ひさびさにちゃんとした日本映画を観たので、宣伝しないわけにはいかない。
年を経たことを自覚した女は合羽橋にいくのだ。昔は気づかなかった。あとからやっとわかることがある。
真鍮の鍋やお玉、食玩や包丁、エプロン、皿、それらはなんのためのものか。
それは大人のママゴト。無垢な子供の遊び場ではないし、血をたぎらせた少女が鼻を向ける先でもない。否応なく少しずつ後ろ向きに足元を換えつつある姿だ。
才あり道を志すものは結婚や妊娠などすべきでない。「小町の末やりて見たや」、野垂れ死にこそふさわしい。しかしこの映画の主人公は、自分が平凡であることを知っている。かつて共に絵を描いていた友人は、流れ流れてイタリアに行き子を孕んでいる。結局アパートから出られないと涙しつつ、母親になることを誇ってもいる。
強く賢い人間は孤独に耐えられるが、どんな美しい景色もひとりで眺めてはさびしく味がない。
「わが恋は細谷川の丸木橋、渡るにやこわし渡らねば」
突然泣き叫んだり、頭の中の自分と対話したりする。客観的には狂っている。その狂気には創造の出口がない。なぜなら平凡だから。
目の前に男があらわれる。何かが提供され何かが失われる。世の中にこれほど不利な取引はない。だが人間は何万年もそんなことをしてきたのだ。
「だれか私をくいとめて」、こんな切実な響きはない。
能年と橋本愛が出会うイタリアの風景は、ぜんぶ日本でまかなっている。バブルの遺産だ。