荷風マイナス・ゼロ (60)

1939年11月、仏蘭西塹壕でくつろぐ英仏兵士。宣戦布告したものの戦闘しなかったので、この時期 Drôle de guerre 奇妙な戦争と呼ばれた。

 

昭和14年(1939)

 

10月4日、「庭の高樹に始めて百舌の声をきく。例年なれば晩秋の旦百舌の声をきくは勇ましく快きものなれど、乱世にこれを聞けば、平和なりし波蘭土の田園に突如として轟きわたるナチス軍隊の喇叭のごとく思われて覚えず耳をおおいたき心地するなり。」

10月8日、「日曜日なれば隣家のラヂオ午後に至りて浪花節を語る。苦痛にたえず。」

10月11日、「頃日市中に豚肉鶏卵品切れとなる。浅草松喜の店先に豚肉当分品切れの札を出したり。」

10月12日、「岩波書店拙著売れ行き大略左のごとし 

おもかげ 第三刷一回 500部 165円也

文庫 腕くらべ 第四刷一回 2000部 80円也

同  おかめ笹 第三刷三回 1500部 60円也

同  珊瑚集  第一刷四回 1000部 20円也

同  雪解   第二刷二回 1500部 30円也 」

(戦中も荷風は人気作家だった。)

10月16日、「かきがら町叶家に立ち寄りしに、数日前夜十時頃近隣一帯に点検あり。私娼の出入りする待合七軒ほど客も女もともども現行犯にて引かれ行きたり。叶屋は幸いに無事なりしと。内儀の話している中、表の格子戸を明け制服の巡査入り来たり何やら内儀に耳打ちして去りぬ。後にて聞けばこの巡査は茶屋の組合より平生心付けを貰いし間諜なりと云う。」

10月17日、「三越洋書部に新着の仏蘭西書類ありと聞き赴き見る。数冊を購う。丸善には新刊の書籍ほとんど跡を断ちたるに三越に限り時々新書の輸入せらるるを見る。いかなる方法を取れるにや怪しむべし。」

10月18日、「本年は石炭欠乏のためガスの使用制限せらるべしとの風説あり。夕刊の新聞紙英仏連合軍戦い利あらざる由を報ず。憂愁禁ずべからず。

・・(踊り子たちと仲見世を歩く)世は移りわれは老い風俗は一変したれど、東京の町娘の浮きたる心のみむかしに変わらず。これまた我をして一味の哀愁を催さしむ。」

10月19日、「午後新宿を過ぐ。伊勢丹百貨店の聳ゆる四つ辻のあたり、行人織るがごとく、電車自動車立ちつづきて垣をなす。繁華殷昌の状況驚くべしと言わば言うを得べけれども、暫く立ち止まりてこれを視察すれば、何のためにぞろぞろ隊をなして歩みいるにや、推察しがたき人物のみなり。・・これらの人々は百貨店の内を徘徊し腰掛に休みて男は煙草をくゆらし、女は背負いたる赤子をおろして乳を飲ましむるもあり。そのあたりの茶店食堂をうかがい見るにみなアイスクリームを食い菓子を喫す。女は入り来たりて椅子に座するや思い出したるがごとく突然立って便所に行き、手を拭きながら席に返る。小児も大人と同じく珈琲を喫し菓子を食う。・・余常に思えり。アイスクリーム(それも人造クリーム)を食うは現代日本人の特徴なり。」(こういうイヤミなところが啄木に嫌われた。伊勢丹はいまもかわらない。)

10月21日、「帰途煙草屋にて刻み煙草白梅を購う。数月前より巻煙草おりおり品切れとなるのみならず、舶来煙草もまた売り切れになることしばしばなれば、震災前のごとく再び日本の刻み煙草を喫せむと思うに至りしなり。そのころ白梅の小袋10銭なりしが今は17銭となれり。現在三十代の若き男女にて刻み煙草の喫し方を知れるものはほとんど無し。」

10月23日、「戦地より帰隊せし兵卒が新聞記者の質問に答えて、帰還後目撃せし東京の市街および男女風俗等についていかに感じたるかを語りし記事を出したり。・・軍人の社会観察は進んで政治におよぶ。しかして一人のこれを怪しむものなし軍人参政の弊害もまた極まれりというべし。」

10月24日、「ガス会社の男来たりガスの使用量前年より二割がた節減すべしとて、一覧表のごときものを示して去れり。また今日より二十九日夜まで禁燈の令あり。・・ネオンサインの毒々しき燈火なければ街上物静かにて漫歩に適す。」

10月25日、「電車の運転一時間あまり中止と云うに、歩みて虎ノ門を過ぐ。空はくもりたれど薄明きこと黎明のごとく、街上車なく人影なく粛然として夢のごとし。食料品を小脇に抱え傘を杖にして巡査また在郷軍人らに見とがめられはせぬかとおそるおそる並木の陰を歩むさま、我ながら哀れなり。我が身はさながら征服せられたる他国人の世を忍びて生きつつあるがごとし。」

10月29日、「防空演習も今夜にて終わると云う。この数日間はラヂオの唄も騒がしからず車の響きも聞こえず。おりおり警笛砲声の聞こゆるのみにて、寂然として静まり返りたる市街のありさま何とはなく三四十年むかしの世の中のさま思い出されてなつかしき心地したりき。」

 

11月10日、「夕刊新聞に銀座裏通りジャーマン喫茶店妻もと女給仏国マルセイユにて間諜の嫌疑にて捕らえられし記事あり。独軍和蘭陀国境を侵す。」

11月13日、「岩波書店十一月勘定左のごとし

墨東奇譚 第五刷の三回 500部 150円

おかめ笹 第三刷 四回 2000部 80円

雪解   第二刷 三回 2000部 40円

〆金270円也」

11月14日、「炭屋の主人来たり炭品切れになるおそれあり。永年のお得意先ゆえ品切れにならぬうち土釜一俵だけ持って参りましたと言う。戦争の禍害いよいよ身近に迫り来たれり。」

11月15日、「蠣殻町の待合里美のかみさん訪い来たりて、近き中待合を止め何か外の商売をするつもりなりと言う。その訳をきくに、芳町組合に加入せる待合茶屋の中おもに素人女を周旋する家およそ十四五軒ありしが、九月ころより見番事務所にてこれら素人向けの待合をあくまで排斥することに相談をきめ見張りの番人を置くようになりしため十四五軒ともいづれも商売出来ぬようになりしと云う。里美のかみさん年三十五六ははじめ松戸高等女学校の体操の教師なりし由。八九年前私娼となり歌舞伎座裏のアパートに住み、築地赤坂下谷その他いたるところの待合または旅館に出入りし、だいぶ貯金をなし三四年前現在のところに待合を出せしなり。同人のはなしに烏森日本橋下谷池ノ端あたりの待合も私娼の出入りむづかしくなりたりと云う。余のつくりたる小説日かげの花はこれら私娼の生活の一面を描写せしものなれば、当時の風俗をしのぶ形見とはなれり。」

11月18日、「(病院で)院長のはなしによれば薬品もおいおい欠乏するもの多くなりたり。アスピリン重曹のごときものすでになしと云う。」

11月19日、「歌劇カルメン、トスカ、アイダのごときもの上演禁止になりしと云う。」

11月30日、「昼頃炭屋の男来たりいよいよ品切れとなりたれば炭団練炭を炭にまぜてお使いなされたしとて炭俵とともにそれらの物を運び来たれり。炭は土釜炭にて一俵の公定値段20円40銭なりと云う。さらば一俵につき運搬賃として別に1円を加えて支払うべし。それゆえ年内にニ三俵さがして持ち来たるべし。いづれも現金にて買うべしと云うに、炭屋よろこびその値段ならば二三日中に差し上げますとて帰りぬ。」

 

12月1日、「世の噂をきくに日本の全国にわたり本日より白米禁止となる由。わが家の米櫃は幸いにして白米の残りあり。今年中は白米を食うことを得べし。露軍芬蘭土に入る。」

12月2日、「銀座食堂にて晩飯を命ずるに半搗米の飯を出したり。あたりの客の様子を見るに、みな黙々としてこれを食い毫も不平不満の色をなさず。国民の柔順にして無気力なることむしろ驚くべし畢竟二月二十六日の軍人暴動の効果なるべし。」

12月7日、「人の噂には犬は米を喰うものなるがゆえに軍用犬をのぞき全国の飼い犬を殺せば幾十万石の米を節約し得べしとて、すでに八王子辺にては警察署が先に立ちて犬殺しを始めたりとの事なり。」(1940年には愛知県で節米運動の一環で犬肉販売許可。リンク先の帝国の犬達はおどろくべきブログだ。)

12月12日、「岩波書店十二月勘定左のごとし

腕くらべ 第四刷二回 2000部 80円也

珊瑚集  第二刷一回 1000部 20円也

計金100円也」

12月22日、「叶屋の紹介にてかきがら町日本橋区役所側のアパート秀明閣に至り野口という女を訪う。大正十三四年のころ麻布我善坊ケ谷の横町に生け花教授の札を下げ私娼の取り持ちを業とせしもの。ひさしぶりの奇遇にてたがいに一驚せり。滑稽というべし。

・・神田連雀町の飲食店伊勢源という家の二階に金箔の衝立ありて、木村荘八氏が団十郎暫の図に、暫の顔にも似たり飾り海老荷風という賛をなし南京陥落の日と書き添えてありと云う。世はさまざまにて余が偽筆をつくるものもありと見ゆ。」

12月24日、「浅草に往く。森永にて偶然花園歌女もと浅草芸人に逢う。谷中氏オペラ館の堺(駿二)来たる。常盤座踊り子数名また来る。谷中氏のはなしに九州熊本小倉あたりにては去月米屋打ちこわしの暴動起こりし由。ただし新聞にはそのこと記載せられざりしと云う。」

荷風マイナス・ゼロ (58)

南北にハルハ川、下の横線がホルステン川。何もない土地だ。ハルハ東岸の日本軍第23師団は、ホルステン南岸から縦に30kmにわたって高地に拠った陣地を築いて展開していた。

 

昭和14年(1939)

 

8月3日、「午後谷中氏浅草より電話にて、この頃警察署にて余および谷中氏の身辺に注意することしきりなる由。オペラ館楽屋衣装方の女池の縁の交番より親しく聞き来たりし由を報ず。こは兼ねてより予想せしことなれば、今宵は浅草に行かず・・直に電車にて家にかえりぬ。日本という国にては一個人単独にて事をなせば必ず障礙を生ず。集団の力を借る時は法を犯すもまた容易なり。たまたま余のごとき一文人が楽屋の生活を観察せんとするもまた能く志を遂る能わざるなり。滑稽なる国と謂うべし。」

8月10日、「久しく西銀座の裏通りを歩まざれば試みに杖をひく。二丁目より三丁目辺に軒を並べたるカフェーは数年前と変わりなく猥陋はなはだしき様子なり。麦酒コップ一杯70銭。テーブル代と称して祝儀2円。これが最低の値段なり。これに1円女給の祝儀を加うれば女給は客の膝の上にまたがりてそのなすがままの戯れをなす。女給はみな地方の出のものにて年頃十七八のものもあり。」

8月13日、「国木田独歩の小説販売禁止。またハムレット上演禁止となりしと云う。」

8月16日、「今月に入りてより市中の蕎麦屋も夜十二時きっかりに戸を閉ざすなり。店内には午前零時終業とかきし貼り札をなせり。夜半十二時といわず午前零時という現代語を用ゆるところ、いや味たっぷりというべし。」

8月19日、「上野線路下の酒肆街を歩む。銀座西三丁目裏の酒肆よりも醜陋さらにはなはだし。」

8月20日、「上野ガード下のカフェー二三軒の景況を視察し雨中車にてかえる。」

(ソヴィエト・モンゴル軍による日本軍陣地総攻撃開始。兵員物量に圧倒的な差があった。ソ軍が勝利を急いだため、双方に多大な損害が出た。)

8月22日、「日英会談不調となりてより株相場暴落せりと云う。」

(4月の暗殺事件処理をめぐって、6月に陸軍は天津の英国租界を封鎖し解決をめぐって会談がつづけられていた。7月にいったん妥協が成立したが、アメリカが日本に対し日米通商航海条約の破棄を通告した。8月21日に日英会談は決裂した。)

8月25日、「オペラ館楽屋を覗くに相貌凶悪なる遊人五六名出入りし何か紛擾ありげに見えたり。踊り子に様子を聞きしが不明なり。ある者は役者清水をゆすりに来たりしと云いある者は木村時子に言いがかりを付けしなりと云う。日本という国にてはいかなる方面にもギャングあり。浅草の芸人社界には甲州屋また丸腰組などいうギャングありて絶えず金銭を強請す。」

8月26日、「白木屋百貨店前にていつぞや西銀座裏の喫茶店にて見知りたる女に逢う。縮らし髪に裾短き洋服を着素足に流行のサンダルを履きたり。水天宮裏なる鼎亭につれ行きしにかみさんとはすでに知り合える仲にて小座敷に案内せらるるや否や扇風機の風をまともにシュミーズ一枚になり胡坐かきて煙草にマッチの火すりつけるさまいかにも馴れたものなり。」

(ハルハ東岸の日本軍は完全に包囲された。)

8月28日、「有楽町省線停留場を過ぐ。ここは日本劇場の裏手なるを幸い恋の出会いをなす男女幾組もあり。掲示用の黒板に日劇地下の食堂でお待ちしてますと走り書きする女もあり。商店の売り子にあらざれば喫茶店の女給らしき洋装のもの多し。

停車場前の路上には新聞の売り子大勢号外を配布せんとしつつあり。平沼内閣倒れて阿部内閣成立中なりと云う。これは独逸国が突然露国と盟約を結びしがためなりと云う。通行の若き女らは新聞の号外などに振り返るもの一人もなし。夜浅草オペラ館に行きて見るに一昨日までヒトラーに扮して軍歌を唱う場面ありしが、昨夜警察よりこれを差し留めたりとのことなり。」

(軍部は北進派と南進派で対立していた。ソヴィエトを主敵とする陸軍は、独伊との三国同盟締結と反英を煽っていた。海軍は南進派で、同盟にメリットがなかった。欧州での戦争を見越して、独英のあいだでソヴィエトを陣営につける綱引きがつづいていた。内部対立で煮え切らない日本を無視してドイツはソヴィエトに妥協し、スターリンは最終的に西部の安定を選んだ。独ソ不可侵条約によって、日本は防共の梯子をはずされ訳がわからなくなった。世界の反ファッショ戦線は混乱した。)

8月29日、「街の辻々に立てられし英国排撃の札いつの間にやら取り除けられたり。日独伊三国同盟即時断行せよまたは香港を封鎖せよなど書きしものその種類七八様もありしがみな片付けられたり。これとともにソ連を撃てという対露の立て札もまた影をひそめたり。人の噂によれば東京市役所の門に下げられたる反英市民同盟本部と書きし木の札もすでに見えずと云う。」

8月30日、「月よければ吾妻橋より車にて玉の井に至る。しばらく来り見ざる中に新来の美女多く出でたり。いづこより集まり来たるや知らねどこの地の繁華毫も時局の影響を蒙らざるは実に喜ぶべきなり。」(窮乏農村からに決まっている。)

8月31日、「午後銀座三越まで食料品買いに行きしに街上にて去月末蠣殻町にて紹介せられし時子という女に逢う。簡単なる洋服に夏帽を戴き四五才になる少女をつれたり。親類の娘なりと云う。誘わるるがままに数寄屋橋際なる日本劇場に入る。番組は活動写真と舞踊一組なり。余は今日に至るまでこの界隈の映画館に入りて日本製の映画を見たることなきをもって、自ら新たなる感想を得たり。観客の大半は若き女にて、夕方よりカフェー酒場にはたらきに行くもの、または定まりし職業なきものなるがごとし。昼夜銀座通りを遊歩し家に帰りて婦人雑誌を読みて時間を空費する者なるべし。これらの観客を喜ばせんがために製作せられし活動写真の愚劣なることは、見ざる前に予想せしものにたがわざりき。実地に観覧して余の深く感じたることは、脚本の筋立てといい撮影の方法といい、いづれも西洋映画の憐れ果敢なき模倣にして、その皮相的に整頓せしところ将来この以上の進歩は望みがたき心地せらるることなり」

(上映していたのは阿部豊監督女の教室。阿部はハリウッドで修行しジャック阿部と呼ばれていた。)

(月末までにノモンハン日本軍陣地は破壊され、第23師団は壊滅しわずかな残兵は撤退した。日本軍は劣勢な中国軍との戦いになれ、いつもの冒険主義で自己の力を過大評価した。出先と本国の無政府状態もそのままだった。戦争目的もはっきりしていなかった。スターリンは欧州の大戦前に関東軍を叩き、東部を安定させたかった。そのため補給に不利な遠隔地ながら、総力を注ぐことをいとわなかった。)

 

9月1日、「この日また禁酒禁煙の令あり。ラヂオしきりに君が代を奏す。・・公園の興行物午前より大入りなりと云う。」

(ドイツ軍ポーランドへの侵攻をはじめる。)

9月2日、「有楽町停車場にて一昨日約束せし女に逢う。この日新聞紙独波両国開戦の記事を掲ぐ。ショパンとシェンキイッツの祖国に勝利の光栄あれかし。」

9月3日、「この日日曜日にて公園の人出おびただしきこと銀座にまされり。世のいわゆる軍需品景気なるべし。」

(英仏がドイツに宣戦布告。世界大戦が開始された。米と日本は中立を表明した。)

9月5日、「六区の興行物はオペラ館のみならずいづこも興味索然看るにたえざるものとなれり。観客および散歩の人々も去年に比すればその風俗しだいに変化し、人をして時代の推移を感ぜしむることすこぶる深刻なるものあり。東京下町の風俗人情には今やなんらの詩趣もまたなんらの特徴も認めること能わざるに至れり。」

9月8日、「市内諸所の電気時計電力不足のため進行おそく、また百貨店その他建物の中に設置し昇降器運転せざるもの多しと云う。」

9月11日、「燈刻物買いにと銀座に往く。メリヤス夏の襯衣を購わんとするに怪しげなる模擬品のみにてよき物はまったくなくなりたり。」

9月12日、「枕上たまたま商子(法家商鞅)を読む。その説くところ国家の基礎を兵と農との二者に置き、儒者と商估(商人)とを有害のものとなしたり。これ軍部のもっとも喜ぶべきものなるべきに、彼らは今日に至るもなぜこれを広告せざるにや。」

9月14日、「浅草の米作に飯す。この店の料理あまり安き方ではなし。一汁三菜にて一人前たいてい二、三円を要す。しかるに客の風采を見るに小商人または小工場の主人らしきもの多く、その中には家族連れにて酒盃を傾るものもあり。この有様は戦争の禍害を示すものにあらずむしろその利福を語るものなるべし。」

9月15日、「三越店頭に立ちて電車を待つ。女の事務員売り子ら町の両側に群れをなして同じく車の来るを待てり。颯々たる薄暮の涼風短きスカートと縮らしたる頭髪を吹き翻すさままた人の目を喜ばすに足る。余は現代女子の洋装をもって今は日本服のけばけばしき物よりもはるかによく市街の眺望に調和し、巧みに一時代の風俗をつくり出せるものと思えるなり。見るからに安っぽききれ地の下より胸と腰との曲線を見せ、腕と脛とを露出して大道を闊歩するその姿は、薄っぺらなるセメントの建物、俗悪なるネオンサインの広告、怪しげなるロータリーの樹木草花などに対して、渾然たる調和をなしたり。これを傍観して道徳的悪評をなすは深く現代生活の何たるかを意識せざるがゆえなり。」

(9月16日、ノモンハン停戦。日本の敗北感は強く、以後南進派が主となり太平洋戦争の構図が描かれる。

17日、ソヴィエト軍ポーランド侵攻。)

9月18日、「人の噂にこのごろ市中に砂糖品切れとなりし由日本政府ひそかにこれを独逸に輸出するためなりと云う。」

9月21日、「終日隣家のラヂオに苦しめらる。・・この夜尾張町のあたりに酔漢多く、軍人の往々女子を携うるを見る。醜態憎むべし。」

9月23日、「銀座のモナミに夕食を喫す。バタおよびチーズ品切れとてこれを用いざれば料理無味ほとんど口にしがたし。この二品は日本政府これを米国に送り小麦および鉄材を買うなりと云う。東京市内いづこの西洋料理も今年三四月ころよりバタの代わりに化学性の油を用うるがため腸胃を害する者多しと云う。」

日米条約は破棄通告されたが、通商はつづいた。)

9月24日、「日比谷あたりの映画音楽、新聞雑誌の小説はこれ愚鈍なる東京人をよろこばす芸術なり。」

9月25日、「電車の内にて酔漢の嘔吐するもの二人あり。・・余はこのごとき醜態を目撃するごとにこの民族の海外に発展することを喜ばざるものなり。」

(9月27日、ポーランド降伏。29日ポーランド独ソで分割。)

9月30日、「明日はことによると飲食店いづこも休業のおそれあれば食料品を買わんとて夜銀座に行く。」

さよならマエストロ 協奏

 

これまでオーケストラ団員の物語が語られるなか、芦田の心は少しづつ溶かされていった。今回、男への告白で挫折の詳細があきらかになった。

それは天上的な芸道の苦悩というよりは、アスリートのつまづきのようなものだ。

 

楽家の子として愛情に包まれた環境で精進していた芦田は、二世としての豊かさを揶揄される。批判した相手は恵まれない境遇だが、自分よりはるかにすぐれた腕をもっていた。

屈辱からすべてを犠牲にして激しい練習を重ねてきたある日、ついに会心の演奏を果たすことができた。そのとき父はなにげなく小さなダメだしをしてしまう。限界にあった芦田の心の弦は、そこで切れた。絶望のなか不慮の事故に遭い、練習すら中断を余儀なくされる。一日休めば、回復まで数倍の時間がかかるのが修業の世界だ。技の上達だけを支えにしてきた芦田は、すべてを失ったと思い音楽と父を憎む。

 

これで思い出すのが、フィギュアスケート鈴木明子だ。「あと1kgやせれば」という長久保コーチのふともらした言葉から、無理なダイエットにすすみ摂食障害となり一時は生死の境をさまよいもした。競技の順位はたやすく上がらないが、体重という数値は目に見えて変動させることができる。その達成感は、奈落への道につづいていた。

鈴木は回復できたが、消えていったスケーターは多いことだろう。

 

このドラマでは才能とか天才などの言葉は、注意深くとりのぞかれている。サリエリのように楽譜をパラパラと落として、到達できない至高の高みをあらわすわけではない。芦田は無理な減量を重ねていたのに、父の前で1gを落とせなかった運動選手のようだ。あやうかった平衡は、そこで崩れてしまった。

 

芦田は告白した男に身をゆだねることもできそうだったが、そうはならなかった。ヴァイオリンを持って立ち合奏をうながす芦田、コートを脱いで父はピアノに向かう。終わって抱きあう二人。この流れには、ほのかなエロを感じた。

荷風マイナス・ゼロ (57)

ノモンハン ロシアではハルキンゴル(ハルハ川)の戦い

 

昭和14年(1939)

 

5月3日、「新橋にて電車を乗り換えんとするとき去冬玉の井にて知りたる女に逢う。この春より芝口の処女林というカフェーにはたらき居ると云う。赤坂田町の貸間に姉と二人にて住むなりと云う。」

5月10日、「このごろ町の辻に日独伊軍事同盟のビラ政党解散を宣言するビラ貼り出さる。」(同盟成立は翌年。)

(5月11日、モンゴル人民共和国満洲国の境界ノモンハンで両軍が衝突し、9月までつづく日本ソヴィエトの戦争にいたる。国内では詳細は報道されなかった。ノモンハン事件

5月19日、「谷町通の荒物屋に行き高箒を買う。一本25銭なり。草箒は10銭なりという。」

5月24日、「つゆのあとさき再版印税金150円。」

5月25日、「夜銀座蕎麦屋吉田に一酌す。もりかけこれまで10銭なりしに12

銭となる。」

5月26日、「新大橋に至り船にて浅草に往く。潮落ちて両岸に露出したる石垣のさま、橋の石台に塵芥の堆積したるさま、溝(どぶ)のごとき水の色とともに不潔きわまりなし。」

5月30日、「田原町地下鉄出入り口にて辻君に袖を引かる。24-5の小づくりの女なり。」(●マークなし。)

ノモンハン:勢力はほぼ互角の前哨戦だった。航空力は日本優勢だったが、一支隊が全滅するなど地上では押された。ハルハ川を境に東岸西岸で一進一退した。)

 

6月1日、「去年この日は浅草富士詣の賽日なりしかばオペラ館の踊り子らと夜半麦藁の蛇を購い夜の明けるころ家にかえりぬ。今年は雨ならざるもすでに夜遊びの元気なくなりたれば独りさびしく家に留まりしなるべし。」

6月2日、「菅原氏のもとに手紙にて、去年九月ごろその需によりて作りし歌詞放送中止したき趣を言い送りぬ。」(放送ぎらいが理由と思われ一時菅原を避けるが、やがて旧交に復する。)

6月6日、「久しく放水路の景を見ざれば青バスにて砂町より葛西橋に至る。橋下の蒹葭ことごとく取り払われ、堤防の草は薄くなりて人歩めば赤土の塵たち舞うさま隅田公園のごとし。堤の下にも人家小工場ようやく建て込み数年前の寂しき眺めはなくなりたり。」

6月7日、「江戸川筋の蒹葭もおいおい刈り除かるる由。蒹葭蘆荻は水流を阻止し水底を浅くするがゆえ洪水の害を招きやすしとなり。当局官吏の妄説愚見笑うべくまた恐るべし。」

6月11日、「人の噂をきくに吉原遊廓も市内の芸者屋町と同じく貸座敷は午前一時引手茶屋は十二時かぎり戸を閉ざして客を上げざる由。市内盛場夜一時限客ノ出入ヲ禁ズ。」

6月12日、「帰途門外の崖道にて巡査に誰何せらる。時間を反問するに暁一時なりと云う。」

6月13日、「郵便配達夫書留郵便を持ち来たり認め印を請う時、国庫債券を買いませんかという。」

6月20日、「夜十時過ぎ谷中生西川千代美生田数馬らと森永に憩うとき土地の破落戸(ごろつき)三人来たりて銭を請う。三人とも顔にニ三寸の疵ありてこれを売り物にす。・・年はいづれも二十二三なり。銀座のカフェーなどにて喧嘩を売る無頼漢に比すれば無知愚昧かえって愛すべくまた憐れむべきところあり。ただしこの夜は酒手を与えずして去らしめたり。」(銀座はいわゆる羽織ゴロを指すか。)

6月21日、「世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪パーマネントウェーブを禁じ男子学生の頭髪を五分刈りのいが栗にせしむる法令を発したりと云う。林荒木(軍部政治家)らの怪しげなる髭の始末はいかにするかと笑うものもありと云。」

6月22日、「一昨夜の無頼漢来たり西川を介して再び銭を請う。5円札1枚を与えて去らしむ。」

6月28日、「この日浅草辺にて人の噂をきくに、純金強制買い上げのため係の役人ニ三日前より個別調査に取りかかりし由。・・一寸八分純金の観音様(浅草観音)はいかにするにや。名古屋城の金の鯱も如何と言うものありとぞ。」

6月29日、「新大橋より乗合汽船に乗りて吾妻橋に至る。雨後の河水はなはだしく悪臭を放つ。墨水の流れも今は文字通り黒くなりて墨のごとし。政府の役人は市中婦女子の服装結髪などにつきて心を労するかごとく見えながら、都市の美観につきては表面だけときどき文句を並べるにすぎず。実際においては放擲して顧みざること墨水両岸の景を観望すれば自から明なり。蔵前の橋下は河岸の中にてはもっとも不潔なる眺めなるべし。」

6月30日、「昨日警察署の刑事オペラ館に来たり、楽屋頭取に向かいオペラ館楽屋に出入りする人物の如何を質問して去りし由。そのなかには自然貴兄のことも話に出でしに相違なければ御用心しかるべしとなり。この日市兵衛町町会の男来たり金品申告書を置きて去る。余が手許には今のところ金製の物品なし。・・今は煙管一本と煙管筒の口金に金を用いしものの残れるのみ。浅草への道すがらこれを携え行き吾妻橋の上より水中に投棄せしに、そのまま沈まず引き潮に浮かびて流れ行きぬ。煙管筒には蒔絵にて、行春の茶屋に忘れしきせるかな荷風としるしたれば、これを拾い取りしもの万一余が所有物なりしことを心づきはせぬかと何とはなく気味悪き心地なり。」

ノモンハン:航空戦主体で日本が優勢だった。地上は戦闘準備。)

 

日本軍戦車隊

 

7月1日、「手箱の中にしまい置きし煙草入れ金具の裏座に金を用いしものあるに心づき、袋よりこれを剥ぎ取りて五六個紙につつみたり。・・晩間ふたたび吾妻橋の上より浅草川の水に投棄てたり。むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨て去るにしかず。」

7月2日、「オペラ館は来週戦争物を演ずる由。そのため憲兵隊より平服の憲兵一人来たり稽古を検分す。その筋の干渉ますます苛酷となりたるを知るべし。」

7月3日、「水天宮裏の鼎亭に夕餉を食す。主婦のはなしに今夜八時過ぎ刑事点検を行うとの風聞あれば日の暮るるとともに客芸者の出入りを避ける手はずなりという。」

7月4日、「今年三四月のころより辻自動車の便宜なくなりしためオペラ館のけいこ場に夜をふかして遊ぶことも稀になりぬ。」

7月6日、「明七日六区興行物夕方七時まで飲食店九時閉店の由。」

7月7日、「芝口の千成に至り夕餉を食す。酒を売らざるのみにてその他の飲食物平日と異なるところなし。カッフェーは戸を閉ざしたれど喫茶店には客あり。煙草屋も休まず酒屋も商いをなせり。ラヂオは軍歌を奏せり。市中禁欲日ヲ設ク。」

7月8日、「昨夜公園の飲食店はいづこも混雑はなはだしく十時過ぎても客の出入り絶えやらず。酒を飲むもの多かりしと云う。」

7月10日、「この日の新聞に戸川秋骨君病没の記事あり。行年70才という。」(一葉の文学界同人)

7月13日、「偶然竹久よし美の関西より帰り来たれるに逢う。」

7月18日、「郵便局に税金を納む。289円なり。・・燈火管制。」

7月20日、「日本橋に飯す。禁燈の三日目にて街燈点せず。」

7月21日、「市中の景況を看る。この日禁燈防空訓練の第三日目にて昼のうちより街上ことにもの騒がしければなり。電車に乗るに溜池四辻にて停車すること15分あまり、虎ノ門に至るにまた停車するのみならず乗客も運転手もともに車より降りて路傍に避難すべしと云う。・・玉の井に行きて見るに、広小路大通りには女ども七八人づつ一団になり、いづれも手拭いをかぶり、肌着一枚、袴、足袋はだしにて水まく用意をなせり。六丁目角に狸屋という薬屋あり。この店の若き女房、年頃二十六七、鼻高く色白の細面、このあたりにて名高き美人なるが、薄化粧して手拭いかぶり、ボイルの肌襦袢一枚に乳のふくらみもあらわなる姿、ことに今日は人の目をひきたり。」

7月23日、「芝口の千成屋に飯す。街頭の立て札さまざまなるが中に国論強硬で大勝利しろと云うがごときものあり。語勢の野卑陋劣なること円タク運転手の喧嘩に似たり。・・田村町より電車に乗る。車内に貼りたる化粧品の広告に挙国注視断乎!汗物を撃殺せよとかきたり。滑稽かえって愛すべし。」

7月25日、「元芸人手紙を寄す。大坂千日前花月劇場に在りという。」

7月30日、「炎暑焼くがごとき日盛りラヂオの洋楽轟然たり。真に焦熱地獄の苦しみなり。」

ノモンハン:日本軍はハルハ川を渡河したが、損害は大きく押し戻された。日本は戦闘経験と兵の練度で長じたが、ソヴィエト・モンゴル軍は機械力補給力でまさった。航空戦も互角になった。)

 

擬装するソヴィエト軍戦車

荷風マイナス・ゼロ (56)

百人斬り競争とその処刑の記事

 

昭和14年(1939)

 

1月1日、「(玉の井に行く)広小路に出るに東側に並びたる飲食店の中にて唯一軒店をあけたる家あり。常に円タク運転手を顧客とする店なるがごとし。定食朝20銭。夜30銭という張り紙を出したり。

・・夜半十二時ごろ永井智子より電話あり。離婚のことにつき相談したしと云う。」

1月2日、「(永井智子の夫は)生活費はことごとく妻智子に支払わすのみか、毎月70円の現金をも妻の手より奪い取り、これをことごとく酒代となせり。智子はオペラ館より毎月200円を得、・・オペラ館には前借150-60円あり。」

1月4日、「平沼男爵首相となる。」

(第一次近衛内閣は戦争拡大と挙国一致ファッショ体制構築を目指したが、新党を設立しようとして行きづまった。超国粋主義者として2.26以前は遠ざけられていた平沼騏一郎が、跡を継いだ。)

1月7日、「(来た手紙の一節)東京市長小橋なにがしといえるもの・・大都会芸術なるものの提唱を起こし・・その傘下に参ずるものは例によって菊池吉屋佐藤西條などいづれも大の田舎漢にて噴飯の至り。」

1月15日、「新橋渋谷間地下鉄道開通。」(銀座線全通)

1月20日、「税金およそ270円を京橋郵便局に納め、日吉町の床屋に立ち寄り吾妻橋丸三屋に至る。・・この夜公園の雑衆はなはだしきは二十日正月のためならんと云う。兎に角に戦争の事を口にするものなきは悦ぶべきなり。」

1月23日、(小説女中の話を読んだ読者が)「なにとぞ女中に使いくれよと云う手紙二度ほど寄せ越しぬ。小説を芸術として鑑賞すること能わざる人の心ほど解しがたきはなし。」

1月28日、「オペラ館出演中の芸人中韓某とよべる朝鮮人あり。一座の女舞踊者春野芳子という年上の女とよき仲になり大森の貸間を引き払い、女の住める浅草柴崎町のアパートに移り同じ部屋に暮らしいたりしが、警吏の知るところとなり十日間劇場出演を禁じられたりと云う。朝鮮人は警察署の許可を得ざれば随意にその居所を変更すること能わざるものなりと云う。この話を聞きても日本人にて公憤を催すものはほとんど無きがごとし。」

1月29日、「旧オペラ館芸人眞弓明子上海ダンスホールにあり。三月ころ帰京したしとて手紙を寄す。」

 

2月9日、「新聞広告にて家政婦志願のものを尋ね見んとてその番地をたよりにして白金三光町雷神山跡に行く。・・間借りをなせるその女に逢いて見るに年は27-8、信州の生の由。女中よりも妾になりたき様子なれば改めて返事すべしと言いて立ち去りぬ。」

(日記の●マークは性交にかんする印と考えられている。前年ことに葛飾情話上演前後は、●マークが減少していた。この年に入って印は散発的に増え、いよいよ女中兼妾を置く気になったらしい。この女性との話は立ち消えになっている。)

2月11日、「紀元節にて世間騒がしければ終日門を出でず。」

2月16日、「平井君もと浅草芸人(オペラ館)宮城輝子と云うものを伴い来る。仙台生去年中名古屋へ出稼ぎす。」

2月19日、「オペラ館演劇花と戦争と題する一幕憲兵隊より臨検に来たり上場禁止せられし由。昨夜起こりし事なり。浅草の踊り子戦地へ慰問に赴き昔馴染みの男の出征して戦地に在るものに邂逅するというような筋なりと云う。」

2月21日、「昨日オペラ館作者小川有吉の二人憲兵屯所に召喚せられ終日尋問せられしと云う。家宅捜索にもあいたりと云う。」

2月24日、「初更のころ浅草に往かんとて門を出で麻布仲ノ町小学校前を歩む時、職工風の追いはぎに遇う。走りて電車通りに出でわずかに難を免る。乱世には是非もなきことなり。」

 

3月6日、「ミシュレーの羅馬史を読了して仏蘭西史に進む。」

3月7日、「銀座にて夕飯を喫することを好まざれば今宵も遠路をいとわず浅草に往く。・・公園花やしき近きうちに開園の由。・・このごろ夜半一時ころに至れば辻自動車ほとんどなく、たまたま有るも遠路を行くことを欲せず。市内の交通まったく途絶するなり。これがためか吉原をはじめ遊廓待合には泊り客多しと云う。世の有様一帯に明治四十年ころのむかしに立ち戻りしがごとし。」

3月10日、「近年文壇に賞金の噂多し。菊池寛賞と称するもの金1000円このたび徳田秋声これを受納せしと云う。・・余は死後に至りても文壇とは何らの関係をも保たざらんことを欲す。」

3月12日、「このたび花やしきを買い取りたるは須田町食堂の主人なり。震災直後はじめて須田町に飲食店を開き今日まで15年間にて巨万の富を作りたり。目下使用人4-5千人あり花やしきだけにて400人を使用すと云う。」

3月14日、「この日富山房より金120円受納(改訂下谷叢話発刊)」

3月16日、「夜オペラ館に至り見るに刑事2-3人あり、俳優音楽師20名あまり賭博犯にて終演の時刻を待ちまさに警視庁に引致せらるるところ。作者小川安藤の二人もまた引かれ行くと云う。踊り子らは今夜稽古なしとて大よろこびなり。」

3月31日、「歌劇題未定筋書き・・千束夜話とでも題すべきか。(NTRばなし)」

 

4月1日、「人形町の里美に至り、その主婦と相談し道子とよぶ私娼上がりの女を外妾とすべきことを約す。十一時過ぎその女来たれば伴いて家にかえる。」

4月2日、「正午に起き道子を伴いて里美に往く。浅草公園近傍のアパートに住まわせ置かんと思いて心当たりへ電話にて問い合わせしが空室なし。・・薄暮に至り新大橋向の河岸近き横町に貸し二階を見つけたりとの知らせを得て、様子はわからねど借り受けの約定をなす。」

4月7日、「雨深更に至るもやまず。桜花の好時節北風吹きすさみてのち長雨数日にわたりてなお晴るる模様もなきは、虐殺せられし支那人が怨霊の祟りならんと言うもの多し。」(百人斬り競争のような記事が東京日日、朝日などの紙面を飾っていた。)

4月10日、「(外妾道子の新しい部屋をさがす。)八丁堀の大通りにころあいの一室を見出し得たり。・・間代17円。」

4月11日、「余老年に達し自炊にもやや疲労を覚ゆる日の多くなり行きたれば、道子の身元判明するを待ちわが方へ引き取らんと思い居たりしかど、その性向あまりに淫蕩なるのみならず大坂者にて気風はなはだ気に入らぬこと多きをもって、体よくこの日かぎり関係を断つこととなせり。」(しかし関係はつづく。)

4月16日、「辻々に自家用自動車を政府に献上せよとのビラを出したり。浅草公園に入るに日曜日の人出多しといえど銀座辺のごとく険悪の気味なし。」

4月27日、「終日風雨雷鳴。日暮に至って晴る。九段招魂社祭礼中この雷鳴果たして何のゆえなるや。怪しむべし。」

荷風マイナス・ゼロ (55)

浅草羽子板市

 

昭和13年(1938)

 

11月4日、「思い返せば浅草公園の興行物に興味を覚えそめしは、去年の十一月初にて、早くも満一年とはなれるなり。今年三月のころよりはほとんど毎日のようにオペラ館楽屋に往きある時は散歩の疲れを踊り子の部屋に休めしこともあり。夕飯はたいてい踊り子女優らとともに喫して時には麦酒の盃かわせしこともあり。されど今年の十月初ころよりこの芝居の芸風俳優らの趣味のかわり出せしことようやく目につくようになりて、楽屋への出入りも次第に興味薄くなり行けり。これも時勢の影響にしてやむことを得ざるしだいなるべし。」(演目に軍国調が目立ってきたのだろう。)

11月7日「オペラ館に立ち寄るにこの日表方にてあだ名金歯と云わるる暴漢と、楽屋頭取長澤の手下鵜澤というものと喧嘩をなし引きつづきて楽屋中もの騒がしくなれりと云う。・・オペラ館楽屋裏もいろいろの事情にてそろそろ逃避すべき時節とはなれり。」(浅草興行にやくざはつきもので古川ロッパも日記に「浅草はいやだな」とたびたび記し、サラリーマンの街有楽町に転出している。)

11月21日、「午後丸善書店の洋書を見る。売れ残りの古本のみにて新刊書籍は一冊もなし。」

11月26日、「今夜より明後日朝まで燈火管制の令あり。」

11月27日、「(燈火管制のなか)浅草を過ぎて玉の井に至り見れば四顧すでに暗黒なり。・・女どもの住める路地の中は鼻をつままれてもわからぬばかりに暗きが中に、彼方此方の窓より漏るる薄桃色の灯影に、女の顔ばかり浮かみ出したり。玉の井の光景この夜ほどわが心を動かしたることはなし。」

 

12月1日、「東京市役所より年末年始の虚礼を廃すべき由印刷物を市中各戸に配布す。」

12月3日、「午後今川橋ヴィクター蓄音機会社に至る。今秋菅原君に交付せし拙作歌詞冬の窓の作曲前半できたる由。この日会社の一室にてこれを聴く。歌は智子ピアノ菅原君。」

12月9日、「ミシュレの羅馬共和国史をよむ。」

12月11日、「薄暮玉の井を歩む。私服の刑事余を誰何し広小路の交番に引致す。交番の巡査二人とも余の顔を見知り居て挨拶をなし茶をすすむ。刑事唖然として言うところを知らず。また奇観なり。」

12月14日、「(浅草から)帰途巡査に誰何せらるること再度なり。」

12月17日、「俳優酒井来たり楽屋に出入りするギャングら新門とやら称する無頼漢の子分に頼み谷中生を襲撃せんとする企てをなせし由を告ぐ。

・・(浅草羽子板市の盛況を見て)この日の新聞に大蔵次官三越店内を視察し羽子板買うものの多きを見慨嘆して、この玩具にも戦時税を課すべしと云う談話筆記あるを思い合わせ、余は覚えず微笑を浮かべたり。現代の官吏軍人らの民心を察せず世の中を知らざることもまたはなはだしきなり。・・桜花は戦時といえど春来れば花さくものなるを知らずや。」

12月19日、「玉の井の知る家に憩う。秋田生の女あり。東京に来たりし経路を語れり。次の如し。饅頭屋の娘にて父死してのち母と妹二人あり。ある日隣の家の娘と公園にて遊びいたりし時一人の男来たりて話しかけたり。この男は玉の井四部の銘酒屋の主人なり。言葉たくみに東京行きを勧め隣家の娘は三年八百円にてつれ行かれたり。饅頭屋の娘もともに行きたしと言いしが、その男は承知せずただその住所と姓名とを紙片にかき与えたり。娘は秋田市内のある家に下女奉公に行きしが洗濯物の間違いより主人に疑われたるを無念に思い、普段着のまま荷物一つ持たず汽車に乗りて東京に来たり。紙片の番地を宛に玉の井を尋ねみずから進んで身を落とせしなりと云う。もとより真偽たしかならずただ聞くがままに記すのみ。」

荷風マイナス・ゼロ (54)

1940年までの日本軍占領地域

昭和13年(1938)

 

8月1日、「夜オペラ館に至りカフェージャポンの女給いち子とともにかえる。・・いち子わが家に宿す。」

8月5日、「またいち子と田原町電車停留場にて偶然邂逅す。・・いち子また一泊す。」

8月6日、「数日前よりネオンサインその他屋上屋外の燈火禁止の令あり。」

8月7日、(オペラ館ファンの俳人藤忍忍洞による浅草オペラ館観賞会と記す印刷物の抜粋)「・・我国オペラ最初よりのスターとして技神に近き岩間百合子を初め古くより有名なスター松山浪子男優ではカヂノフォーリー時代よりその妙技をもって鳴らしているエノ健などの大先輩佐藤久雄および軽妙無比の独技を有する川公一、原田勇鶴岡健織田重夫老役に妙を得たる深澤恒造張りの朝香務ダンスの妙手舎利安一等あり歌手としてはかつてこの館にて売り出したる松島詩子丸山和歌子等をしのぐ牧和江大井律子および名歌手羽衣歌子あり若き女優群にはダンス日本舞踊芝居両方面に優れたる柴野治子を始め日本舞踊の上手な石原ナナ子および上村とし子星清子石田フミ子霧島信子山本美代子瀬川京子等ありその他別格加入として小村元子泉淳子等の腕達者もそろい多士済々です・・」

8月8日、「水天宮裏の待合叶家を訪なう。主婦語りて云う。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼の地に赴き、帰り来たりて売春婦3-40名を募集せしが、妙齢の女来たらず。かつまた北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋その他の費用のみにて少なくも2万円を要す。軍部にては1万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといわれたれど、北支の気候あまりに悪しきゆえ辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦はなお売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との連絡その他の事を語りぬ。世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言いながら戦地にはさかんに娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。」

8月8日、「街上ネオンサインの光なきをもって月光の青く冴えわたりて高き建物の半面を照らすさま、また街路樹の茂りのその影を路上に横たうさますこぶる趣あり。ネオンサインの禁止は軍人悪政中の悪ならざるものと謂うべし。」

8月11日、「オペラ館作者淀橋太郎招集せられ十四日浅草を去ると云う。」

8月26日、柳亭種彦の田舎源氏序文を抜粋する。日記ではたびたび種彦と為永春水への傾倒が記されるが、二人とも天保改革で処罰されている。

8月29日、「夜浅草に行きオペラ館の婦女とともに森永の放送器にて菅原君作曲の歌を聴く。歌は永井智子なり。大坂ピーケーより放送するなり。」

 

9月5日、「新橋妓家の主人某に逢う。戦争以来昼遊びの客多く芸者相応にいそがしき由なり。」

9月6日、「噂の噂 神田須田町の街頭に広瀬中佐の銅像とともに杉野兵曹長銅像の立てることは世人の知るところなりしかるに杉野は戦死せしにあらずその後郷里浦和に居住しこの程老齢に達し病死せしと云う杉野翁の孫なる人物浦和にあり近隣の人々も杉野翁のことをよく知れりと云う。

小説生きてゐる兵隊作者石川達三中央公論社雨宮庸蔵その他一名禁固四個月猶予三個月の宣告を受く。」

9月12日、「この日より十六日まで禁燈の令あり。」

9月16日、「禁燈の四日目なれど六区の人出は平日のごとし。」

9月20日、「歌詞草稿を菅原君に郵送す。」(冬の窓と名付けられ戦中ひそかにもった音楽会で歌われる。)

9月20日、「永井智子家庭の事情を告ぐ。」(永井菅原は既婚者だったが、葛飾情話をつうじて恋愛する。)

 

10月1日、「小売商店夜十時限り閉戸の令出ず煙草屋酒屋も定刻に閉店す飲食店は十二時まで。」

10月3日、「商店法実施の後なれど六区界隈は飲食店多ければ十二時までは街上明るく人影あり。」

10月8日、「虎ノ門その他の辻々に愛国心扇動の貼札またさらにニ三種加わりたり。

・・玉の井広小路に至るに、町会その他の旗持ちたる人々歩道に居並ぶこと七八町に及べり。戦死者の葬式を送るなりと云う。」

10月16日、「燈刻尾張町富士あいすに飯す。今秋八九月ころより料理はなはだしく粗悪となりしに係わらず価は一割近く高くなれり。」

10月20日、(送られてきた同人誌に荷風攻撃の文があるのを見て)「筆禍の来るも遠きに非ざるべし。余平生すでに長生きし過ぎたりと思えるおりからなれば種彦春水の覆轍を踏むこといまさら悲しとも思わざるなり。」

10月23日、「夜浅草に至り今半に飯す。国際劇場入り口に祝広東陥落という幕張りたるを見る。」(前日広東が占領された。)

10月24日、「松竹座前にて円タクに乗る。浅草橋を渡るころ運転手の言うよう、先生をお送りするのは今夜で四度目です。葛飾情話は二度見ました。」

(この日のちに短編勲章のモデルとなる退役軍人である弁当屋の写真を楽屋で撮る。)

10月25日、「秋来小説の稿を起こさんと思う心あれど、世の風潮を考慮すれば筆を拘束せらるるところ少なからず。葛飾情話執筆以後今もって机に向かわず、読書と旧著の校訂に無聊を慰むるのみ。」

10月26日、「区役所横裏の喫茶店ロスアンゼルスというに入りて店内備え付けの蓄音機にてドビッシイの歌劇聖セバスチアンの殉教を聴く。十一時オペラ館稽古場に少憩し女優松平および朝鮮人韓某とともに車にてかえる。浅草公園六区に出る芸人の中には朝鮮人少なからず。ことにオペラ館の舞台にては朝鮮語にて歌をうたうほどなり。日本人の芸人も東京生まれのものよりも地方の男女多く、十人の中五人までは北海道および秋田青森の産なり。今オペラ館の楽屋についてこれを見るに女優竹久よし美松平まり子石田文子松山浪子のごときいづれも北海道の生まれなり。まり子は秋田なり。文芸部の小川氏は朝鮮京城の生れなり。声曲家増田晃久は米国に生まれ広嶋にて人となりたり。女優木村時子は仙台の生まれなり。大道具の職人四人の中二人は大坂者なり。小道具方一人も京阪の者なり。この一例によりて見るも純粋の東京人は年とともに減少滅亡し行くもののごとし。」

(人気者の清水金一堺駿二は東京生まれ。清水は下町言葉ミッターシャーネーを売り文句にした。)

10月27日、「日比谷丸の内辺提灯行列にて雑衆す。」

10月31日、「夜初更銀座に往き銀座食堂に飯す。街上には戦勝に酔える民衆学生放歌横行す。・・

この頃銀座街上を歩む時または電車に乗る時著しく目立ちて見ゆることは、四十歳以下の日本人の顔立ちのいよいよ陰険になり、その態度のますます倨傲になりしことなり、安洋服を着て中折れ帽目深にかぶりしものはいづれも刑事のごとくに見ゆ。しからざるものは新聞記者のごとし。私立大学の制帽かぶれる書生の顔の田舎くさきは電車の車掌また円タク運転手と異なるところなし。しからざるものは手におえぬ無頼漢なり。日本全国とまでは行かずとも、東京の良風俗は大正十二年の震災以後年々に滅び行きて今は全く影を留めざるに至りしなり。」

 

南京陥落につづいて日本軍は1938年5月徐州、10月武漢、広東を占領した。しかし国民軍のゲリラ戦略に攻めあぐみ、平型関や台児荘、武漢では大きな損失をこうむった。また攻めても中国政府はさらに重慶に撤退し、主力をつかみあぐねた。日本軍の進行はそこでストップし、泥沼に入りこむことになる。遠距離爆撃と傀儡政権樹立で打開をはかるが効果はなく、補給路いわゆる援蒋ルート切断のためさらに戦線を拡大して進退きわまる。