荷風マイナス・ゼロ (80)

1809年 亜欧堂田善画 浅草

昭和19年(1944)

 

4月1日、阿部ゆきから鶏卵を贈られる。郵便切手5銭のところ7銭、葉書3銭となる。

4月2日、今年の春は風寒く花もなお開かず鶯も庭に来てさえずったことが一度もない。去年までは三月なかばごろから四月に至ると鶯は終日庭に来て啼きあるときは早朝人のねむりをさますこともあったのである。鳥類も軍人の横暴を恐れるようになったのであろう。

4月3日、オペラ館館主田代旋太郎に紀念として旧著面影を贈ろうとして郵便局に行ったが休みだった。

4月4日、郵便局に四月十日まで小包郵便取り扱い中止の掲示があった。午後大野村上、二人とも外務省の人、来話。仏領インドシナに行くという。船は危険なので飛行機で行くと語った。

4月5日、後庭に野菜の種をまく。

4月6日、午後浅草公園を歩く。オペラ館戸口には政府の御命令により三月三十一日限り謹んで休業仕り候の貼り紙を出していた。萬盛座はそのうち公園内で代地を賜るまで一時休業というような掲示をしている。昭和座三友館はただ戸を閉ざしたのみ。観音堂の境内をすぎると団十郎像は今もなおあった。言問橋の大衆食堂には人々が行列をして五時過ぎの開店を待つ。

4月10日、食料品の欠乏が日を追ってひどくなるにつれ軍人に対する反感がようやく激しくなっていくようだ。市中いたるところ疎開空襲必至の張り札を見る。一昨年四月敵機襲来のあと市外へ転居するものを見れば卑怯といい非国民などと罵っていたのに十八年冬ごろから急に疎開の語をつくり出し民家離散取り払いを迫る。朝令暮改笑うべきである。また本年三月より芸者中止の命令があったのに一か月を出ずに警察署では芸妓が酒席に招かれるのを禁じ小待合で客の枕席にはべることを公然認可するにいたったという。事の是非はしばらくおいて論じないが政策の愚劣野卑であることはほとんど口にしがたい。軍人らの施政でこの類でないものはない。

4月11日、毎朝七八時ころ飛行機の音が春眠を妨げる。その音は鍋の底の焦げついたのをがりがりと引っ掻くようでいかにも機械が安物であることを思わせる。それはともかく毎朝東京の空を飛行して何をするのだろう。東京を防ぐにはその周囲数里の外に備えるところがなければならない。いたずらに騒音を市民の頭上に浴びせかけて得意満々とする軍人の愚劣はまた大いに笑うべきである。

・・銀座街頭の柳は花が開く前に早くも青くなった。電車は雑踏しない。街頭を行く人はだんだん稀になった。

食物闇値左のごとし

一 白米一升 金10円也

一 酢一合  金1円也

一 食パン一斤 金2円40銭也

一 鶏肉一羽 金25円也

一 鶏卵一個 金70銭也

一 砂糖一貫目 金120円也

一 するめ一枚 1円也

一 沢庵一本 5円也

一 醤油一升 金10円也

一 バタ一斤 金20円也

4月13日、NRF(新フランス評論)の古雑誌を読む。

4月15日、午後林小堀菅原の三氏が来て会う。五月中開催する予定の合奏会のことについてである。小堀氏からほうれん草をもらう。近ごろ八百屋に青物がない。仙薬を得たような思いがある。

4月16日、(芝増上寺に行く)廟の中門外に立ち並んだ唐金の燈籠はおおかた取り除かれて石の台のみを残している。今ごろはどこかの工場で鋳潰されているだろう。しかし廟の外に立った後藤象二郎銅像は依然としてつつがないのを見る。軍人政府の政策がつねに公平でないことは実にかくの如しである。徳川氏の霊廟は上野芝ともに維新のさい焼き払われるはずだったが英国公使パークスの忠告があったため灰燼になることをまぬがれたという事は欧州人の日本旅行記中にしばしば見るところである。そうであれば今日わたしが来て観ることができるのは結局英国人の恩恵にほかならない。わたしが前代の建築物を見て文化的芸術的感激を催すこともこれまた西洋趣味の致すところに過ぎない。東洋式豪傑らの知らないところである。江戸時代の遺跡が東京から湮滅する時期も遠くないことだろう。

4月17日、東武電車浅草から大師前の間は朝夕二時間は職工のほか良民の乗車を許さないという。また市中省線電車沿線の民家は六月から取り払いになるので突然立ち退きの命令が出たという。

4月21日、六区の興行街を過ぎるとき金龍館楽屋三階の窓から先生先生と呼ぶものがいる。仰ぎ見ると三月中オペラ館にいた踊り子三人である。入ってその部屋に行く。三人とも踊り子をやめ女優になったが芝居は陰気臭く台詞を暗記するのが面倒だが今月から浅草の劇場はどこも演劇ばかりとなりレビュウの踊りは今後も許可される見込みがないので仕方なく芝居の舞台に出ていると語った。日米戦争は一方にジャズ舞踊一方に江戸歌舞伎を撲滅するに至ったのである。金龍館横町から仲見世にいたる繁華な通りも店を閉ざすところが多くなった。飲食店中西森永支那料理屋一二軒はみな閉店した。

4月29日、終日NRFの古雑誌を読む。

4月30日、(赤坂税務署からの帰途)途中花屋の窓に西洋草花が多く並べてあるのを見て一鉢買って帰る。

 

5月2日、銀座を歩く。昨日の繁華は跡をもとどめずただ夏柳の風にそよぐのみ。

5月3日、町会配給所に今月は味噌も砂糖もないといって近所のかみさんたちが門外で大声に語り合っていた。今宵は月の光があるので東中野のアパートに菅原君を訪ねようと夕方に家を出た。途中で夜となった。東中野駅外に人力車があった。これに乗って行く。茹で小豆をご馳走になったあと隣室に住む山田某氏の夫人を訪ねる。若いパリの婦人で日本語が巧みである。この夫人の部屋にオルガンがあった。わたしが作詞した船の上、涙、口ずさみ三篇の節付きを聞く。山田夫人はサムソンとダリヤの一節を歌う。珈琲をご馳走になる。十一時まで歓談した。

5月6日、浅草から入谷を歩き蚊遣り粉を買う。紀州産除虫菊でつくった線香は今年も市中にはないという。五日より電車乗り換え切符を出さずに乗り換えるごとに10銭を払うことになる。

5月9日、薄暮江戸川端中之橋のほとりに住むピアニスト野辺地氏を訪ねる。林龍作氏がヴィオロンを携えてきて智子菅原二人の来るのを待ち冬の窓合奏の練習をする。十二日の夜ふたたび集まって練習をするはずである。

・・(神田川)河岸一帯の人家は来月中に取り払いになるという。六十六年前わたしが生まれた小石川の地もいよいよ時局の迫害をこうむるに至った。

5月12日、野辺地氏宅でふたたび冬の窓合奏練習をする。今宵はパリの婦人も菅原氏とともに来た。

5月15日、(日本橋で債券を現金に換える)浅草公園金龍館楽屋に入り三階の女優部屋で憩う。ニ三か月前戦地慰問演芸団に加わり南京から漢口までおもむいたという女優がいた。その地の状況を語った。漢口にはダンス場があって支那人男女の衣服が立派で日本から行った者などはきまりが悪くて踊れないほどである。揚子江の航路は重慶から飛んでくる飛行機のために危険きわまりない。南京はいつ暴動が起こるかも知れず枕を高くして寝る夜は少ない。物価は日本の10円が向こうの100円くらいである。珈琲店の珈琲は一杯12円である。その代わり珈琲も上等で砂糖もたくさん入れてある。慰問団の芸人は二か月間の給金が1500円で食料宿料は向こうもちだが現金は500円以上持っていくことは許されずそのため買いたいものも買ってくることができない。戦地の軍隊には日本の菓子羊羹饅頭缶詰の類があり余るほどある。饅頭などはまわりの皮を捨てて中の餡を少し食ってみるくらい。食物の浪費は驚くばかりである。陸上の旅行は馬またはトラックだけでとても不便である。うんぬん。

5月19日、ニ三日前警察署の役人らしいものがニ三人で早朝網をもってきて観音堂の鳩を数百羽捕らえリアカーに積んで持ち去った。この後もおりおり鳩狩りをしてあまり増えないようにするという。堂前で長年鳩にやる豆を売っていた老婆たちのなかには豆の闇相場が高騰し廃業するものもいるようになったという。日米戦争は本年に至って東京住民の追い払いとなり次に神社仏閣の鳩狩りとなる。この冬あたりには市民財産の没収となるであろう。

5月22日、午後浅草に行き観音堂の鳩を見ると話に聞いたようにその数は大いに減ったようである。豆を売る老婆の姿も見えず餌をまいてやる参詣人もいない。

5月27日、(近ごろ鼠がひどく荒れまわる。雀の子はいつも米粒を捨てるのを待っている。猫は姿を見ないようになった。)東亜共栄圏内に生息する鳥獣飢餓の惨状はまたあわれむべきである。燕よ。秋を待たずすみやかに帰れ。雁よ。秋来るとも今年は共栄圏内に来るなかれ。

5月30日、(天井を走り回っていた鼠が昨夜からひっそりしている)鼠群が突然家を去るのは天変地妖の来る予報だともいう。果たしてそうか。暴風も止む時が来れば止む。軍閥の威勢も衰えるときが来れば衰えるだろう。その時よ早く来い。家の鼠が去ったように。

 

6月1日、日本橋に出て白木屋で肌着など買おうとしたが女物が少しあるだけ。男物は一枚もない。

6月3日、(下痢して)玉蜀黍を混ぜた粗悪米のためであろう。鐘淵紡績会社鐘淵工業会社となり配当金が八分に減る。

6月9日、夜日暮里野辺地氏邸で演奏会。

6月10日、腹具合がよくならず疲労がひどい。読書執筆ともに興味がわかない。

6月12日、午後富豪篠崎氏三田一丁目邸宅の応接間を借り冬の窓演奏会を催す。この家の令嬢が洋琴家野辺地氏の門人だからである。聴衆十二三人みな菅原氏の知る人である。五時ごろ会終わる。菅原君とともに東中野のアパートに行き夕飯をご馳走になる。隣室のパリ婦人彫刻家某子金秉旭氏らと歓談する。この日演奏会席上で若いドイツ人某氏に紹介される。日本文学を研究しわたしの旧作すみだ川をドイツ語に翻訳したいと言った。(これまでもドイツ語出版の話はあったがドイツ嫌いで断っていた)

6月14日、浅草某生の来信に公園北寄りのところ元花屋敷のあたりはすでに取り払いになったという。

6月16日、米国空軍九州を襲う。

6月17日、夜菅原君およびその他の諸子と野辺地氏の家に会しショパンの曲を聴くつもりだったが警戒報があったため戸を閉ざし灯火を暗くしてただ雑談に夜をふかして帰る。

6月19日、昨夜よりまた警戒報が発せられる。

6月20日、旧オペラ館俳優某生の手紙に

四五日前玉の井を歩いてみました。賑本通りの桑原の横町でひさしぶりに流行歌をやっているものを見ました。暗くて顔はよくわかりませんが歌手は十七八くらいかと思う女。ヴァイオリンとバスマンドリンは男でした。ポツポツ雨の降って来るさびしい晩です。流行歌は公園はじめどこへ行ってももう聞かれないんです。突然この路地のなかで流行歌を聞いたその瞬間のなつかしい心持ち。私は泣きたいような心持になりました。いつになったら私達は舞台で歌を歌えるようになれるんでしょう。先生が舞台裏で女の子を相手に笑いながら私達の歌をきいて下すった時分の事が思い出されます。以下略

6月22日、税務署より十八年度所得金額通知書が来る。総所得金7220円也乙種所得240円也とあり。(乙種が文筆所得。配当利子が6980円ということか。この時期1円=1000円とすれば約700万円。)

6月26日、午後日本橋赤木屋に行き町会から押し売りの債券を売って現金に替えようとすると今月からそれが不可能になったといっていつも込みあう店頭に出入りする人もいない。金融停止の時期がいよいよ到来したもののようだ。100円紙幣通用禁止の時期も遠くないという風説もまんざら根もない流言ではないであろう。

6月29日、表通りの塀際に配給の炭俵が昨日から積み置かれているので夜明けの人通りがないころをうかがい盗み取ってのち眠りについた。

・・今年もはや半ばを過ぎようとしている。戦争はいつまで続くのだろうか。来るぞ来るぞという空襲もまだ来ない。国内人心の倦怠疲労は今まさにその極度に達したようだ。世人は勝敗に関せず戦争さえ終局を告げれば国民の生活はどうにか立ち直るように考えているようだがそれもその時になって見ねばわからぬことである。欧州第一次大戦後の日本人の生活が向上したのはこれを要するに極東における英米商工業の繁栄にもとづいたものだった。これは震災後東京市街復興の状況を回顧すれば自ら明らかであろう。しかし今日は世界の形勢がまったく一変した。欧州の天地に平和の回復する日が来ることがあっても極東の商工業がすぐに昨日の繁栄をもたらすか否か容易に断言できない。とにかく東京の繁華は昭和八九年をもって終局を告げたものと見るべきである。文芸の一方面について論ずれば四迷鴎外の出た時代は日本文化の最頂点に達した時でこれは再び帰り来ないものだろう。