ムガルの制海権

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ムガルの版図:1561年、1605年、1687年

アクバルがイエズス会神父に接見(1580年)したのは元からの習合主義的な宗教姿勢と同時に、ポルトガルの実体を知りたかったからだろう。

1573年にグジャラートを制圧するまでは、ムガルは内陸国だった。アクバルはバーブルにならって、勝利の記念に首塚をきずいた。

ムガルが初めて船を浮かべたとき、インド沿海はポルトガルがすでに支配していた。ポルトガルの許可がなければ、商船もマッカへの巡礼船も航行することができなかった。いまの言葉でいえば制海権がなかったことになる。

 

スペイン国王フェリペ二世は1571年にレパントの海戦オスマン海軍を破り地中海の覇権をにぎり、1580年にはスペイン・ポルトガル連合王国が成立していた。

西のマラバール、東のコロマンデルの海岸はゴアを拠点としたポルトガル軍船に抑えられていた。

 

 

モンセラーテはアクバルの融和的姿勢に期待したが、結局は改宗する気などなかったと報告でののしっている。アクバルにとってはポルトガルとの通商の利益ことに武器の輸入と、内陸領土拡張のあいだでバランスをとることが重要だったのだろう。

 

ジャハーンギール時代でもグジャラートの貿易港とムガルのあいだには、ラージプート勢力が障害としてのこっていたためその征服が課題だった。スペイン・ポルトガルとの対抗上で英国東インド会社との関係がはじまっているが、権益をあたえることはなかった。

ポルトガルが1613年にムガル最大の巡礼船ラヒーミーRahimiを、700人の搭乗者ともども捕獲しゴアの港で炎上させる事件があった。この船はジャハーンギールの母ジョーダー・バーイーの持ち船だった。

これに対してはポルトガルの所有地だったダマーンDaman港の占領、スーラトでの禁輸、教会の閉鎖で応じたがそれ以上には報復拡大しなかった。

 

シャージャハーン時代にはベンガルポルトガルとの抗争があり、フーグリーの商業区を破壊しキリスト教徒を捕虜にし教会を破壊した。ムガルはみずからの強大さを過信していた。

 

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ムガルの描いたノアの箱舟

 

ラヒーミーは1500人乗りのムガル最大の船だった。古代からの製法である三角帆で舟板をロープでむすんだ縫合船、ダウ船であり修理や逆風でのかじ取りにすぐれていた。だが外洋航海や艦砲射撃には適さない商船だった。ムガルは海軍の創設より内陸の支配拡大を重視した。

農民からの搾取による資本蓄積が第一であり、海外貿易はポルトガルと手を組んだ南インド都市国家群の手にゆだねられていた。外交もサファヴィー朝イランとの戦争と和平を通じた通商路の獲得に重点があり、オスマンウズベクと同盟関係をつくろうとした。

 

実際、アクバルからの三代でムガルの歳入は数倍増し、世界でもっとも金持ちの国になった。その富をもとにアウラングゼーブはインド全土の支配を目標とした。

直接にはマラーター封じ込めのため南部の同盟国を叩く戦略だったが、問題はムガル自身から生まれていた。農業生産の拡大は土地所有者の小領主化を生み、それがマラーター同盟として敵対的にあらわれた。

 

アウラングゼーブは果てしない戦役で最大版図をえたが国庫を枯渇させ、南部攻略のためのデカン遷都で北インドでの求心力を失いムガル衰退滅亡を導くことになる。これほど下手な将棋指しも、なかなかいないだろう。

 

ポルトガル海軍力の優越は、たんに遠洋航海に適した造船技術にとどまるものではない。ヴァスコ・ダ・ガマはアラブの船乗りに航路を教わったが、このころには航海術や弾道学、その基礎となる数学で西欧はインドやイスラームをしのいでいった。海を支配するものが世界の覇権をにぎる時代になっていた。

微分積分学の先駆となったケーララ学派の存在にみられるようにインド数学は健在だったが、南インドの戦乱のなかで学統は断絶することになる。