モホンジョーダローを見に来て

Ek Gnah Aur Sahi (1975 ウルドゥー)

 

Ek Gnah Aur Sahi 「もうひとつの罪」については、すでに記事にしている。サビーハ、ラーニー、モハマド・アリーによる二代にわたる大メロドラマとして、パーキスターン映画でも出色であり公開時はスーパーヒットとなった。

サーダト・ハッサン・マントーの短編Mummyを原案にした同作品は、娼館の主人サビーハ、娘で娼婦のラーニー、その夫との愛憎の物語だった。

 

 

www.youtube.com

なかでもヌール・ジャハーンの歌う「モホンジョーダローを見に来て」は、廃墟に踊り子と通称される像がうかび三者三様に苦悩する特異な場面で印象に強く残る。

 

この記事で歌詞が英訳されていたので、ラーニーの主張する内容をまとめてみたい。

ラーニーは自分を恋したモハマド・アリーに娼婦であることをうちあけ、モホンジョーダローの踊り子像を見せる。(以下「」内は要約)

 

「私はどこから来たのか、だれなのか。これは自分とおなじデーヴァダーシーだ。」

「寺院で踊らされ好色な司祭に血を吸われ生きてきた。私の物語は消せない。それは歴史の石に書かれている。私のゆがんだ像を見なさい。」

 

「今日でもりっぱな家庭では、娘を売り払うために飾り立てる。わるい商品を売るために、百の方法が考案される。それが名誉であり、尊敬なのだ。」

 

「道徳、宗教、規則、法はあなたたちのもの。しかしあなたの存在は、わたしと別物なのだろうか。」

「息子が生まれればあなたは誇らしげになる。だが女が生まれたらあなたはどうなる。」

 

自由の日はいつ来るのか?私の鎖はいつ砕かれるのか?」

 

これをラーニーは切々と歌い上げ、厚顔なサビーハもさすがに逃げ出す。男は衝撃をうけながら最後はラーニーを抱きしめる。次は結婚の場面となるが、運命はさらにひとひねりふたひねりされ、快傑サビーハが大暴れし大団円にいたる。

 

 

ラーニーの言わんとするところは、(1)自分は歴史的存在である性奴隷だ。(2)だが婚姻も性の商品化だ。(3)これらのイデオロギーは男たちのものだ。(4)男の誕生は祝福されるが女はいつ解放されるのだ。

ということになるだろう。

 

趣旨には賛同するが論証は弱さがある。(1)モホンジョーダローの像は、デーヴァダーシーではない。「踊り子」も仮称だ。自分のファンタジーでは、インダス文明の祝祭的豊かさを示している。デーヴァダーシーはもっと後世の、インダス人とは別人の制度だ。(2)ラーニーを娼婦にしたのはほかでもない母親で、サビーハをまずうらむべきだ。

などといっているとサビーハに「あんたなんかに何がわかるの」とののしられ、ぶち殺されそうだ。

 

マルサス人口論は理論的にいちども証明されたことはないが、農業生産の成長より人口の成長が上回ると貧困が生じることは世間知として歴史的に知られていただろう。そのため過剰人口の調節弁として農村社会で女児は生後に選択的に抹消されてきたが、それは伝説として語られるのみで歴史に書かれたことはほとんどない。これが女性の劣位の根源のひとつとしてある。男はもう少し長く生かされ、戦争や苦役で消尽されていく予定だった。ともかくこれらの人口調節によって、農業社会は破綻することなく継続してきた。証明はできないが。

 

古代史つまり農業社会史は成長のない時代で、人口も生産力も長い期間をつうじてわずかにしか増加しなかった。爆発的成長がはじまるのは、パンドラの箱が開いた近代資本主義社会になってからのことだ。かつてアジア的停滞とよばれた古代社会の変化のなさは、実際は農業生産に規定された西洋をふくむ全球的な事象だった。

 

では「女はいつ解放されるの?」という問いの答えは近代化、資本主義化なのか。帝国主義フェミニズムがつまずいて、文明対野蛮の論理に回収されてしまうのはここでだ。資本主義生産は女を解放するのではなく、性分業を廃止する未来を提示している。資本増殖に性は関係ないから。