ウルドゥ映画とパンジャービー映画

Ek Gunah Aur Sahi (1975 ウルドゥ)

Basheera (1972 パンジャービー)

 

パーキスターン映画ではウルドゥ、パンジャービー、パシュトーが主要言語となっているが、これは製作地を反映していたわけではない。20世紀末まではラーホールが、独占的な映画生産現場だった。

カラーチーはウルドゥ話者が最大勢力だが、同地の映画産業が巴映画の主軸になったのは今世紀に入ってからのことだ。それまではラーホールでウルドゥ映画は作られていた。

 

ネット映画誌PFMによれば、1955年にはじめてカラーチーで映画が撮影された。それから2017年までに製作された映画は199本、ラーホールでは独立後から同年まで3844本となっている。巴映画史とはラーホール映画史といってもよい。

 

スィンド州カラーチーは独立前までスィンド語話者が半数を占めていた。しかしインドからの移住で、いまはウルドゥ語話者が42%だ。さらに最大の産業都市をめがけたパンジャービー、パシュトゥーンの流入により、スィンディーは第四位の言語に後退した。

またウルドゥ語話者は全国では10%未満だが、国語とされているので全土で共通語として理解度は高い。

 

ラーホールは独立前から映画生産の伝統があり、分離後の旧インド映画人が身を寄せる地となった。ヒンドゥスターニー語の話者は、そのままウルドゥ映画人になることができた。

これは国共内戦終了後、香港に移住した上海映画人が質の高い香港北京語映画を製作して広東語映画をしのいでいった事情とかさなる部分がある。

ウルドゥ映画はヒンドゥスターニー文学、ペルシア語詩の伝統をひきつぎ文化的に多層で都会的だった。パンジャーブ語は口語伝承はあっても、書かれた文学の蓄積はとぼしい。

 

それが作風のちがいともなった。ことに1977年クーデター後に知識人文化人は沈黙をしいられ映画産業が後退したのち、低予算の農村抗争映画しか作れなくなった。都市の階級闘争は抑圧され、国全体を更新近代化する原動力が失われた。かわりに何千年とおなじことをくりかえしてきた農村の現実が、映画人たちの主題となった。

もちろんそこにも果実は実ったが、男しか見ない暴力映画が主流になることで産業の基層は空洞化し映画館は荒廃するにいたった。それが20世紀末ラーホール映画界の崩壊を生んだ。

 

東パーキスターンのダカは、映画製作基盤がないまま1971年の分離にいたった。