいる。いづれも傲慢陰険な面持ちで仔細らしく新聞の第一面を読んでいた。談話は統制に対する商策のみであるようだ。朝早くから浅草に遊びに出かけるようなものは一人もいないだろうと思えば自然と微笑を禁ずることができない。

2月18日、金城写真店で現像液その他を買おうとしたがみな品切れであった。

2月24日、浅草に行き寺島町を歩む。時あたかも五時になったとみえて色町組合の男がちりんちりんと鐘を鳴らして路地を歩き回っていた。昨年からこの里も五時前には客を引くことが禁止になったのである。馴染みの家に立ち寄ると飯炊きの老婆が茶をすすめながら、昔はどこへ行こうがお米とおてんと様はついて回ると言いましたが、今はそうも行かなくなりました。お米は西洋へ売るから足りなくなるという話(ドイツへとの噂)だが困ったものだと言った。怨嗟の声がこのような陋巷にまで聞かれるようになったのである。軍人執政の世もいよいよ末近くなった。

 

3月2日、熱海スターホテルの主人が北海道製純良牛酪を手に入れたといってそれを携え訪問する。熱海の浴客は去年の暮れよりまたまた増加し利益が少なくないという。

3月3日、鹿沼町の女が突然訪ねてくる。田舎での縁談は思わしくないので十日ほど前から東京に来た、ただいまは蠣殻町の待合××という家に住み込み、当分ここで稼ぐつもりだという。住み込みの女は三四人いて、いづれもいそがしく一日ならしで20円のかせぎがある。この待合の客筋には警視庁特高の主だった役人、また翼賛会の大立者(名は秘して言わず)がいるので手入れの心配は決してないと語った。新体制の腐敗が早くも帝都の裏面にまで瀰漫したのである。痛快なりというべし。

3月8日、夜、谷町でタオルを買おうとすると配給の切符がなければ売らないといった。

3月10日、(オペラ館楽屋で明日は主だった代表者が内閣書記官長某の宅へお礼のため伺候すると聞く。)

3月11日、(浅草で聞いた話:銀座のデパートで軍需工場の職工が台所道具を買い物していると女の職工が客で居合わせた。銀座通りで後をつけ、プロポーズすると女は驚きもせず承諾した。職工は一日80円かせぎ女は女給時代に貯金していた。その日から夫婦になって女はすぐ妊娠し、子供を産んで置いて逃げた。職工は浅草の漫才師に養育料をつけて引き取ってもらった。漫才師は金をねこばばして子供を興行師に売った。)

3月14日、三越の洋書を見る。売れ残りのフランス書籍も今は数えるばかりになった。

・・岩波書店三月勘定

珊瑚集 第三版の二 6000部 金120円也

3月17日、(玉の井の噂話:玉の井交番勤務の巡査が閨房のぞきが好きで、銘酒屋の女も見せてやることがあった。転任を延ばしていたが、念願かなって寺島署の私服刑事になり私娼窟とカフェーの臨検役になった。毎夜十二時過ぎにはのぞき見に来て、満足して帰るという。)

3月22日、日本詩人協会とか称するところから会費3円請求の郵便小為替用紙を封入して参加を迫ってきた。会員人名を見ると蒲原土井野口あたりの古いところから佐藤春夫西條八十などの若手もまじっている。趣意書の文中には肇国の精神だの国語の浄化だのという文字が多く散見された。そもそもこの会は詩人協会と称しながら和歌俳諧および漢詩朗詠などの作者に対しては交渉しなかったようで、ただ新体詩口語詩などの作者だけの集合を旨とするようだ。今日、彼らの詩と称するものは近代西洋韻文体の和訳もしくはその模倣ではないか。近代西洋の詩歌がなければ生まれ出なかったものでないか。その発生からして直接に肇国の精神とは関係ないもので、またかえって国語を濁化するのに力あったものではないか。・・佐藤春夫の詩が国語を浄化する力ありとは滑稽至極というべきである。これらのひとびとが自らおのれを詩人なりと思えるのはうぬぼれの絶頂というべし。木下杢太郎もまたこの会員中にその名を連ねている。彼らは今後十年たたずして日本の文章は横にかき左から読むようになるべき形勢が今すでに顕著なことを知らないのだろうか。

3月24日、(オランダ公使館前を散歩する。)建物の窓が開いているのもあって人が住むようだ。本国は北賊猅虎(ヒトラ)のために滅ぼされインド洋上の領土は和寇の襲うところとならんとしている。亡国の使臣は今なおこの家にかくれ住むのだろうか。哀れむべきである。

3月26日、春風が暖かくなるにしたがって銀座通りの人出が日に増して多くなっている。芝居活動小屋飲食店の繁昌も盛んだという。その原因はインフレ景気によるだけでなく、東京の人口が去年あたりから毎月二三万人づつ増加しているのに、米穀不足のため町に出て物を喰おうとするものが激増したためという。飯米は四月六日から男一人一日分二合半の割り当てで切符制を実施するという。

3月29日、町の噂に新内節師匠は去年御法度となりこの家の門口に師匠の看板をかけることを禁じられたという。歌沢節も芝派寅派の差別なくこれも御法度という。されば小唄も同様で、薗八節は言うまでもないことであろう。ある人は江戸俗曲が絶滅することを悲しんでもこれは如何ともできないことであろう。新政府の政令がなくても江戸時代風雅の声曲は今日の衆俗には喜ばれるものではない。早晩絶滅すべきものである。わたしの著述のようなものも要するに同じ運命をたどるものであろう。

荷風マイナス・ゼロ (65)

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清水港代参夢道中 (1940 日活 マキノ正博監督)

 

映画嫌いだった荷風葛飾情話の上演を機に、あたらしい分野に関心をもちはじめる。浅草交響曲の映画化は実現しなかったが、のちになっても音楽映画左手の曲を構想している。

1940年当時どんな映画が作られていたかというと、同年の清水港代参夢道中(続清水港)はマキノ正博監督で荷風が大嫌いな浪花節を使ったミュージカルで天敵の広沢虎造が出演する佳作だ。

主演は片岡千恵蔵で、ミュージカル清水港の演出家の設定だ。舞台が思うように仕上がらなくて、秘書の轟由紀子に八つ当たりしている。疲れて眠り起きると、そこは清水港で片岡は森の石松になっていた。当時タイムスリップのアイデアはゆきわたっていないため、夢道中が演じられることになる。

自分が昭和から来たといっても、許嫁の轟には信じてもらえない。子分たちからも、頭がおかしくなったと思われる。次郎長は気晴らしと静養のため、金毘羅代参を言いつける。ところが浪曲物語では旅の途中で、石松は殺されることになっている。片岡は必死に抵抗するが聞いてもらえないところに、轟が一人旅で死ぬなら自分が同伴して二人旅になれば運命は変わるのではとアイデアを出す。そこで二人のロードムーヴィーがはじまる。

時代を先取りしたプロットだけでも面白そうだが、片岡の演技がよく轟のヒロインも魅力的だ。子役で後の長門裕之も初出演している。マキノの才気があふれ、浪花節や音楽の入れかたにも軍国調はない。1時間半でのんびり見られるので、荷風にもおすすめできる作品だ。

 

マキノ作品といえば、カルトになっている鴛鴦歌合戦がいい。

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1939年のお気楽な小品だが、日米戦争の影などみじんも感じられないジャズオペレッタだ。冒頭ディック・ミネ殿様の歌がしゃれている。志村喬茶碗の歌も、渋くてうまい。

 

 

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轟由紀子は元宝塚のスターで、マキノ監督作のハナ子さん (1943)で歌って踊っている。ただしこれは現代のカラー化版だ。マンガ銃後のハナ子さんの実写化だからバリバリの戦意高揚映画で罪深いが、冒頭からバスビー・バークレーオモチャの兵隊場面 など検閲の無知につけこんだものだろう。

 

 

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東京パラダイス (1936) は東京の女性の伏水修監督作品のカラー化版だ。冒頭、国民精神総動員のスローガンが掲げられタイトル画面の音楽が消えているが、その先は銀座のモガモボたちが登場するおしゃれなミュージカルになる。銀座の夜景やレトロお茶の水が見られる。

主人公は銀座の店員だが、ルームシェアする親友はダンスホールのダンサーで現代でも通用する雰囲気をただよわせている。大昔の香港映画のようでもある。「いつか幸福が逃げていくような気がする」とヒロインがつぶやくのがかなしい。

これを見ると荷風は江戸から西洋にタイムスリップした異邦人で、アジア的近代の猥雑さについになじめなかった人とも思えてくる。

 

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カラー版クライマックスは音声がきえているので、オリジナルはこちら。

 

 

鴛鴦歌合戦

荷風マイナス・ゼロ (64)

弥次喜多道中記 (1938 日活 マキノ正博監督)

昭和15年(1940)

 

11月1日、正午ちかく久保藤子という女が訪ねてくる。先月中蛎殻町にある怪しい周旋屋野口というものの一室で知り合いになったのである。その語るところを聞くと年は三十で三つになる娘がいる。三年ほど前に夫に死に別れ、深川三好町で材木屋を営む叔父の厄介になり、丸の内鉄道省文書課の雇となり毎月40円の給料をもらっている。しかし生活費もおいおい高くなり娘の将来も心配になったので二三月前から同じ省内の女事務員で心安いものの秘密をきき、かつまたその勧告で日陰の商売をするようになった。三四年の間にせいぜい稼いで貯金をし、おでん屋か煙草屋のような小商いの店を買う資金をつくり娘を教育するつもりだという。心安い同僚の女事務員というのは年二十八で毎月50円の旦那を三人もち八丁堀のアパートに住んでいるという。また鉄道省勤務時間は朝九時から午後四時までで朝の出勤は女にかぎり十五分の遅刻は大目に見て黙許するという。藤子は半日わが家にいて台所の掃除をし夜具寝巻の破れをつくろってくれた。・・彼女の処世談は親独新政治の世のかくれたる一面をうかがうに足るべきものであろう。(このごろ蛎殻町に行くと●マークがつくので、なじみになっていたようだ。映画を一緒に見た女性か?)

11月4日、世の噂を聞くと二月二十六日反乱の賊徒および濱口首相暗殺犯人はことごとく出獄放免されたという。

11月5日、この夜町の噂をきくと市中銀行預金引き出しは最大額一口1万円かぎりとし、かつその用途を申告するという。預け入れの場合は3万円以上は同じくその収納の理由を明らかにするという。国家破産の時期がいよいよ切迫してきたようだ。

11月7日、暮がた銀座をすぎると路傍に祭礼の高張り提灯など出し、町のさまが先月ころに比べればやや活気を帯びている。人の語るところをきくと、芝居の狂言なども少しはやわらかいものを演じても差し支えない。時間も夜十時を少しくらい過ぎてもよい。自粛自粛といってあまり窮屈にせずともよいと軍部から内々のお許しがあったという。しかし一説にはこのお許しは年末にかけて窮民が暴動をおこそうとすることを恐れたためで、来春に至れば政府の専横はいよいよひどくなるだろう。内閣はまたまた変わるだろう。国外へ追放される名士は数十名に及ぶだろうという。

11月8日、浅草公園に行く。帰途街頭にふたたび酔漢が多いのを見る。田原町地下鉄入口で格闘するものがいる。車中で大声に口論するものがいる。虎ノ門でカフェー帰りとおぼしき者が酔って争うのがいる。禁令が少しゆるむと見るやたちまちかくのごとき光景になる。呆れ果てたる国民だと言うべし。

11月9日、銀座通りの人出がおびただしいこと酉の市の比ではない。

11月10日、蛎殻町アパート秀明閣に野口老婆を訪ねる。私娼がふたり居合わせて赤飯を食っていた。今日は紀元二千六百年の祭礼で市中の料理屋カフェーでも規則によらず朝から酒を売るとのことで待合茶屋また連れ込み旅館なども臨検のおそれがないだろうと語り合い、やがてどこかへ出かけていった。老婆は茶を入れ替え赤飯をすすめる。白米もち米ともに埼玉県秩父郡のさる客から内々で送ってきたものだという。また切り炭は同じところから夜具の中につつみ鉄道便で送ってくるという。

・・このごろもっぱら人の言い伝える巷説をきくと、新政治家の中で末信、中野(正剛、ファシスト)、橋本その他の一味は過激な共産主義者である。軍人中この一味に加わるものがまた少なくない。そして近衛公は過激な革命運動を防止しようと苦心しつつある。近衛の運動費は久原(房之助)小林(一三)などから寄付したものを合わせて3000万円余に上る。新体制の一味徒党のなかには以上の二派があって両者の葛藤は遠からず社会の表面に出るだろうとのことである。

11月11日、銀座食堂で食事する。表通りは花電車を見ようとする群衆が雑踏し、四丁目四辻辺りはほとんど歩くことができない。裏通りに出ると乱酔した学生が隊を作って横行し、数人ずつ抱き合って放歌し乱舞するさまは醜陋見るにたえない。南鍋町四つ角の辺りがもっともひどい。

11月12日、銀座食堂に行き晩飯を食べる。ちょうど花電車数両が銀座通りを通るのに会う。街頭の群衆は歓呼し狂するようだ。・・回顧すれば花電車は昭和十一年の秋が最後でその後はなかったようだ。

11月14日、夜買い物に銀座に行く。砂糖その他またまた品切れという。菓子煮豆のたぐいが先日から品切れとなっていた。街頭には花電車の見物人が今もって雑踏していた。

11月16日、町会のものが来て炭配給権を渡してくれたのでさっそく出入りの炭屋に行く。ほどなく炭一俵をもってきたが以前のように親切に炭を切りなどせず俵のまま門口に置き認め印を求めて去った。今年は炭団練炭も思うようには売れないという。水天宮門前に花電車を数両並べて置いてあった。見物人が雑踏している。一両3000円かかったなどと語り合っていた。わたしが病院薬局の女の語るところを聞くには病院内で花電車を見たことがないというものが三分の二以上で、これを知るものは四十以上の者ばかりだとの事から推測して、現在東京に居住するものの大半は昭和十年以降地方から移り来たったものであると知った。浅草公園の芸人に東京生まれが少ないのもあやしむに足りない。時代の趣味が低落したのも理由がないわけではない。浪花節が国粋芸術といわれるのももっとも至極である。今回の新政治も田舎漢のつくり出したものと思えばそれほど驚くにもおよばない。フランス革命また明治維新の変などとはまったく性質を異にするものである。

11月19日、オペラ館文芸部小川丈夫は頭髪を五分刈りにして制服のようなものを着ていた。数か月前とは風采が一変してまったく別人となった。

11月20日、西銀座のある商店の主人に逢う。その人いわく銀座西側だけで徴兵に出るものが今年は170人ある。ほどなく南京あたりに送られるとのこと。成人の体格が今年は著しく悪くなったと検査の軍人どもが眉をひそめていたと。

11月21日、中央公論社社員来話。来春から定期刊行物の紙形が小さくなるとのこと。追って書籍も同じく小さい形になるという。

11月23日、暮れがた米屋の男が米を持ってきて言う。麻布区内で米穀配給所という事でわずかに閉店失業の悲運をまぬかれた店は5軒である。その他数十軒の米屋はみな店を閉じ雇人は満州に行って百姓になる訓練を受けていると。また米穀は警察署の印判を押してもらわないかぎり店へ運搬することができない、日曜祭日などつづくときは警官役人ともに休みとなり店に米がないときがある。不便ひとかたならないという。この度の改革でもっとも悲運に陥ったものは米屋と炭屋で、昔から一番手堅い商売といわれたものが一番早くつぶされ、料理屋芝居のような水商売が一番もうかるありさまは何とも不思議のいたりであると。この米屋の述懐である。

町の噂・・(2.26民間犯人のうち先日大赦出獄したものの一人が大豪遊した話。)

・・熱海旅館の組合では、内務省辺りより秘密の通達があったのを奇貨として、外国人にはできるかぎり物を高く売って外貨獲得の効果を収めようとしつつある。まぐろの刺身一皿16円、りんご一個1円づつ取る旅館があるという。現代日本人の愛国排外の行動はこの一小事をもって全般を推知するに難くない。八紘一宇などという言葉はどこを押せば出るものだろう。おへそが茶をわかす話である。(八紘一宇は1940年8月に第二次近衛内閣が大東亜新秩序を打ち上げ、公式に使われ出した。大東亜共栄圏のスローガンとなった。)

11月28日、中央公論社と全集刊行の契約をする。(手付金5万円)

・・去る12日、岩波書店との相談が不調となったのは同店がわたしの著述の著作権を5万円で全部買い取りたいと言い出したためである。

11月30日、午後嶋中氏が来て中央公論社創業五十五年記念祝いのしるしとして金子一封を贈られる。・・嶋中氏が去ったあと紙包みを開いて見ると100円札が5枚あった。・・最近数年間の雑誌出版業の利益が少なくないことが知れる。

 

12月1日、(前妻藤蔭静枝の回顧譚)

・・白米禁止一周年。

12月5日、銀座通りの商店食べ物屋をのぞきたいてい九時に灯を消す。明治四十年ころの光景を思わせる。

12月7日、(送られてきたという戯文を掲載。たぶん荷風筆)世上困窮挙国一致の自粛振りに人間ばかりではいかぬとあって今般鳥獣ならびに虫けらいろくず(魚)共一統・・(以下風刺滑稽譚がつづく)

12月8日、谷町に行って今月配給の砂糖マッチを買う。

12月9日、夜蛎殻町の野口を訪ねる。今年九月ころから新聞広告欄で求縁広告を出すことがむずかしくなった。住所をかくし郵便局に留め置きの返書を依頼することもまた郵便局で応じないようになった。いづれも警察署の干渉によるのだろうと野口のはなしである。

12月13日、芝口の菓子屋の店先に人々が列を作っているのを何事かと立ち寄って見ると、金鍔を焼くのを買おうとしている。女だけでなく、いかめしい髭を生やした男もいる。この頃はここだけでなく玉木屋の店、不二家の店、青柳、筑紫堂など食物を売る家の店先はどこも雑踏がひどい。餓鬼道のあさましさを見るようだ。町の角々には年賀状を廃せよ、国債を買え、健全なる娯楽をつくれなど勝手放題出放題のことを書いた立て札を出している。

12月16日、新体詩集偏奇館吟草を編む。

12月20日、(東京市長についての噂話)

12月22日、銀座通りから新橋停車場にかけての雑踏には、われがちに先を争おうとする険悪な風が著しいのに反して、浅草公園から雷門あたりの雑踏にはむかしながらの無邪気な趣、今なお失せないところがある。観世音の御利益ともいうべきか。

世上の噂をきくと、発句をつくるものたちが寄り合って日本俳家協会とやら称する組合をつくり、反社会的また廃頽的傾向のある発句を禁止する規約を作ったとのこと。この人々は発句の根本に反社会的なものがあることを知らないようだ。

12月24日、女が昼ごろ電話をかけてきた。赤十字社の女事務員でときどき私娼になるものである。この女は夜九時ころ訪ねてきていろいろの話の末に女事務員は事務所の外では多くの人に顔を知られないのをよいことにして内々でかせぐものが少なくないという。

12月26日、米屋の男が米を持ってくることを嫌がるようになった。電話で催促すると来年から砂糖同様に切符制になるので店に米が少ないためただ今のところ一二升づつならお分けできますと言った。

12月27日、オペラ館楽屋に遊ぶ。踊り子の一人がわたしの小説すみだ川の一節を取って流行歌にしたものがレコード屋にあるという。・・表面はすみだ川、裏面は森先生の高瀬舟である。何人がしたことであろうか。その悪戯、驚くべきである。(歌詞あり。歌手東海林太郎ポリドール楽団)

12月28日、暮れがた米屋の男が白米5升2円50銭を持ってきた。去年精米禁止以来、注文するたびごと2-3円づつ祝儀をやっていた効能だろう。

12月31日、芝口の金兵衛に行って食事する。主人が仙台から取り寄せた餅だといって数片をもらう。この年の暮れは白米だけでなく玉子煮豆昆布〆その他新春の食物が手に入り難いからであろう。

・・今年は思いがけないことばかり多い年だった。米屋炭屋、菓子など商うものまた金物木綿などの問屋、すべて手堅い商人は商売が立ちゆきがたく先祖代々の家倉を売ったものも少なくないのに、雑誌発行人芝居興行師のような水商売をするもので一人として口腹を肥やさないものはいない。・・この度の変乱で戊辰の革命の真相もはじめて洞察し得たような心地がする。これを要するに世の中はつまらないものである。・・弥次喜多のごとく人生の道を行くべし。

荷風マイナス・ゼロ (63)

仲よし三国

 

昭和15年(1940)

 

9月3日、寺島町の知った家を訪ねて帰る。この里も昨日から昼遊びの客を入れない。市中のカフェーと同じく夕五時から窓を明け泊り客は朝八時かぎり追い返すことになったという。広小路の屋台店もこの夜は数えるばかりに少なくなっていた。

9月5日、明夜からまたまた灯火禁止になると聞いたので夕餉してのち浅草オペラ館楽屋を訪ねる。帰途夜半の空を仰ぐと星斗森然銀河の影がとてもあざやかであった。市中ネオンサインの光なく街頭の灯火も今年に入ってにわかにその数を減らしたためであろう。

9月8日、物買いに銀座に行く。数年前おりおり見かけた車夫あがりの悪漢がまたもや松坂屋の前あたりを徘徊しているのを見る。恐るべきなり。

9月20日、文士中河与一が来て雑誌の原稿を請う。時勢の変遷を何とも感じない人間が世にはなお多いと見える。鈍感むしろ羨むべきである。(後に中河は文士の動向をスパイしていたと疑われている。)

9月23日、兜町辺りの噂によれば銀行預金引き出しもやがては制限されるであろう。世の中は遠からず魯西亜のようになるだろうという。いづれにもせよこの八月以来人心恟々、怨嗟の声が日とともに激しくなっていくようだ。いかなる巡りあわせかわが身も不可思議な時代に生まれ合わせたものである。(第二次近衛内閣のもと、日本型ファシズムといえる新体制運動が呼号された。八月に立憲民政党が解散し大政翼賛会に合流し、名実ともに議会政治が終焉した。)

9月26日、(全集発刊のごたごたがつづき)わたしは生前全集だけでなく著作を刊行することはこのさい断念したほうがいいと思うのである。わたしは現代の日本人から文学者芸術家などと目されることをのぞまない。わたしは現代の社会から忘却されることを願ってやまない。

9月28日、世の噂によれば日本はドイツ・イタリア両国と盟約を結んだという。愛国者は常に言う。日本には世界無類の日本精神なるものがあり外国の真似をするには及ばないと。それなのに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をする。国家の恥辱これより大なるものはない。その原因は種々であろうがわたしは畢竟、儒教の精神が衰滅したことによるものと思うのである。

三国同盟は9月27日成立した。海軍や宮廷内の反対論はあったが、欧州戦線でのドイツ勝利を見越して陸軍が「バスに乗り遅れるな」論で押し切った。英米をけん制して日中戦争を有利に運ぶ目的だった。)

9月30日、明日より六日まで世間はふたたび暗闇になり外出歩行が不便になるであろうから、灯刻銀座で食事してのち浅草に行く。・・九時ころ上野辺りまで歩いていこうと、入谷町の陋巷をすぎ根岸に出ると、とある喫茶店の門口に立ち通行人の袖を引く女給がいる。その様子いかにも淫卑であるので誘われるままに入って見ると、年ごろいづれも二十二三の女三人がぼんやりして片隅に腰かけているのみで客はひとりもいない。飲食物の用意もおぼつかない様子である。その時裏口から入ってきた一人の女給がわたしの顔を見て、あら旦那わたし気まりが悪いわといいながら抱きついてきた。この女は去年の夏ごろまで銀座二丁目裏通りの怪しげなカフェーにいたものなので心安いのを幸いにこの辺の様子を問うと、この店の女給は裏隣りの家の二階に間借りして、大丈夫なお客と見れば裏口から誘い一時間三円、十一時からお泊りは五円の商いをすると語った。表の看板はカフェーでなく喫茶店であるから午後でも客の出入りは自由である。四時五時ころがもっとも都合がいいといった。入谷から坂本辺りは明治のむかしから怪しげな小家が多い所。今日なお旧習を墨守する勇気は大いに感心すべきである。

 

10月1日、炭屋の亭主が勘定を取りに来て言う。市中の炭屋にはまだ炭一俵も来ないのに、さきほど通りがかった炭俵を満載したトラック荷台がいきおいよく宮様御屋敷の裏門に入ったのを見た。何物にかぎらず有るところには有るものでございますといかにも恨めしい口ぶりであった。今年はガス風呂も禁じられるという噂である。

10月2日、銀座四丁目四辻の電柱にラヂオ放送機を取り付けて流行軍歌の放送をしていた。銀座通りはさながらレビュウの舞台となり通行の女子は踊り子の行列を見るに異ならない。桜田門外の堀端には妙齢の女学生が群れをなし砂礫を運搬している。山椒大夫の伝説を目のあたりに見る思いがする。

10月3日、旧約聖書仏蘭西近世語訳本を読む。日本人排外思想のよって来るところを究めようと欲するだけでなく、わたしは耶蘇教仏教が今日にいたるまで果たしていかなる程度まで日本島国人種の思想生活を教化し得たのか知りたいと思う心が起きたからである。わたしは今日にいたるまでほとんど聖書を開いたことはなかった。今にわかにこうなったのは何のためか。

10月4日、終日旧約聖書を読む。唐玄奘西遊記をよむような興味がある。

10月5日、当月七日かぎりで洋服の売値が制限される・・日本服呉服も同じく定価買い付けとなるため目下投げ売りが盛んだとのこと。縮緬一反総匹田紋など三百円くらいのものが八九十円で手に入るという。水天宮四辻久留米絣の店は女洋服地専売になるとのこと。

10月7日、銀座尾張町をのぞき左右の横町にはタクシーの客待ちするものが一両もない。銀座界隈を遊廓同様の歓楽街としタクシー駐車場を廃止したためだという。しかし三原橋を渡り歌舞伎座東劇横には客待ちの車がかえって多くなった。運転手の話では浅草公園の周囲から向島玉の井辺り一帯に駐車場を廃止したので遊び客はバスか電車で行くよりほかなく、玉の井広小路には通りすぎる車は一台もなく屋台店もそのためだいぶ減少したという。(昭和初期からつづいていたタクシー排除、燃料政策の一環だろう。)

10月8日、八月このかた新聞紙の記事は日を追うにしたがっていよいよひどく人を絶望悲憤させる。今朝読売新聞の投書欄にある女学校の教師が虫を恐れる女子生徒を叱り運動場の樹木の毛虫を除去させたとの記事があった。このごろの気候から推察すると毛虫がつくのは山茶花または椿のたぐいで、その毛虫の害はもっとも恐るべきものである。・・都会に成長する女生徒に炎天に砂礫を運搬させまたは樹木の毛虫を取らさせて戦国の美風とするのはそもそもどんなわけだろう。教育家が事理を理解しないのもまたはなはだしいというべきである。

・・晩食の後浅草公園に行く。広小路から松竹座前通りタクシーの駐車場廃止となり一両の車もなく、街頭の眺望がにわかに広くなって並木の落ち葉が風に舞うのを見るばかりである。

10月10日、帝国大学慶応大学学生それぞれ数十名が共産党嫌疑で捕らえられる。新聞にはこの記事はないという。

10月11日、岩波書店十月勘定左のごとし。

腕くらべ 第五刷二回 5000部 金200円也

おかめ笹 第五刷一回 8000部 金320円也

雪解   第三刷一回 6000部 金120円也

〆金640円也

10月13日、銀座通りでかつて蠣殻町に住んでいた叶屋の婆に逢う。去年の暮れから神田辺りに移り玉突き場を営んでいるという。喫茶店に入って雑談する。浜松辺りでは妾の取り締まりのきびしいことは東京の比でない。ある商人の妾でわけもなく数日拘引されたものがいる。その旦那は呼び出されて厳しく説諭された上に妾を解雇しその給金若干円で国庫債券を買わされたという。京都では女子同伴の男をとらえ交番で衆人の面前で罵倒した巡査がいたという。世の中もこうなってはうっかりしては居られません。今までに待合稼業で相応に残しておきましたから、どうやら人様の世話にならずその日だけは送って行かれるつもりですと。叶屋婆の語るところがもし真実であれば日本人の羨望嫉妬は実に恐怖すべきものというべきである。

10月15日、十五夜の月が輝き出たが行くべきところもないので銀座三浦屋で舶来オリーブ塩漬けを買ってかえる。このごろは夕餉のおりにも夕刊新聞を手にする心がなくなった。時局迎合の記事論説読むにたえず。文壇劇界の傾向にいたってはむしろ憐憫にたえないものがあるからである。(即興詩一編を記す)

10月16日、(招魂社の祭で)銀座辺にも全国の僻地から駆り出された田舎漢たちが隊をなして横行するのを見る。

10月17日、築地劇場に関係ある者が数月前から拘留されていまだに放免されないという。

10月18日、(隣家の墺日二世が行儀悪いとして)日本人の教育を受ければ人みな野卑粗暴となることこの実例でも明らかだ。わたしが日本の支那朝鮮に進出するのを好まないのは悪しき影響を亜細亜州の他国人におよぼすことを恐れるからだ。

・・昭和七年暗殺団首魁井上橘出獄(血盟団井上日召、愛郷塾橘孝三郎

10月21日、ある人のはなしに書籍雑誌店も店数を減じ、閉店を命ぜられた家の主人は雑誌配給所の雇人となって給金をもらうことになった。先日、市内書店営業者一同その筋の呼び出しで内閣情報部に出頭したところ係の役人の他に二人の軍人が剣を帯びて出て来た。表には忠節とやらを説き聞かせ、裏には不平反対することを許さない勢いを見せたという。どんな店が配給所として残りどんな店が閉店の悲運にあうのか。世の中はいよいよ奇々怪々となったと言う。

(この日即興詩一編)

10月22日、佃茂のおかみさんが来て佃島名物のつくだ煮も公定価格の制限を受けたため従来のような上等の品はつくれない、この後は市中どこにでもあるようなまずい品ばかりになりますと語った。

10月24日、このごろふとした事から新体詩風のものをつくって見たがやや興味を覚えたので、灯下にヴェルレーヌ詩編中のサジェスを読む。戦乱の世に生をたのしみ悲しみを述べるには詩編の体を取るのがよいと思われたからである。散文であらわにこれを述べると筆禍がたちまち来るはずと知るからである。

・・九段参拝の群衆にまぎれ十六歳の女学生がスリをはたらき捕らえられる。

10月25日、雑誌新聞紙などに寄稿しないようになってわずかに半年ほどとなったが、このごろは訪問記者雑誌編集員の来ることがほとんどその跡をたった。

10月26日、日本橋の花村で食事する。魚類の相場が制限されてからこの老舗の飲食物もきわめて無味となりかつまた女中も次第に去って代わるものなく、料理人の女房家の娘などが女中に代わって給仕をするさまは商売はどうなってもかまわないと言わぬばかり。店に活気というものがない。遠からず閉店するつもりかと思われる。日本橋辺り街頭の光景も今はひっそりとして何の活気もなく半年前の景気は夢のごとくである。六時ごろ群衆の混雑は変わりないが、男女の服装は地味というより爺むさくなった。女は化粧せず身じまいを怠りひどく粗暴になっている。空は暗くなっても灯火が少ないので街頭は暗淡として家路をいそぐ男女、また電車に争い乗ろうとする群衆の雑踏、何となく避難民の群れを見るような思いがする。法令の嵐にもまれなびく民草とはこれであろう。

10月28日、市中商店の電気時計に再び不良と書いた貼り紙を見ることが多い。しかし今は怪しむものもなく、日常生活の万事万端不良不便であるが当然のこととあきらめているようだ。

10月29日、ギリシア・イタリア交戦。

10月30日、専制政治の風波はついに文筆家の生活をおびやかすにいたったと見え、本月に入ってから活版摺りの書状で入会を勧誘してくるものが急に多くなった。・・勧誘の手紙のひどく滑稽拙劣な一例として・・本会は特に文学の局部的機能を強調宣伝せんとするものではない。文学そのものの大使命を提げ文学報国の真意義を世に徹底せしめる・・

わたしは笑って言うがもしこの文言のようになろうとするならまず原稿をかく事をやめ手習いでもするより外に道はない。

荷風マイナス・ゼロ (62)

ドイツ軍進路gif

昭和15年(1940)

 

5月1日、院長がわたしの自炊生活に過労のおそれがあるといってしきりに入院静養の必要を説く。浅草に行こうと思ったが院長の忠言を思い起こし銀座を過ぎてかえる。わたしが下女を雇わず単独自炊の生活を営み始めたのは一昨々年昭和十二年立春の日からだから満三年を過ごしたのである。

5月2日、銀座を歩く。疲労はなはだしく全身に水腫がある。昭和三年ころの病状に似ている。

5月3日、ノルウェー出征の英仏軍に利なく北走する。

5月5日、銀座辺りの噂に、本月一日例の興亜何とやらと称する禁欲日で、市中の飲食店休業する。芸者も休みである。女たちはこの日をかき入れとして市街の連れ込み茶屋また温泉宿へ行くものおびただしく、ことに五月の一日は時候もよく遊山の女連れが目に立ったので、警察署は女給芸者などを内々に取り調べ、当日遊山に行ったものは営業禁止の罰を加えようとしているという。巡査らの目には人の遊ぶのがよくよく羨ましいと見える。人の遊ぶのはその人の勝手ではないか彼らは袖の下さえあてにすればいいのではないか。

5月10日、ドイツ軍オランダ・ベルギー国境を侵す。

5月12日、岩波書店勘定左のごとし。

金150円也 墨東奇譚六刷一回 500部

金  80円也 おかめ笹第四刷二回 2000部

〆金230円也

5月14日、蒲田辺り水道涸渇浴場休業するという。

5月16日、わたしは日本の新聞の欧州戦争に関する報道は英仏側電報記事を読むだけで、ドイツよりの報道また日本人の所論はいっさいこれを目にしないのである。今日のようなわが身にとっては列国の興亡と世界の趨勢とはたとえそれを知ったとしても何の益するところもなくまたなすべきこともない。わたしはただ胸の奥深く日夜フランス軍の勝利を祈願してやまないだけである。ジャンヌ・ダルクは意外なとき忽然として出現するだろう。

5月18日、号外売りが欧州戦争でドイツ軍大勝を報じる。仏都パリ陥落の日は近いという。わたしはみずから慰めんとしても慰めることができない。晩餐もこのためにまったく味がしない。灯刻悄然として家にかえる。

5月19日、金龍館文芸部吉澤某・・は二十余歳の青年、フランス軍の大敗を痛嘆し欧州文化の衰滅を憂う。日本現代の青年にして今日なおこのような説をなすものがあるのは寧ろ奇であるといえるだろう。

5月21日、このごろ砂糖品切れ。角砂糖は贅沢品だといって製造禁止になったという。

5月22日、日高君が戸を叩き中央公論社の編集員がわたしの全集出版契約金手付と称して金5万円小切手を持参してきたと告げる。日高氏は右小切手をそのまま返却のため中央公論社に赴いた。(このころ中公と岩波で全集出版の綱引きをしていた。)

5月23日、日本橋通りの乾物問屋で葛粉を買おうとしたら、本年は食料不足となるおそれがあるといって、先月から葛粉素麺その他の品を買いに来るものが多くすでに品切れとなったものもあるという。

5月24日、ある人の話に、マッチを手に入れるところが煙草屋のほかにないので、一時やめていた喫煙をふたたびし始め、市中どことはいわず煙草を買うごとにマッチひと箱二銭づつで買い歩いていたところ、日本橋箱崎町のとある店で思いがけず昔なじみの女に出会った。何やら小説の書き出しのような心地がしたという。

5月29日、先月から水道の水不足で銀座築地辺り二階に水が上らず水洗便所が使用できない。不便はなはだしいという。

ベルギー国王ドイツの軍門に降る。

5月31日、独軍の勝利につれ日本新政府の横暴がいよいよひどくなることを考慮して岩波から出版する予定のわが全集には冷笑、監獄署の裏のような作品は削除して収載しないこととした。明日一日には市中の芸者遠出することを禁じられる。

 

6月7日、裏隣りのかみさんが来て夜八時から明朝四時ころまで水道が断水するはずだと告げる。この後当分そのようだという。銀座に行って見ると四丁目角の竹葉亭早仕舞、長寿庵休み、銀座食堂は定刻九時まで店を開く。汁粉屋は多く早仕舞である。喫茶洋食店は平日どおりのようである、十時ころ家にかえると台所の水栓蛇口から水が滴っているのを見る。試みに蛇口を開いてみると水勢は平日よりもよい。

6月8日、オペラ館楽屋に憩う。この地は終日水の制限なく楽屋にも風呂がある。飲食店平日のままのようだ。

6月9日、日本橋花村に行くとこの辺一帯水切れで人々はバケツを提げ最寄りの井戸に水を汲みに行っていた。浅草から玉の井に行ってみると水は十分である。

6月10日、水道の水は朝六時ころ一時間、夕方六時ころ同じく一時間のみだという。・・銀座通りで食料品を買う。街頭の群衆を見るとその風采面貌および音声はことごとく明治時代のものとは異なっている。わたしのようなものは異郷における異郷人であるといえよう。

6月11日、岩波書店六月勘定左のごとし。

墨東奇譚 第六刷二回 1500部 金450円也

雪解   第二刷七回 2000部 金40円也

〆金490円也(岩波を執拗に記録するのは全集刊行に絡んでか。)

イタリア参戦。

6月14日、パリ陥落の号外が出た。巴里落城。

6月15日、日本橋花村に夕飯を喫す。日曜日で赤子老婆などを連れた家族七八人、麦酒サイダーなどを命じて晩飯を喰らうものが幾組もある。みな軍需品商人であろう。東京の言葉を使うものはほとんどない。

6月19日、都下新聞の記事は戦敗のフランスに同情するものなく、多くは嘲罵してはばかるところがない。その文辞の野卑低劣読むにたえず。

6月25日、水道栓の水が昼夜とも流れるようになった。この次はいつごろ断水となるだろう。

 

7月2日、近来種々の右翼団体または新政府の官僚らから活版刷りの勧誘状を送ってくることが頻繁である。このままにしておく時はわたしも遂には浪花節語りと同席して演説せねばならぬ悲運に陥るおそれがある。わたしはこれを避けるため不名誉な境遇に身を落とそうと思いたち先月なかばころからおりおり玉の井の里に赴き、一昨々年ごろから心安くなった家がニ三軒あるのを幸いに、事情を聞き淫売屋を買い取りここに身を隠すことを欲したのである。一昨日三十日の夕方ふと訪ねた家があったので今日もまた夕飯のあと行ってみた。この家の二階は三室ともベッドの枕元に大きな鏡をかけている。一室の押し入れから隣室をのぞく仕掛けもある。主人夫婦はよい買い手があれば譲り渡し現金にして故郷に帰って隠居したいという。せがれが一人いる。帝国大学を去年卒業し官吏となって台湾に行ったという。

7月3日、昨夜訪ねた玉の井の女から電話あり。暮れ方ふたたび行って様子を聞くと、権利金七八千円より少ないものはない。別に方法がある。それは毎日七八円づつ家主(銘酒屋主人)に割りを出し女は自前で稼ぐ。毎晩二十円は間違いなくかせげる見込みだから、手取り十二三円になるわけである。着物食料その他は自弁であるという。よく考えてニ三日中に返事をするといって帰った。

昨夕の新聞紙にまたまた小娘らが打ち連れて日本劇場の映画を見にいくさま、または白昼カフェーの戸口から酔漢がよろめき出るさまを見て、これを慨嘆し法律をつくって罰すべしというような議論を掲げるものがいる。活動写真は見なくてもよいもの酒は飲まなくても生命にさしつかえないものであることは言うを待たない。しかしここにいささか考えるべきことがある。それは現代人の感情の中に都会生活の一面を見てその奢侈贅沢を憎むことがようやくはなはだしくなってきた傾向である。その原因は一言で言いつくすことはできないが、これは要するに現代日本人の胸底に蟠居する伝統的羨望嫉妬の情に帰着するものと見てよいであろう。老人が青年の恋愛を見てけしからん事と慨嘆するのは、おのれがやりたくても男根立たざるための妬みから起こり来るのである。現代日本の社会には階級と職業との間だけでなく、万事些細な事の端にいたるまで相互に嫉妬羨怨の私念があって、ここから超越することが出来ないもののようである。密告摘発のさかんなことは怪しむにたりない。新聞紙上読者投書欄なるものを一見すれば思い半ばに過ぎるものがあるだろう。

7月4日、当月一日より戸口調査があった。町会から配布してきた紙片に男女とも身分その他の事を明記して返送するのである。これを怠るものには食料品配給の切符を下付しないという。日陰の世渡りをするものには不便この上ない世となったのである。この事につき久しくその所在を知らなかった昔なじみの女一人ならず二人までも電話をかけてきて、ただ今さるところのアパートに住み相変わらずの世渡りをしているけれど、戸口調査で困っています。表面だけ先生のお妾ということにして届け出たく思いますがお差しつかえないでしょうかという。これに答えて、お妾を二人も三人も抱えていることが役人に知れると税務署から税を取りに来るからそれは都合がよろしくない。それよりは目下就職口をさがしているように言いこしらえておいたほうがよいと体よくことわった。

7月5日、水天宮賽日のにぎわいが時局にかかわりないのは喜ばしい。

7月6日、奢侈品製造および販売禁止の令が出た。ただし外国に輸出しあるいは外国人に売って外国の金を獲得することは差し支えないという。それなら西洋人を旦那にして金を取るのは愛国的行為であろうし明治時代にあった横浜の神風楼はよろしく再築すべきであろう。それはともあれ江戸伝来の蒔絵彫金のごとき工芸品の制作または指物のようなものはこの度のお触れでいよいよ断絶するにいたるだろう。このような工芸品の制作は師弟相伝の秘訣と熟練を必要とするものだから一たび絶えたときは再び起こらないものである。

7月12日、岩波書店勘定左のごとし。

珊瑚集  第二刷四回 2000部 金40円也

雪解   第二刷八回 2000部 金40円也

〆80円也

7月17日、夕方自炊の際トマトを切りオリーブ油を調味する。壜の貼り紙にその産地 Grasse,Alpes Maaritimes,France の名を見る。この地も今はフランスの領土ではないことを思い胸ふさがれる心地がした。

7月18日、(岩波からの伝言で)時勢がますます文学に非なのでわが全集九月ころより刊行の手はずだったがしばらく見合わせたいと、わが方へ伝えてほしいとの事だったという。

7月27日、銀座通りの人通りがいよいよさびしくなった。

 

8月1日、銀座食堂で食事する。南京米にじゃがいもをまぜた飯を出す。この日街頭にぜいたくは敵だと書いた立て札を出し、愛国婦人連が辻々に立って通行人に触書をわたすと噂があったので、そのありさまを見ようと用事を兼ねて家を出たのである。四丁目四辻また三越店内では何事もなかった。・・今日の東京にはたして奢侈贅沢と称するに足るものがあるだろうか。

8月2日、街頭で偶然踊り子ミミイという少女に逢う。昨朝大坂から帰ってきて新橋演舞場に出勤するという。・・ナナ子とかいう踊り子は街頭愛国婦人連から印刷物をもらったからといって恐れる様子もなかった。広告の引き札でももらったような様子だった。下愚と上智とは移らず(生来愚かな人と生来賢い人は環境に左右されない)と言った古人の言葉も思い出されて面白い。あたかもこの日の夕刊紙にジャズ音楽がやがて禁止されるだろうとの出た際であるし、ミミイの悠然たる態度がことに面白く思った。

8月5日、西銀座二三丁目辺りから数寄屋橋河岸にかけて刃物をもった追剥ぎが宵の口から出没するという。

・・采女橋の欄干に寄りかかって閑話をする。橋上には芸者を乗せた人力車の往来が引きも切らない。花柳界の景気が今なおさかんなことを知らせる。芸者の風俗はすでに一変して昭和二三年ころの女給タイガーライオンなど彷彿とさせる。島田に結うものは一人もないようだ。・・この夜は銀座通りの男女の往来が再びにぎやかになった。女給は木綿浴衣を着て帰るものが多い。

8月7日、馬場先門のあたり女学生の一群が炎天の下に砂利を運ぶのを見る。秦の始皇帝阿房宮を築造したむかしも思い出されて恐ろしいかぎりである。

8月11日、日本橋三越内で洋書を見る。イタリアドイツの新刊書はあるが、フランスの書物は売れ残りのものもようやく少なく、ジードの全集450円と記したのが目に立つのみ。

・・本月二日より市内の飲食店は昼食十一時より二時ころまで、夕飯は五時より八時ころまでの規則となった。芸者の出入りする料理屋では時間の定めなく米飯を禁じられたという。

8月20日、郵便局に所得税を納める。一回分260円ばかりで予想したよりもはるかに少額だった。この分なら家屋蔵書を売るにも及ばず、老後の残生は今のようにどうやら送ることが出来そうに思われる。

・・夜玉の井を歩む。例年なら今宵のような暑さのおりにはひやかしが雑踏することはなはだしいのが常なのに、今年七月ころからその筋の取り締まりが厳しくことに昨今は連夜のように臨検があるため、路地の中は寂寞として人影がない。しかし遊び客は10円20円くらい使うものが多く、商売は以前の数こなしよりも楽で収入も多いという。女の話である。

8月22日、毎年夏になって市中の溝川または大川筋各所の貸しボートが繫盛する季節となると、ボート遊びの女を脅迫する不良の団体がいくつもでき毎夜二三十円の稼ぎをするのが例となっている。金を奪ったうえに女を自由にすることも少なくない。

8月23日、オペラ館楽屋の壁にその筋の御注意により台詞は台本の通りに言う事と太台詞捨て台詞は厳禁の事という貼り札があるのを見る。役人たちには捨て台詞ということの意味が分からないらしいという者もいた。

8月24日、来月初めより市中料理店膳部の値段が決まるという。このため市中にはむかしの八百善伊予紋などで出した二の膳付きの懐石料理はその跡を断つことになる。

8月25日、カフェーはいづこも繁昌の様子でなかなか政府の言うようにはならないようだ。この日は日曜日。

8月26日、築地劇場俳優組合解散を命ぜられる。

8月27日、オペラ館踊り子のはなしを聞くと勤労婦人連が朝のうちから公園内諸所に天幕を張って集会し通行の女の洋髪洋装をするものを呼び止めて心得書を交付したという。

8月29日、夕刊新聞紙に馬場先外帝国劇場九月かぎり閉場。その後は何やら官庁になるという記事があった。

8月30日、市中の風聞をきくと、明後九月一日より夕方五時前まで酒屋で酒を売らず、飲食店でも昼間酒を出さず、待合茶屋娼楼銘酒屋玉の井亀戸は同じく夕方五時に至らなければ客を迎えない。昼遊びの客をことわるという。それなら酒をのんで女を買おうとするものは五時の鐘をきいて先を争い狭斜の巷に馳せ行かねばならないことになるだろう。その時刻の光景はすこぶる奇であろう。

8月31日、夕刊読売新聞の紙上に陸軍中将某氏未亡人の家の土蔵を破り金銀小判および禁制品を盗み出した盗賊が捕らえられたことが見える。貴金属品はすでに政府へ売却したはずなのに今頃にいたって軍人の家に尚古金銀の隠匿されているのは怪しむべきである。正直者は損をする世の中と知るべし。

荷風マイナス・ゼロ (61)

 

昭和15年(1940)

 

1月6日、去年十一月の末から今日までほとんど雨がない。新聞の記事を見ると水道水切れのおそれがあるという。木炭米穀の不足についで飲料水の欠乏をみる。天罰恐るべしである。・・牛肉ヒレ本年から一人前につき15銭値上がりしたという。

・・求援広告のはなし 新聞に求援広告を出して春をひさぐ女が去年あたりから急に多くなったという。求人の実見談をきくと、広告の文中にご援助賜りたしという語を交えてあるのは売春でなければ妾の口を求めるもので、この語はいつのころから誰がつくり出したものか知らないが、一種の合言葉となり、男の方から女をさがす時には援助できる婦人を求むと書き返書の届け先はどこそこの郵便局留め置きとして広告すれば、明朝を待たずその日の夕刻までには少なくとも五六通の返書に接することができるという。女は二十五六から三十七八歳までで、初めの会見の場所は新宿と上野が多く、新橋銀座辺は割合に少ない。

1月7日、銀座四丁目三越で葡萄酒を買おうとすると舶来品は10円以上となったので、和製一壜を買う。石鹸歯磨きなどいよいよ和製のみとなった。わが家には英国製シャボンまだ10個くらいはあるだろう。酒類もキュラッソオ、ブランデイ、オリイブ油など各一壜ウーロン茶は三四斤くらいの貯えがある。

1月8日、昨日買った和製葡萄酒を試みると希薄なこと水のようで滋味はさらにない。壜の形とレッテルの色だけ舶来品に似ているのも可笑しい。午後買い物に銀座に行く。煙草屋にもマッチのない店が次第に多くなった。飲食店で食事の際煙草の火を命じる時、給仕人はマッチをすって煙草に火をつけ、マッチの箱は自分のポケットに入れて立ち去るのである。

1月12日、岩波書店去年十二月勘定左のごとし。

雪解   第二刷四回 2000部 金40円也

墨東奇譚 第五刷四回   200部 金60円也

おもかげ 第三刷二回   500部 金165円也

〆金265円也

1月13日、旅順要塞司令部より旅順占領三十年祭につき詩歌を揮毫し郵送せよとの書状来る。軍人間にわたしの名を知られたとは恐るべく厭うべきこと限りない。いよいよ筆を焚くべき時は来た。(とはいえ欄外に和歌二首を記す。)

・・ムーラン・ルージュを立ち見する。辰年にちなんだ舞踊の一節に芥川龍之介の幽霊を出した。侮辱の心なのか滑稽の気持ちか。現代人の趣味はまったく理解できない。

1月14日、夜内閣更迭の号外が出る。(大戦不介入方針は陸軍の反対にあい瓦解した。)

1月17日、女中のはなしでは町の風呂屋は今まで午後二時から開場だったが、午後四時となったため入浴の時間がなく、また女湯が込み合って入ることが出来ないほどだという。

学生の飲酒を禁ず。

1月22日、郵便局で所得税その他を納める。金300円余なり。

1月23日、銀座四丁目四辻から京橋辺りに戦地から帰国した兵隊が酒気をおびて徘徊する。軍服の胸に姓名をしたためた布を縫い付けていた。乱暴しないように用心か。懲役人のようだ。

1月25日、銀座三浦屋でまた牛酪を得た。舶来葡萄酒34円くらいのものがまだ少しあるという。喜びにたえない。

1月28日、銀座を歩くと学生禁酒の令が出たのにかかわらず今なおビヤホールの卓に座るものを見る。怪しむべきである。

1月31日、炭屋が来て闇取引の捜査がいよいよきびしくなり、山元で炭を焼かないようになったので東京市内にはいよいよ炭が少なくなるだろうという。

・・玉の井の里に行く。窓の女たちも染色毒々しいスフの新衣装を着るものが多い。赤黒青のような原色ばかりの大形模様もこの里の女にはかえってよく似合って見える。

 

2月10日、電力不足のためオペラ館楽屋は薄暗くなった。その他どこの劇場も灯数を減らし、夜十時過ぎには六区の往来は暗淡として人影がない。

2月11日、岩波書店二月分勘定左のごとし。

腕くらべ 第四刷三回 2000部 金80円也

(売れ行き快調だが、締め付けで古典の出版しかできないのだろう。)

2月13日、日本橋三越で新着の洋書を見る。構内減灯のため薄暗くなって呉服物の色合いなどほとんど見分けられない。去年の冬ころには雨がふらぬため電力欠乏するように人々は噂したが、雪ふり雨もふって電力はいよいよ欠乏し、人家の軒の灯も今はつけないところが多くなった。町の噂に市内電力の不足は軍器工場で電力濫用の結果なのでやがて電車も運転しないようになるだろうという。

2月18日、服部の時計がわずかに十時を過ぎたばかりなのに暗淡とした銀座通りには夜店もなく歩行の人影も途絶えていた。

2月20日、院長がしきりに菜食の必要があるという。わたしがひそかに思うところがある。わたしの年はすでに六十を越えた。希望ある世の中なら摂生節欲して残生をたのしむもまたわるくはないだろう。しかし今日のような兵乱の世にあって長寿を保つほど悲惨なことはない。平生好むものを食して天命を終わっても何を悔いるところがあるだろう。

新聞紙この夕、フィンランド軍戦況不利の報を掲げる。悲しむべきなり。

・・市内荒物屋でマッチを売るところが去年十月ころよりなくなり今日に至っている。煙草屋でもマッチを売るところは少ない。

2月26日、夜浅草オペラ館に遊ぶ。小川丈夫がわが旧作の小説すみだ川を脚色し三月上演するつもりだといって台本の校閲を請うた。わたしはひどく当惑したが如何ともできない。

 

3月3日、午後買い物に銀座を歩く。・・若き男女の身だしなみの悪くなったこと著しく目立つようになった。東京従来の美風、小ぎれい、小ざっぱりした都会の風俗は、紀元二千六百年に至りまったくほろび失せた。

3月7日、浅草オペラ館に行く。小川脚色すみだ川初日、思ったほど悪くなかった。

3月10日、岩波書店三月勘定左のごとし。

おかめ笹 第四刷一回 2000部 金80円也

珊瑚集  第二刷二回 1000部 金20円也

雪解   第二刷五回 2000部 金40円也

3月12日、オペラ館楽屋に行きすみだ川を見る。芸者お糸に扮する女優筑波雪子というのは、江戸風のどこやら仇っぽい顔立ちだが、実は朝鮮人だと楽屋雀の影口をきき、一種名状しがたい奇異の思いがした。この夕、雪子が舞台の板はめに寄りかかり芸者の姿で何やら駄菓子を食い指をなめながら出端を待つ姿を見ると、おのづからすみだ川を作ったころのこと、かの富松といった芸者と深間になり互いに命という字を腕に彫ったころのことなど夢のように思い返されるおりから、この美しき幻想の主が外国人であることを知って奇異の感を禁じ難いものがあった。

3月14日、地下鉄で偶然、女優筑波とその情人某に逢う。

3月20日、種痘をした。このごろ浅草日本堤下碁会所から天然痘の患者が出ておいおい蔓延する形勢があるからである。支那から来たもので病毒強烈という。

3月27日、昨年来六区興行町をあらし歩いた象潟署の巡査数名が免職されたと、その噂とりどりである。

3月29日、ある人の話に医学を学ぶものは従来はドイツ語を修めたが、軍閥の世となってから医師がドイツ語を使用することを禁じ薬品病症などすべて日本訳語を使用させることにしたという。尺度重量などはことごとくメートルおよびグラムを用い、従来の寸尺貫目を廃しさせ医師の専門用語を強いて和訳させる。矛盾これよりはなはだしいことはない。

3月30日、立春後晴天つづきのため水道またもや水切れのおそれありという。台所の水道栓の水の出は非常に少ない。

 

4月3日、銀座から浅草に行って見ると傘を持たない男女が濡れネズミになり満員の電車に乗ろうとしている。興亜市民の勇気は驚くべきでまたその不用意は賞すべきである。

4月10日、ドイツ軍はデンマークノルウェー両国を占領す。

4月12日、芝公園女中殺しの噂がとりどりである。拘留された嫌疑者は政府役人だというので新聞紙はこぞってその名を掲げない。官尊民卑の風はついに改められることが出来ないと見える。笑うべし。

4月13日、岩波書店四月分勘定左のごとし。

珊瑚集  第二刷三回 1000部 金20円也

雪解   第二刷六回 2000部 金40円也

腕くらべ 第四刷四回 1500部 金60円也

〆金120円也

4月14日、米屋の男が昨日注文した米一袋のほかに小袋を持ってきて、外国米2割をまぜて売る規則だが内々で別々にしておいたので、巡査らが来たときはそのお心でご返事してくださいという。外国米はシャムの産だという。色は白いが粒が小さく細長いので鼠の糞のようだ。わたしは日本に生まれて六十余年、外国米を手に取って凝視したのは今日が初めてとなった。

4月24日、銀座辺りの紙屋では改良半紙だけでなく土佐石州あたりの半紙もみな品切れとなった。50銭札および国債用紙原料にされるためという。

4月28日、銀行利子のうち二割五分を税金として取り上げられる。