荷風マイナス・ゼロ (78)

阿部雪と行徳橋にて 1952年(昭和27)

 

昭和18年(1943)

 

10月3日、ガス風呂許可の届け書きを出せと言われ風雨のあと空が晴れたのをさいわいに赤坂新町のガス会社出張所におもむく。・・妓家はいよいよ多くなったようで稽古三味線の音がしきりに聞こえ、浴衣に半帯がだらしない抱え子が三々五々物買いに歩くさまは戦乱の世とは思われない。妓界の景気がはなはだ盛んであることを知る。世の噂に珈琲店はやがて撲滅されるけれど妓界は新橋赤坂の二か所があるかぎりますます繁昌するだろうと言って今は官吏軍人の堕落を怪しむ者もなくなったようだ。世の中は星に錨に闇と顔馬鹿な人達立って行列とかいう落首を口にする者さえいないようになった。

10月5日、(新橋で)警戒報知の笛が鳴り響くのを聞き街に出ると、行く人は走りさわぎ争って電車に乗る。・・飯田橋行きの電車に乗り溜池で乗りかえようとする時警戒解除の報があった。先刻の警報は誤報であると警防団の男が街頭を呼び歩いていた。周章狼狽のさまはひどく滑稽だ。国民が敵国飛行機を恐れるさまは察するにあまりある。

10月6日、午後三菱銀行に行く。今まで受付に取り付けてあった金属製の格子のようなものがことごとく取り除かれ、また支払い収納など和英両国の文字で窓口に掲げた札も取り換えられ和字だけとなった。行員も大半変わって顔なじみの人は一人もいない。若い女事務員がにわかに多くなった。先月発布された新令がすぐに実施されたものと見える。三ノ輪行きの電車に乗り合羽橋から浅草公園に行きオペラ館楽屋で休む。ここのみはいつ来て見ても依然として別天地である。踊り子ニ三人とともにハトヤ茶店に行き一茶してのち仲見世を歩き請われるままにリボン化粧品などを買ってやった。わたしの老いの想いを慰めるところは今は東京市中この浅草があるのみ。

観音堂に賽銭をあげると四方の階段下に据え置かれた大きな鉄の水盤その半ばは取り去られていた。仁王門内に立った唐金の燈台も今はない。

10月9日、昨日午後庭を掃いていると鉄道駅夫のような制服の男ともう一人は安背広を着た男がそれぞれ折り鞄を引っ提げ入ってきた様子、思うにこのごろ人々が噂する国民貯金の強制勧告と見たので留守番であると称して体よく掛け合いを避けた。この貯金は所得税1万円に達する者から大略1000円二ケ年据え置きにさせるのだという。二年過ぎにはまた名目をつけて結局政府が取り上げるものだろう。このようにして中産階級の恒産は次第に略奪されるのである。銀行預金の引き出しも遠からず制限されるであろう。わたしは憂慮をそのままに出来ずこの日は小雨が降っていたが朝のうち三菱銀行に行き預金の中から1万2000円を引き出し家に隠し置くことにした。

・・朝鮮海峡また津軽海峡で日本の運送船が撃沈されたという。米穀がいよいよ不足という。

10月11日、向島玉の井を歩く。数年前から知る家が二三軒あるが立ち寄る興味も今はないので広小路の夜店をひやかし手帳を一二冊買い東武電車で浅草に行く。夜は十時ころだが街頭には灯火なく通行の人影も絶えがちで寂寥たること深夜のようだ。

10月12日、数日前から台所で正午南京米を煮るあいだフランス訳の聖書を読むことにした。米が煮え始めてからよく蒸せるまでに四五頁を読める。わたしは老後基督教を信じようとするものではない。信じようとしてもおそらく不可能だろう。しかし去年来わたしは軍人政府の圧迫がいよいよひどくなるにつけ精神上の苦悩に堪えない。ついに何かの慰安の道を求めないわけにはいかなくなった。耶蘇教は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものである。この教えは兵を用いずに欧州全土の民を信服させた。現代日本人が支那大陸および南洋諸島を侵略したのとはまったく趣が異なるのである。聖書が教えるところが果たしてよくわたしの苦悩を慰めうるか否か。他日に待とう。

10月14日、(従弟の)五叟が来て話す。その年齢満四十歳に達するにはなお二年ほどあるという。去年の徴兵検査の際には第二乙種とやらで免役となったが今度の動員令によれば改めて身体検査を受けねばならず、そのため区役所におもむいた帰りだという。満四十才はやがて五十才になるだろうし戦敗の兆しがようやく顕著になった。

10月16日、食料の欠乏が日増しにひどくなる。今日隣組から届けられた野菜は胡瓜がわずかに三本である。これで今日明日二日間の惣菜とするのである。青物の配給一人分三十匁で二日おきである。子供のある家では母親は米飯を子供に与えるために自分は南瓜をゆで塩をつけて飢えをしのぐことが多いという。満足に米飯を食べる家はまれだという。

10月18日、午後二時渋谷駒場の宅氏(孝二)の邸でわたしが作った歌詞に節を付けて聴く約束だった。歌詞は数年前永井智子のために作ったもので冬の窓および船の上と題した二編である。・・主人宅氏は多年巴里にあり知名のピアニストである。菅原明朗永井智子はすでに居た。わたしが作った詞章は二編とも菅原氏の作曲になる。宅氏がピアノを奏し智子がまず冬の窓を歌う。全曲約ニ十分を要する。つぎに船の上を歌う。一同はばかるところなく批評する。宅氏夫人が珈琲サンドイッチ梨林檎をご馳走してくれる、主人が得意の曲二三種を弾奏する。秋の日は早くも暮れて庭面は暗くなった。夫人はさらに饂飩羊羹紅茶をご馳走してくれる。一座の談話は縷々として尽きない。夜はたちまち更けそめた。十一時になんなんとするころ主人に送られて一同停車場に至る。この一日は長いわたしの芸術的生涯においてもっとも忘れがたい紀念となるものであろう。

10月20日隣組からまたまた米の代わりだといって煎餅に似たビスケット二袋を送ってきた。・・金兵衛で食事する。国民服を着た半白の商人官吏風の客が多く出入りし一杯金3円のウィスキーを幾杯もかたむけ闇取引の相談しきりである。

10月23日、昨今は家に惣菜にすべきものがないので海苔と味噌とを副食物にして米飯で飢えをしのぶ。これについてひそかに思うのは人間の事業のうち学問芸術の研究が至難であるのに比して戦争といい専制政治というものほど容易なものはない。治下の人民を威嚇して奴隷牛馬のようにすればそれで事足りるのである。ナポレオンの事業とワグネルの楽劇とを比較すれば思い半ばに過ぎるものがあるだろう。

10月25日、ガス会社の男が来て警察署から民家のガス風呂がいよいよ禁止の令があったと告げる。

10月26日、街談録

このたび突然実施された徴用令のことにつき、その犠牲となった人々の悲惨なはなしは、まったく地獄同様で聞くにたえないものである。大学を卒業した後銀行会社に入り年も四十近くなって地位も少し進んで一部の長となり、家には中学に通う児女もあり、しかし突然徴用令で軍需工場の職工になり下がり石炭鉄片などの運搬の手伝いに追い使われ、苦役に堪えられず病死するもの、また負傷して廃人になったものが少なくない。幸いにして命つつがなく労働しても、その給料はむかしの俸給の四分の一くらいなので中流家庭の生活をすることができず、妻子もにわかに職工並みの生活をするしかない。このためほとんどその処置に窮し涙に日を送っているという。徴集されたものは初め三か月練習中は日給2円。その後一人前になっても最高120-130円どまりという。このたびの戦争は奴隷制度を復活させるに至ったのである。軍人らはこれをもって大東亜共栄圏の美挙だとするのである。

大森あたりにあるアパートニ三か所がこのほど突然軍部に買い上げられ、兵器製造職工の宿舎となるという。従来ここに居住していた者は本年内に立ち退きの命令を受けたが東京市の内外には住宅もアパートの空室も皆無なのでどこにも行き先が見当たらず困難の最中だという。

10月27日、(森鴎外の墓参りで井の頭線で吉祥寺さらに三鷹に行く。高井戸のあたりから田園風景だった。)

 

11月2日、夜烏森の混堂(銭湯)で入浴。

11月3日、隣組の人が薩摩芋三本10銭を送ってくる。これが明後日まで三日間の惣菜である。憫むべし憫むべし。谷崎氏は熱海を去りふたたび関西に家を移すという。

11月4日、米作で夕飯を食べようとすると一人のお客はおことわりだという。

11月7日、小堀杏奴来書。兵火の起こったときは遠慮なく避難に来てくださいという。すぐに返事を書いて好意を感謝する。阿部雪子が来て話す。

11月9日、夕方表通りの洗濯屋に物をもっていき電車通りの銭湯で入浴する。思い返せば震災の時ガス水道ともに用をなさなかったのでその時避難してきたお栄という二十四五の娘とともにしばしばこの風呂屋に行ったことがあった。その時にはわたしも四十を半ば越しただけで女色の楽しみもまだ失せていなかった。

11月10日、ニ三人の踊り子とともに観音堂に詣でて仲見世を歩く。むら雲は月をおおい雨がはらはらとそそぎ来る。踊り子は驚いて楽屋にわたしは地下鉄に入る。・・帰宅後灯下に手紙を書いて菅原君に送る。音楽映画構成の腹案ができたためである。

11月11日、夕方小堀四郎氏が来て魚肉シャンピニオン牛酪蕪などを贈られる。またその居邸付近の地図を見せ罹災のときわたしが逃げ行くべき道筋を教えられる。

11月12日、佐藤春夫は右翼壮士のような服装をして人の集まるところに出てきて皇道文学とやらを宣伝するという。

11月14日、菅原永井両氏が来て話す。音楽映画構成のことについてである。食後灯下モーリス・ラヴェルの伝を読む。

11月15日、午後町の銭湯で入浴しひさしぶりに芝口の料理店金兵衛に行く。半官半商ともいうべき俗客が雑踏し家の主婦は腕によりをかけて暴利を貪るさまは物凄いともあさましいとも言える。

11月16日、城戸四郎氏にあて手紙を送って音楽映画撮影の見込みがあるか否かを問う。映画の名は左手の曲としたのである。(戦争で片腕となった音楽家が再起する話)

11月18日、映画左手の曲の台本も昨夜すでに浄書し終わった。

11月20日、病臥。阿部雪子来話。

11月22日、左手の曲の稿本を菅原氏に郵送する。

11月24日、阿部雪子が来て上野美術学校構内の事務所は火の気がなく寒さがたえがたいので正午の弁当時間から休みにしたといって餅と鶏卵とを贈って去った。

11月25日、門外は朝早くから防火演習で男女の声がやかましい。夜菅原明朗が拙作映画台本をたずさえて来て話す。またドビュッシーの詳伝を貸してもらう。

11月28日、(新橋で)電車停留場前の八百屋で西洋茸を売っているのをみたので買って帰る。百目金2円。

 

12月1日、(金兵衛で)顔なじみの客がわたしの短冊を50円で買ったという者がいるが真偽はどうだろうと携えた紙包みを開き一葉を示す。

12月2日、西銀座岡崎のおかみさんが歳暮のため海苔と百合とをもってきた。同時に五叟も訪ねて来た。五叟は伝手をもとめ名義だけある軍需工場の雇人になったが行く先はどうなるか分からないと言った。岡崎の語るところによれば西銀座一二丁目は盗難がひんぱんだ。洗い湯で衣類を盗まれることがことにひどいうという。

12月4日、街談録

一 ガス風呂が禁じられコークス薪などの配給もなくなったため銭湯の混雑がひどくまた板の間稼ぎも激増している。銭湯では午後四時から営業の札をかけ表口を開けるまえに内々ではお屋敷の奥様たちを裏口から入れるところが少なくない。闇湯の噂がしきりだという。銭湯の闇値段は山の手では30銭だという。

一 徴用令で職工にされる者はこれまでは四十才かぎりだったが昨今四十五才になったという。やがて五十才になるだろうという。

12月6日、ベルリンの市街がまた英国空軍に襲撃されたという。

12月7日、嶋中氏から鶯谷の酒楼に招かれたので四時過ぎに家を出る。・・谷崎ら主客はみなすでに居た。中央公論は雑誌統制のため本年かぎり廃刊するとの噂があったがそんな事はないと嶋中氏の談である。先ごろ内閣転覆の陰謀をした中野党(正剛)の者は文士菊池寛も暗殺人名中に加えておいたとの噂があったという。滑稽というべし。(菊池は2.26時も暗殺リストに名があったので家にこもっていたという。)

12月13日、銭湯の帰りがけ谷町通りの薬屋で偶然和製白葡萄酒を得た。金4円50銭。

12月14日、踊り子山井晴代という女が小説を書きましたから直してくださいといって草稿を見せる。(その小説踊り子の一節を引用。メイクのさまが細かく描写されている。)

12月15日、(樺太の愛読者が塩鮭二尾牛酪二斤を送ってくる。)

12月17日、(知人が)左手の曲を大谷竹次郎氏が一読したいというので試しに送って見給えと言う。

12月18日、夜菅原氏が来て金秉旭という朝鮮青年の詩稿を見せてその序を請われる。(序文草案。大学を出て故国伝説の調査をしている。)・・措辞用語のなお洗練されていないところはあるが一読してすぐにその情緒が純真で著しく音楽的であることを感じた。またすぐに一種言うべからざる悲愁憂悶寂寥の気味の凄然として人を動かす力があることを感じた。金氏の幻想にはわたしの見るところ広野を望む北方の哀愁に富んでいるが、人を酔わす南方の魅力はやや少ないように思われる。・・

(金秉旭については金洙暎の巨大な根という詩に「八・一五後に金秉旭という詩人は両足を後ろへ折り曲げ きまって日本女性のように坐って弁論に耽っていたが 彼は日本の大学に通いながら 四年間も製鉄会社で労働した強者だ」と描かれている。)

12月20日日本橋白木屋前赤木屋に行き先月買わされた債券400円を売る。

12月22日、小堀四郎氏が来て野菜を贈られる。世田谷の庭で自ら作られたものだという。今年まだ四十三なので職工にさせられないかと心配しているという。

・・世間の噂を聞くといくら職工を増加しても資材が欠乏しているためどこの軍需工場でも夜間勤務をしない。仕事は平時とおなじく昼間だけである。この様子でいけば来年六月までには戦争はいやでも応でも終局を告げるにいたるだろう。もしまたそれより長くなる時は経済的に自滅するだろうと。

12月26日、銀座を歩く。夜店がところどころに出て物を買う人がまったくないわけではない。梅の鉢物をひやかす人もあり。・・帰りの電車は乗客が少ない。

12月27日、午後三菱銀行に行ったが行員の大半が女子となり事務がはかどらずただ混雑するばかりである。(国債を売った金を預金しようとしたのだろう)

12月28日、市内の掘割にかかった橋の欄干で鉄製のものはことごとく取り去られその跡に縄を引いている。大川筋の橋はどうするのだろう。夜中はいよいよ歩けない都となった。オペラ館に立ち寄って見ると洋楽入り洋装和装混交の忠臣蔵を演じていた。平舞台で死神が洋風ダンスをして二重の上で判官が切腹するというようなものだ。(アチャラカというものだろう)煙草は昨日からまたまた値上げ。50銭のものが75銭となった。

12月30日、一昨日隣組から押し売りされた債券400円を転売しようと三時過ぎまた日本橋赤木屋に行き、それから浅草に行く。

東武電車が案外混雑していないので玉の井に行く。六丁目角の薬屋で買い物しようとすると主人が召集されたとのことでごたごたの最中だった。娼家の戸口には一軒ごとに正月一ニ三日正午から営業と貼り紙していた。ちょうど五時になったと見え洋服草履履きの男がちりんちりんと鐘を鳴らしていた。数年来なじみの家に立ち寄ってみたが今は老衰の身でなすべきこともない。閨中非凡の技巧をもつ者に逢わないかぎり為さんと欲するところいよいよ為すあたわざる年齢に達したようだ。・・漁色の楽しみが消滅するときたいていの人は謹厳となり道義を口にするに至りやすいものである。わたしは強いてそうならないように願うのである。

・・俳諧雑誌不易は印刷並び出版物統制の難にあい来年二月かぎり廃刊するという。

12月31日、今秋国民兵召集以来軍人専制政治の弊害がいよいよ社会の各方面に波及するにいたった。親は四十四五才で祖先伝来の家業を失って職工になり、その子は十六七才から学業を捨て職工になってから兵卒となって戦地で死に、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人みな重税の負担にたえない。今は勝敗を問わずただ一日も早く戦争の終了を待つのみである。しかしわたしがひそかに思うには戦争が終局を告げるにいたる時は政治は今よりなおひどく横暴残忍となるだろう。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似ている。国内の文学芸術の撲滅をしたあとは必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取り上げをしないでは止まないだろう。かくして日本の国家は滅亡するだろう。

疎開という新語が流行する。民家取り払いのことである。