粘るアラブ、回るこぶし

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ワルダ

 

Natrang 中の apsara aali はアラビアンなのでないかと感じたのがマラーティー映画音楽を追っかけるきっかけとなったが、マラーティー映画そのものにはまったく他に例がないことは書いた。

それで、なぜこれはアラビアだと思ったのかを考えてみた。答えはアラブ音楽のように粘っていると感じたからだ。
以下、素人が天に唾するようなことを書いているので、眉に唾して読んでほしい。

アラブはねばるのか?そこが問題だ。あたった限りの言語ではアラブ音楽と粘りを関連づけたテキストはなかった。すると単に主観の問題にすぎなくなる。

 

アラブ歌謡と演歌はこぶしを用いる点でよく比較される。
メリスマ と呼ばれる万国共通の唱法で、一音の前後に装飾音をつけてそれをくりかえして単調さを回避する。そのかわり速度は犠牲になる。上下して同じ音にもどるからこぶしは「回る」。だが粘るとはいわない。

演歌とアラブ歌謡では音階が違うので同じ音楽とは言えない。演歌はヨナ抜き調で5音、単純化すれば西洋音階は7音、インドは12音、アラブは24音だ。
使える音が多ければいいものでもない。組み合わせで考えれば12や24では膨大な数になってしまい、曲を覚えるどころか創作することもできなくなってしまう。
働き人が仕事しながら口ずさんだり、歌を作るには5音で十分で、これも万国共通だ。
働かない人は楽器の前で12音や24音と格闘するが、それも限界があるからラーガやマカームのような縛りを作り、音のセットを決めてやっと作曲できる。縛りは抵抗を生み抜刀斎の鞘走りのように威力が増す。

 

アラブ音楽に感じる粘りの一例として、ワルダ وردة (Warda al jazairia)の Balash Tefarek をあげたい。長い曲の後半32分ころからが、インドなら tillana ともいうべき畳みかけるように盛り上がる部分だ。一曲40分と粘るが、客とのかけひきで前奏も10分以上粘ることがある。ライやアラブ・ポップが登場する以前のスタイルだ。

アラブ歌謡はハビービ(愛する人)と執拗に執拗にくりかえす。メロディーのくりかえしはインド音楽の特徴でもあるのだが、もっとあっさりしたものに思える。
アラビア語特有の喉音もふんだんに聴ける。これも粘りの印象の一因かもしれない。

 

楽理を知らないので初歩的に直観と類推にたよって強弁をかさねてみたい。
apsara aali は全体としてはトゥムリーThumriなのではないかと思う。たとえば、トゥムリー形式であるマードゥリーの kaahe chhed chhed mohe やラーヴァニーで紹介した kali khulwa na  と apsara aali とはメロディー展開がよく似ている。

kaahe chhed chhed mohe
レレ♭シ♭ララファ ラシ♭レ♭レレレ♭
これをサレガマパダニサで表すとRrnDDM DNrRRRrになる。

kali khulwa na
シシシファ♯ファミ ファ♯シ♭シ
で見た目にはあまり似ていないが、開始音を合わせると
レレレシ♭ラソ♭ソ ラレ♭レRRRNmMG mnN となり、同じラーガと思いたくなる。
kaahe chhed chhed mohe はラーガ・バサント・バハール 、つまりバサントとバハールを合わせたもので春のラーガだ。マードゥリーの歌の部分は、バサントだといわれる。クリシュナとラーダーのテーマにふさわしいので花街の歌によく使われる。だから kali khulwa na で使われてもおかしくない。

バサントの音階 
ドミファ♯ラ♭シド SaGamadhaNiSa
SGmdNS(昇)
ドシラ♭ソファ♯ミレ♭ド
SNdPmGrS (降)
ただしバサントだからといって同じようなメロディーになるものでもない。サスワティ・セン のトゥムリーとラージシュリーのダンス と  Malika Pukhraj のガザルが同じラーガだといわれてもよくわからない。

ラーガ・バハール はどう表記したらいいのか、サンプルは「トリック」の「毛が伸びる」を連想させる。

apsara aali の場合
ラシ♭レ♭レレ レ♭レレ♭ラ(¼)ラ♭
DnrRR rRRrDd
ララレ♭レレ♭シ♭ララ♭ラ
DDrRrnRrR
ラシ♭ラソソラ ラシ♭ラソソラ
ドドドシ♭ラソラ
DnDPPD DnDPPD SSSnDPD
で、これはカルナーティック音楽のラーガ、チャクラヴァーカムRagam Chakravakam だという。ドレ♭ミファソラシ♭ドにあたる。
ヒンドゥスターニー音楽ではラーガ・アヒール・バイラヴAhir Bhairav に類似するようだ。映画で使われたアヒール・バイラヴには ram teri ganga maili がある。

引用したクリップで apsara aali の前にオレンジ・シャツの若者が歌っているのは aseer ahsanというクウェートのヒット曲だ。オリジナル とはちょっと違うのだが、Ragam Chakravakam で歌える例として示しているのだろう。そしてこのクリップではタブラーと並んでアラブのダラブッカDarbuka も用いられていることに注目したい。
aseer ahsan と apsara aali を続けると、リズムがアラビックに強調されているのがわかる。

 

映画の apsara aali 前半のリズムにアラブ調はうかがえないが、潜在的なリズムが明らかにされるのは、くりかえされる「天女来る」の部分からだ。ここではメロディーに飛躍があり、なにより執拗でねばっこいリズムがくりかえされる。ここが天竺的でないと思った理由だ。
アーリーの部分は
レレドレファ♯ソ ファ♯ソファ♯レレドレ ファ♯ソ 
レシラソファ♯レド ファ♯ソ
レシラソファ♯レド レファ♯レレレドレ ファ♯ソ
とまったく違う音階を使っている。しかしこれは、ラーガならカリヤーン・タート、西洋音階ならリディアン・スケールに相当するもので、アラブ的というわけではない。マカームの変種かもしれないが。

 

アラブ音楽のリズム、ことにダラブッカの演奏パターンはこのサイト やここのクリップが参考になる。
これだと apsara aali のリズムは Dd/-t/d/t に聞こえるのでマスムーディ・サギールのリズムに相当するのではないか。素人耳だが。サイトのサンプルはどれをとってもインドとはっきり違うアラブ的リズムだといえる。裏打ちの存在もひとつの特徴だろう。インド音楽に裏打ちってあるのだろうか?

 

リズムに注目すれば、映画炎のアンダルシア Al-Massir のジプシーのダンスは先のサイトのファラーヒのリズムだろうか。頭がカルトに染まって縛られた山田孝之の王子も、下半身がついつい踊ってしまう。
アラブ化されたインド、つまりラテンにつながる流れが見えるように思う。

 

「炎のアンダルシア」で歌手を自演しているムハマド・ムニールMohamed Mounirが、現在のトップ歌手アムル・ディヤーブAmr Diabと共演したal qahira (カイロ)はカイロの夜景のように西洋化されたバンドによるアラブポップだが、リズムはしっかりとアラビアンだ。
音に音がくっついてくる、このリズムの粘りこそアラブ音楽ではないか。

 

ラテンへの流れと書いたが、ラテン音楽にもアフリカを経由したアラブのリズムが刻まれている例としてはこんなのも ありそうだ。

 

なぜマラーティー映画音楽にアラブのリズムが導入されているかというと、ヒンディー映画と同じ道筋をたどっているからではないだろうか。ローカル性の後退と市場の拡大だ。
ヒンディー映画は無国籍な作風があって、外国音楽の模倣を重ねてきた。西洋近代の窓口ともいえる。
古いところでは S.D.Burman の名曲 jeevan ke safar mein rahi や mere sapno ki rani などはラテンだし、大御所がそれだからあとは推して知るべしといえる。
パクリではないがリズムも Student of the year の radha  は往年のヒット曲 dafliwale をサンバに置き換えたもので、 Sairat の zingaat はカッワーリーを8ビートに仕立てたものだろう。

 

宿題
北インド音楽はヴェーダ朗唱 からドゥルパド あたりまではお経のようだが、時代がくだってトゥムリーはだいぶ俗な恋歌だ。それでも初耳だと新奇に感じるが、ペルシアの影響をうけたガザルやカッワーリーになって流行歌のように親しめるものになる。
ドゥルパドからトゥムリーにいたる道筋の途中にダマール があるが、これは雅楽ではないだろうか。

雅楽は古代のワールドミュージックで、神楽歌は古代の移民や支配層が韓神を招請する歌でもあった。
唐楽や高麗楽などに並んで林邑楽があり、インド音楽は林邑(ヴィエトナム)楽の中に入っている。インド人菩提僊那とヴィエトナム人仏哲が伝えたからだが、仏教輸入以来、音楽の流れはあったと思う。
ペルシア音楽は中国経由で来たのか、唐楽に分類されている。
雅楽の調に太食調があり大食とも書かれる。これは大食タージ、つまりアラビアだろう。
現在の雅楽応仁の乱でいったん断絶し、江戸時代に再建されたものだ。神楽歌など詞はともかく音楽は声明にもとづいた復元に思える。

 

ワルダにもひときわリズムが印象的な曲がある。これはサティスファクションみたいだ。i can’t get no satisfactionの源流は諸説ある。