荷風マイナス・ゼロ (79)

浅草オペラ館演目 (東京都立博物館)

 

昭和19年(1944)

 

1月1日、曇って暗く正月元日は秋の夕暮れのようだ。小鳥も鳴かず犬の声もせず門巷は寂寥として昼もまた夜のごとし。

・・このニ三年食物の事で忘れがたい人々の名を左に記す。

一 凌霜草廬主人(相磯)時々ハム鶏肉萩の餅ジャムなどをいただく。

一 兎屋怗寂子(谷口)いつも砂糖菓子炭をいただく。

一 西銀座おかざき 毎年盆暮れの贈物。

一 小堀杏奴 邸内の野菜を贈られる。

一 杵屋五叟 味噌醤油などおりおり足りなくなる時もらいに行くところ。

一 隣組渡部さん 毎日野菜の配給物をもってきてくれる人である。

一 熱海大洋ホテル主人(木戸)洋酒バター珈琲など進物数えがたし。

このほか遠隔の地から思いがけずに土地の名産を送ってくれる人が非常に多い。

1月2日、年賀状とともに時勢を痛論する手紙がひんぱんに来る。みな未見の士が寄せるものである。これを総括して大意を記録すれば左のごとし

現政府の方針は依然として一定せず何をもって国是とするのかはなはだ不明である。しかしこの度文学雑誌を一括してこの発行を禁止したことから推察すれば学術文芸を無用の長物とするようだ。文学を無用とするのは思想の転変を防止し文化の進歩を阻害するものである。現代の日本を欧州中世の暗黒時代にもどそうとするのに異ならない。このような愚挙暴挙がはたして成功するか否か。もし成功すれば国家の衰亡に帰着するだけである。このような愚挙を断行する国が単に武力のみで支那印度南洋の他民族を治めることができるだろうか。現政府の命脈は長くないだろう。うんぬん。

1月7日、午後オペラ館に行って見ると河合澄子が三番叟を踊っているところだった。元日から満員で毎日大入り袋1円50銭だと踊り子のはなしである。公園内外の喫茶店飲食店は大半閉店。天ぷら屋がところどころ店を開けている。群衆が寒風にさらされながら午後五時営業時間の来るのを待つさまは哀れである。この日は七草のためか行きも帰りも地下鉄が雑踏してほとんど乗れない。

1月8日、台所流しの水が凍って溶けない。炊事がひどく苦痛である。これみな軍人専制政治のなすところ。憎むべきなり。

1月10日、晴れてやや暖かいので物を買おうと午後銀座を歩く。新橋の青物屋でおりよくシャンピニオンを得た。亀屋でスッポン肉汁を買う時偶然旧南鍋町の汁粉屋梅林のおかみさんに逢う。・・今は廃業したという。銀座界隈は何業によらず閉店するものが日を追って多くなった。興亜共栄などという事はこのような荒廃のさまを言うものであろう。

1月15日、夜オペラ館に行く。踊り子の多くが去って七八人となった。

1月18日、日も暮れ近いころ電話がかかって十年前三番町で幾代という待合茶屋を出させたお歌が訪ねてきた。その後ふたたび芸妓になり柳橋に出ているといって夜も八時過ぎまで何やかや話は尽きなかった。お歌は中州の茶屋弥生のやっかいになっていた阿部定という女と心やすくなって今でも行き来するという。現在は谷中初音町のアパートで年下の男と同棲しているという。どこか足りないところのある女だという。お歌はわたしと別れたあともわたしの家に訪ね来たことは今日が初めてではない。三四年前赤坂氷川町あたりに知る人があって訪ねた帰りだと言って来たことがある。思い出せば昭和二年の秋だった。一円本全集で意外の金を得たことがあってその一部を割いて茶屋を出させてやったのである。お歌はいまだにその時のことを忘れないのだろう。その心のなかは知らないが老後戦乱の世に遭遇し旧廬に呻吟する時むかしの人が訪ねてくるのに逢うのは涙ぐまれるほど嬉しいものである。この次はいつまた相逢って語らうことができるだろうか。もし空襲が来たらたがいにその行方を知らないことになるだろう。そうでなくてもわたしは何時までここにこうして余命を貪ることが出来るのか。今日の会合が最後の会合になるかは知ることが出来ない。これを思う時の心のさびしさとはかなさ。これが人生の真の味であろう。 松過ぎて思はぬ人に逢ふ夜かな

1月21日、(金兵衛のおかみさんが市村羽左衛門の異母妹である話)

1月25日、街談録

先日聞いたある人の所説を記す。

現代日本のミリタリズムは秦の始皇帝杭儒焚書の政治に比べられる。ナポレオンの尚武主義とは同一でなく徳川家康幕府の政策ともけして同様ではない。前者は基督教国の軍国政治である。後者は儒仏二教の上に築かれた軍国主義である。この点から考察すれば現代日本の軍人政治の何たるかはおのずから明白であろう。(現代の儒教軽視への批判は荷風の所論)

1月26日、(知人から明治文人の原稿を見せられ)わたしはこれらの文献を見るにつけ空襲の事に思いが及び戦慄しないでいられない。返すがえす猪武者らの我武者羅政治を憎まないわけにいかない。

 

2月4日、夜杵屋五叟来る。八日から職工となり鮫洲の某工場に通勤するという。

2月8日、町会からの押し売り債券140円を日本橋仲買赤木屋で現金に替える。105円となった。

2月10日、夕食のさい人からもらった枯魚を焼く。臭気をがまんできない。食後伽羅を焚く。

2月11日、灯下小説踊子を脱稿する。・・数年来浅草公園六区を背景として一編を書こうと思っていた宿望を、今夜はじめて遂げることができた。欣喜擱くべからず。

2月12日、清潭子(川尻)から去年執筆した音楽映画左手の曲を返送してきた。その筋の検閲を受け不許可になったという。

2月13日、阿部雪子に鶏卵玉葱を贈られた。

2月15日、国際劇場裏のとある洋髪屋の戸口に無電気パーマいたします炭をお持ちくださいと貼り紙が出ていた。

2月23日、午後菅原氏音楽会四月開催の事につき来談。

2月26日、午後林龍作、小堀四郎、菅原明朗が来て話す。音楽会は五月初旬に開催しようという。

2月28日、(戸塚町にフランス本が多くあると聞いて出かける)フロベール全集皮綴りがあった。600円であると。ゾラ、カーライル仏訳本を買う。蔵書印に大学過眼とあった。堀口大学荷風教え子)の蔵書だったのだろう。

2月29日、明日より割烹店待合茶屋営業禁止。歌舞伎座その他大劇場の興行随時禁止の命令下るという。浅草六区でもゆくゆくは興行場が減少して三四か所になるだろうとの噂がしきりである。芸者はまだ禁止の令はないが出場所がないからこれはおのずから転業するであろう。芝居と芸者がなくなれば三味線を主とする江戸音楽はいよいよ滅亡するわけである。

 

3月3日、丸の内三菱銀行で偶然瓜生氏に逢う、先ごろまでイタリア大使館通訳事務に従事していたが今は辞めている。同国大使その他の館員は田園調布の某所に幽閉されているという。・・帰途電車で築地を過ぎるとき東京劇場歌舞伎座ともに閉場休業の掲示をしていた。市中いたるところ通行人は多くなく寂寥として夜のようである。

浅草公園興行物活動写真は平日のように開場しているという。

3月4日、正午谷崎君が訪問する。その娘は結婚して渋谷に住んでいるが空襲の危難があるので熱海の寓居に連れて行こうとする途中だという。わたしは昨冬に上野鶯谷の酒楼で会った時わたしの全集と遺稿の始末につき同氏に依頼したことがあった。この事につき種々細目にわたって聞かれるところがあった。世の人はこの三月になってから空襲が近いと言って急に騒ぎ出した。(谷崎の日記では偏奇館は荒れ果ててお化け屋敷のようだったと記している。独居のせいでもあり職人の手が入らなくなったためでもある。)

3月8日、某生の来書にいわく。三月下旬にはかならず空襲があるといって軍人らがもっとも狼狽しているといいます。これは華族にもなれず恩賞金にも最初予想したようにはありつけないのでいまさら負け戦になったといっても総理の椅子を捨てて逃げ隠れするわけにもいかないためで滑稽笑止のいたりでございます。軍人らは初めは帝都には敵機の影ひとつでも見せるようなことはしないと豪語し、いずれワシントンで条約会議を開くつもりだなどと申し、人民の金を取り上げむだ遣いしていたところ、いよいよこの始末になり実によい気味でこのニ三日は胸がすくような心持です。自分の身が空襲で危ないなどということを顧みる暇もありません。アメリカの飛行機は日本人民に100円紙幣とルーズベルトの著した世界平和会社設立書をまきちらすと宣伝するものもあります。とにかく世の中は少し面白くなりました。

3月9日、(隣家の植木屋に)門内のプラタナス二株を伐らせた。毎年刈込に来るはずの職人もいなくなったからである。

3月14日、午後五叟来話。五叟の次男をわたしの家の相続者とする相談である。これでいよいよ西大久保に住む威三郎(弟)の家とはわたしの死後にいたるまで関係ないこととなるであろう。この日やや気分よし。(6日から風邪をひいていた)

3月15日、風邪はおおかた癒えた。

3月16日、浅草公園に行く。荷物を背に負い手に提げた男女の乗客でどこの電車もほとんど乗ることができない。玉の井に行こうと思ったが東武電車の雑踏はことにひどい。

3月18日、浅草に行き観音堂のおみくじを引くと吉だった。わたしは空襲の際に蔵書と草稿の安否が心にかかっていたので運命の如何を占いたいと思ったのである。今日わたしは長寿を喜ばないが蔵書と草稿とは友人諸子に分けて贈りたいと思っているのである。・・街頭に出ると天候が一変して雪吹雪となった。彼岸の入りに雪を見るのもまた乱世のためであろう。町ノ角々ニ疎開勧告ノ触書出ヅ。

3月21日、数日来野菜が品切れとなり配給米には玉蜀黍の粉末を混ぜている。もそもそとして口にしがたいものである。

3月24日、午後日本橋四辻赤木屋で債券を売り、地下鉄で浅草に行きオペラ館楽屋を訪ねる。公園六区の興行場も十か所ほど取り払いとなると聞いたからである。オペラ館楽屋頭取長澤某のはなしをきくと、今月三十一日でいよいよ解散します。役者の大半は静岡の劇場へやる手筈ですとの事だ。二階の踊り子楽屋に入って見ると踊り子たちはそれほど驚き悲しむ様子もなくいつものように雑談していた。およそこの度の開戦以来現代民衆の心情ほど理解しがたいものはない。多年従事した職業を奪われて職工に徴集されてもさして悲しまず、空襲が近いといわれてもまた驚き騒がず、何事が起きてもただそのなりゆきにまかせて少しの感激も催すことはない。彼らはただ電車の乗り降りに必死となって先を争うだけである。これは現代一般の世情であろうしまったく不可解の状態である。

3月27日、玉の井に行く。京成鉄道線路跡の空き地に野菜の芽が青く萌え出ていた。とある空き屋敷の庭に蕗が多く生えていたので惣菜にしようと思って摘んだ。食物のない時節柄とはいえあさましくもあわれである。色里の路地に入ると事務所の男が家ごとに今日はモンペで願いますと触れ歩いていた。防空演習があるのだろう。旧道に出て白髭橋の方に歩く。電球屋で電球ひとつ懐中電灯を買う。また下駄屋で下駄を買う。これらのものはわが家の近くではみな品切れであるのにこの陋巷では買い手があれば惜しげなく売るのである。この日の散策が大いに獲るところがあったのを喜びつつ来た路をバスで言問橋に出る。南千住から来る市内電車を見ると夕方五時過ぎであっても乗客はそれほど雑踏していない。これに反して東武構内の地下鉄乗り場には人々が長蛇の列をつくっていた。

3月31日、昨日小川(丈夫)が来て、オペラ館が取り払いになり明日が最後の興行なのでぜひ来てくださいと言って帰ったので五時過ぎ夕食をすませ地下鉄で田原町から黄昏の光をたよりに歩みを運ぶ。二階踊り子の大部屋に入ると女たちの鏡台はすでに一つ残らず取り片づけられ、母親らしい老婆ニ三人が来て風呂敷包み手道具雨傘などを持ち去るのもいる。八時過ぎ最終の幕レヴューの演奏が終わり観客が立ち去るのを待ち、館主田代旋太郎は一座の男女を舞台に集め告別の辞を述べ楽屋頭取長澤が一座に代わって答辞を述べるうち感極まって声をあげて泣き出した。これにさそわれ男女の芸人四五十人が一斉にすすり泣いた。踊り子のなかには部屋にかえって帰り支度をしながらなおしくしくと泣くものもいた。おのおのその住所番地を紙に書いて取り交わし別れを惜しむさまは、数日前新聞に取り払いの記事が出てわたしがひそかに様子を見に来たときとはまったくちがっていた。わたしも思わずもらい泣きをしたほどである。回顧すればわたしが初めてこの楽屋に入りこみ踊り子が裸になって衣装を着替えるさまを見てよろこんだのは昭和十二年の暮れだから早くも七年の歳月を経た。オペラ館は浅草興行物のうち真に浅草らしい遊蕩無頼の情趣を残した最後の別天地なのでそれが取り払われるとともにこの懐かしい情味も再び味わうことが出来ないのである。わたしは六十になったとき偶然この別天地を発見しあるときはほとんど毎日来て遊んだがそれも今は還らぬ夢となった。一人悄然として楽屋を出ると風の冷たい空に半輪の月が浮かんで路は暗くない。地下鉄に乗って帰ろうとしてすでに店を閉めた仲見世を歩くうち涙がおのずから湧き出して襟を濡らし首はまたおのずから六区の方に向かうのである。わたしは去年ごろまでは東京市中の荒廃していくさまを目撃してもそれほど深く心を痛めることもなかったが今年になって突然歌舞伎座が閉鎖されたころから何事に対してもひどく感傷的となり、都会情調の消滅を見るとともにこの身もまた早く死ぬ事を願うような心となったのである。オペラ館楽屋の人々はあるいは無智朴訥。あるいは淫蕩無頼で世に無用の徒輩であるが、現代社会の表面に立つ人のように狡猾強欲傲慢ではない。深く交われば真に愛すべきところがあった。だからわたしは時事に憤慨する折々は必ずこの楽屋を訪ね彼らとともに飲食雑談してはかない慰安を求めるのを常とした。それなのに今やわたしの晩年最終の慰安処はついに取り払われて烏有に帰した。悲しまずにいようともいられようか。