やがて海へと届く

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いつも浜辺の洋装をネタにしてしまうのだが、まちがっていた。この青いワンピースは、とても似合ってすてきだった。

 

二十九なのに十九で通る岸井ゆきのと、二十でも三十に見える浜辺美波の共演には期待をもったし無理のないものだった。浜辺は「思い、思われ、ふり、ふられ」でお姉さん演技をしていて、そういうときは声の出しかたもちがう。そんな努力は必要のない映画だったが。

この作品では浜辺の姉ぶりと、岸井の幼さがうまくかみあっていた。

ふたりの共通点はなんだろうと考えると、アニメ顔かなとも思う。エルフのような岸井と幽霊顔の浜辺は、おそろいで異界の入り口にたっているようだ。

 

技術的には撮影や構図のとりかた、抑制のきいた演技のつけかたなどに監督の才能を感じた。出演者たちはみな好演で、よい印象が残った。

ではいい映画だったかというと、感銘はうすく何を見せられたのか記憶に残らない。なにを描きたかったのかよくわからない、というのが率直な感想だ。

 

これは興行のミスリードに一端の責任がある。事前に情報は入れないようにしているのだが、どうしても耳目に入ってしまうものはある。

 

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たとえばこのポスター。意味ありげでGL映画とのうわさが立つのも無理ないけれども、そんな話ではない。じっさいは岸井のもとに亡霊の浜辺がおとずれたところで、だからこんな不自然な構図になっている。ネタバレでもなんでもないから記しておく。よく見れば、浜辺は冒頭と同じ青のワンピースを着ている。

 

なにか秘密があってそれを岸井がたどっていくかのような紹介もあるが、そんな隠されたものもない。浜辺は震災の犠牲者で、それを受け入れられないが生活と時間にいやおうなく流されていく岸井の身辺と心象をえがいたのがこの作品だ。

 

原作の小説は作者の震災体験から生まれたもので、帯にも使われた「惨死を超える力をください。どうかどうか、それで人の魂は砕けないのだと信じさせてくれるものをください。」との一節にすべてが凝縮されている。死生を問う物語だともいえる。そこに迫らなければ映画化する意味がない。

 

おかしな売りかたをされるのは、監督に技術や才能はあっても想がないからだ。それがあらわになるのは終盤で、フェイク・ドキュメンタリーとか視点を変えた同じ場面のくりかえしとかアニメの使用とか今世紀よく使われた技法が効果をもたない。才気がむしろ物語の真実性をそこなっている。ことに浜辺が最後を迎える場面の描写はありえない。

 

浜辺は世が世なら細雪の雪子を演じているところだが、もうそんな時代ではなくなってしまった。

いまのところアニメ原作映画が主で、よくできた児童映画の約束のネバーランドと狂乱学芸会の賭ケグルイが代表作のままだ。岸井ゆきの東宝小公主などでないおかげで、なんでも演じられそうだ。