荷風マイナス・ゼロ (78)

阿部雪と行徳橋にて 1952年(昭和27)

 

昭和18年(1943)

 

10月3日、ガス風呂許可の届け書きを出せと言われ風雨のあと空が晴れたのをさいわいに赤坂新町のガス会社出張所におもむく。・・妓家はいよいよ多くなったようで稽古三味線の音がしきりに聞こえ、浴衣に半帯がだらしない抱え子が三々五々物買いに歩くさまは戦乱の世とは思われない。妓界の景気がはなはだ盛んであることを知る。世の噂に珈琲店はやがて撲滅されるけれど妓界は新橋赤坂の二か所があるかぎりますます繁昌するだろうと言って今は官吏軍人の堕落を怪しむ者もなくなったようだ。世の中は星に錨に闇と顔馬鹿な人達立って行列とかいう落首を口にする者さえいないようになった。

10月5日、(新橋で)警戒報知の笛が鳴り響くのを聞き街に出ると、行く人は走りさわぎ争って電車に乗る。・・飯田橋行きの電車に乗り溜池で乗りかえようとする時警戒解除の報があった。先刻の警報は誤報であると警防団の男が街頭を呼び歩いていた。周章狼狽のさまはひどく滑稽だ。国民が敵国飛行機を恐れるさまは察するにあまりある。

10月6日、午後三菱銀行に行く。今まで受付に取り付けてあった金属製の格子のようなものがことごとく取り除かれ、また支払い収納など和英両国の文字で窓口に掲げた札も取り換えられ和字だけとなった。行員も大半変わって顔なじみの人は一人もいない。若い女事務員がにわかに多くなった。先月発布された新令がすぐに実施されたものと見える。三ノ輪行きの電車に乗り合羽橋から浅草公園に行きオペラ館楽屋で休む。ここのみはいつ来て見ても依然として別天地である。踊り子ニ三人とともにハトヤ茶店に行き一茶してのち仲見世を歩き請われるままにリボン化粧品などを買ってやった。わたしの老いの想いを慰めるところは今は東京市中この浅草があるのみ。

観音堂に賽銭をあげると四方の階段下に据え置かれた大きな鉄の水盤その半ばは取り去られていた。仁王門内に立った唐金の燈台も今はない。

10月9日、昨日午後庭を掃いていると鉄道駅夫のような制服の男ともう一人は安背広を着た男がそれぞれ折り鞄を引っ提げ入ってきた様子、思うにこのごろ人々が噂する国民貯金の強制勧告と見たので留守番であると称して体よく掛け合いを避けた。この貯金は所得税1万円に達する者から大略1000円二ケ年据え置きにさせるのだという。二年過ぎにはまた名目をつけて結局政府が取り上げるものだろう。このようにして中産階級の恒産は次第に略奪されるのである。銀行預金の引き出しも遠からず制限されるであろう。わたしは憂慮をそのままに出来ずこの日は小雨が降っていたが朝のうち三菱銀行に行き預金の中から1万2000円を引き出し家に隠し置くことにした。

・・朝鮮海峡また津軽海峡で日本の運送船が撃沈されたという。米穀がいよいよ不足という。

10月11日、向島玉の井を歩く。数年前から知る家が二三軒あるが立ち寄る興味も今はないので広小路の夜店をひやかし手帳を一二冊買い東武電車で浅草に行く。夜は十時ころだが街頭には灯火なく通行の人影も絶えがちで寂寥たること深夜のようだ。

10月12日、数日前から台所で正午南京米を煮るあいだフランス訳の聖書を読むことにした。米が煮え始めてからよく蒸せるまでに四五頁を読める。わたしは老後基督教を信じようとするものではない。信じようとしてもおそらく不可能だろう。しかし去年来わたしは軍人政府の圧迫がいよいよひどくなるにつけ精神上の苦悩に堪えない。ついに何かの慰安の道を求めないわけにはいかなくなった。耶蘇教は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものである。この教えは兵を用いずに欧州全土の民を信服させた。現代日本人が支那大陸および南洋諸島を侵略したのとはまったく趣が異なるのである。聖書が教えるところが果たしてよくわたしの苦悩を慰めうるか否か。他日に待とう。

10月14日、(従弟の)五叟が来て話す。その年齢満四十歳に達するにはなお二年ほどあるという。去年の徴兵検査の際には第二乙種とやらで免役となったが今度の動員令によれば改めて身体検査を受けねばならず、そのため区役所におもむいた帰りだという。満四十才はやがて五十才になるだろうし戦敗の兆しがようやく顕著になった。

10月16日、食料の欠乏が日増しにひどくなる。今日隣組から届けられた野菜は胡瓜がわずかに三本である。これで今日明日二日間の惣菜とするのである。青物の配給一人分三十匁で二日おきである。子供のある家では母親は米飯を子供に与えるために自分は南瓜をゆで塩をつけて飢えをしのぐことが多いという。満足に米飯を食べる家はまれだという。

10月18日、午後二時渋谷駒場の宅氏(孝二)の邸でわたしが作った歌詞に節を付けて聴く約束だった。歌詞は数年前永井智子のために作ったもので冬の窓および船の上と題した二編である。・・主人宅氏は多年巴里にあり知名のピアニストである。菅原明朗永井智子はすでに居た。わたしが作った詞章は二編とも菅原氏の作曲になる。宅氏がピアノを奏し智子がまず冬の窓を歌う。全曲約ニ十分を要する。つぎに船の上を歌う。一同はばかるところなく批評する。宅氏夫人が珈琲サンドイッチ梨林檎をご馳走してくれる、主人が得意の曲二三種を弾奏する。秋の日は早くも暮れて庭面は暗くなった。夫人はさらに饂飩羊羹紅茶をご馳走してくれる。一座の談話は縷々として尽きない。夜はたちまち更けそめた。十一時になんなんとするころ主人に送られて一同停車場に至る。この一日は長いわたしの芸術的生涯においてもっとも忘れがたい紀念となるものであろう。

10月20日隣組からまたまた米の代わりだといって煎餅に似たビスケット二袋を送ってきた。・・金兵衛で食事する。国民服を着た半白の商人官吏風の客が多く出入りし一杯金3円のウィスキーを幾杯もかたむけ闇取引の相談しきりである。

10月23日、昨今は家に惣菜にすべきものがないので海苔と味噌とを副食物にして米飯で飢えをしのぶ。これについてひそかに思うのは人間の事業のうち学問芸術の研究が至難であるのに比して戦争といい専制政治というものほど容易なものはない。治下の人民を威嚇して奴隷牛馬のようにすればそれで事足りるのである。ナポレオンの事業とワグネルの楽劇とを比較すれば思い半ばに過ぎるものがあるだろう。

10月25日、ガス会社の男が来て警察署から民家のガス風呂がいよいよ禁止の令があったと告げる。

10月26日、街談録

このたび突然実施された徴用令のことにつき、その犠牲となった人々の悲惨なはなしは、まったく地獄同様で聞くにたえないものである。大学を卒業した後銀行会社に入り年も四十近くなって地位も少し進んで一部の長となり、家には中学に通う児女もあり、しかし突然徴用令で軍需工場の職工になり下がり石炭鉄片などの運搬の手伝いに追い使われ、苦役に堪えられず病死するもの、また負傷して廃人になったものが少なくない。幸いにして命つつがなく労働しても、その給料はむかしの俸給の四分の一くらいなので中流家庭の生活をすることができず、妻子もにわかに職工並みの生活をするしかない。このためほとんどその処置に窮し涙に日を送っているという。徴集されたものは初め三か月練習中は日給2円。その後一人前になっても最高120-130円どまりという。このたびの戦争は奴隷制度を復活させるに至ったのである。軍人らはこれをもって大東亜共栄圏の美挙だとするのである。

大森あたりにあるアパートニ三か所がこのほど突然軍部に買い上げられ、兵器製造職工の宿舎となるという。従来ここに居住していた者は本年内に立ち退きの命令を受けたが東京市の内外には住宅もアパートの空室も皆無なのでどこにも行き先が見当たらず困難の最中だという。

10月27日、(森鴎外の墓参りで井の頭線で吉祥寺さらに三鷹に行く。高井戸のあたりから田園風景だった。)

 

11月2日、夜烏森の混堂(銭湯)で入浴。

11月3日、隣組の人が薩摩芋三本10銭を送ってくる。これが明後日まで三日間の惣菜である。憫むべし憫むべし。谷崎氏は熱海を去りふたたび関西に家を移すという。

11月4日、米作で夕飯を食べようとすると一人のお客はおことわりだという。

11月7日、小堀杏奴来書。兵火の起こったときは遠慮なく避難に来てくださいという。すぐに返事を書いて好意を感謝する。阿部雪子が来て話す。

11月9日、夕方表通りの洗濯屋に物をもっていき電車通りの銭湯で入浴する。思い返せば震災の時ガス水道ともに用をなさなかったのでその時避難してきたお栄という二十四五の娘とともにしばしばこの風呂屋に行ったことがあった。その時にはわたしも四十を半ば越しただけで女色の楽しみもまだ失せていなかった。

11月10日、ニ三人の踊り子とともに観音堂に詣でて仲見世を歩く。むら雲は月をおおい雨がはらはらとそそぎ来る。踊り子は驚いて楽屋にわたしは地下鉄に入る。・・帰宅後灯下に手紙を書いて菅原君に送る。音楽映画構成の腹案ができたためである。

11月11日、夕方小堀四郎氏が来て魚肉シャンピニオン牛酪蕪などを贈られる。またその居邸付近の地図を見せ罹災のときわたしが逃げ行くべき道筋を教えられる。

11月12日、佐藤春夫は右翼壮士のような服装をして人の集まるところに出てきて皇道文学とやらを宣伝するという。

11月14日、菅原永井両氏が来て話す。音楽映画構成のことについてである。食後灯下モーリス・ラヴェルの伝を読む。

11月15日、午後町の銭湯で入浴しひさしぶりに芝口の料理店金兵衛に行く。半官半商ともいうべき俗客が雑踏し家の主婦は腕によりをかけて暴利を貪るさまは物凄いともあさましいとも言える。

11月16日、城戸四郎氏にあて手紙を送って音楽映画撮影の見込みがあるか否かを問う。映画の名は左手の曲としたのである。(戦争で片腕となった音楽家が再起する話)

11月18日、映画左手の曲の台本も昨夜すでに浄書し終わった。

11月20日、病臥。阿部雪子来話。

11月22日、左手の曲の稿本を菅原氏に郵送する。

11月24日、阿部雪子が来て上野美術学校構内の事務所は火の気がなく寒さがたえがたいので正午の弁当時間から休みにしたといって餅と鶏卵とを贈って去った。

11月25日、門外は朝早くから防火演習で男女の声がやかましい。夜菅原明朗が拙作映画台本をたずさえて来て話す。またドビュッシーの詳伝を貸してもらう。

11月28日、(新橋で)電車停留場前の八百屋で西洋茸を売っているのをみたので買って帰る。百目金2円。

 

12月1日、(金兵衛で)顔なじみの客がわたしの短冊を50円で買ったという者がいるが真偽はどうだろうと携えた紙包みを開き一葉を示す。

12月2日、西銀座岡崎のおかみさんが歳暮のため海苔と百合とをもってきた。同時に五叟も訪ねて来た。五叟は伝手をもとめ名義だけある軍需工場の雇人になったが行く先はどうなるか分からないと言った。岡崎の語るところによれば西銀座一二丁目は盗難がひんぱんだ。洗い湯で衣類を盗まれることがことにひどいうという。

12月4日、街談録

一 ガス風呂が禁じられコークス薪などの配給もなくなったため銭湯の混雑がひどくまた板の間稼ぎも激増している。銭湯では午後四時から営業の札をかけ表口を開けるまえに内々ではお屋敷の奥様たちを裏口から入れるところが少なくない。闇湯の噂がしきりだという。銭湯の闇値段は山の手では30銭だという。

一 徴用令で職工にされる者はこれまでは四十才かぎりだったが昨今四十五才になったという。やがて五十才になるだろうという。

12月6日、ベルリンの市街がまた英国空軍に襲撃されたという。

12月7日、嶋中氏から鶯谷の酒楼に招かれたので四時過ぎに家を出る。・・谷崎ら主客はみなすでに居た。中央公論は雑誌統制のため本年かぎり廃刊するとの噂があったがそんな事はないと嶋中氏の談である。先ごろ内閣転覆の陰謀をした中野党(正剛)の者は文士菊池寛も暗殺人名中に加えておいたとの噂があったという。滑稽というべし。(菊池は2.26時も暗殺リストに名があったので家にこもっていたという。)

12月13日、銭湯の帰りがけ谷町通りの薬屋で偶然和製白葡萄酒を得た。金4円50銭。

12月14日、踊り子山井晴代という女が小説を書きましたから直してくださいといって草稿を見せる。(その小説踊り子の一節を引用。メイクのさまが細かく描写されている。)

12月15日、(樺太の愛読者が塩鮭二尾牛酪二斤を送ってくる。)

12月17日、(知人が)左手の曲を大谷竹次郎氏が一読したいというので試しに送って見給えと言う。

12月18日、夜菅原氏が来て金秉旭という朝鮮青年の詩稿を見せてその序を請われる。(序文草案。大学を出て故国伝説の調査をしている。)・・措辞用語のなお洗練されていないところはあるが一読してすぐにその情緒が純真で著しく音楽的であることを感じた。またすぐに一種言うべからざる悲愁憂悶寂寥の気味の凄然として人を動かす力があることを感じた。金氏の幻想にはわたしの見るところ広野を望む北方の哀愁に富んでいるが、人を酔わす南方の魅力はやや少ないように思われる。・・

(金秉旭については金洙暎の巨大な根という詩に「八・一五後に金秉旭という詩人は両足を後ろへ折り曲げ きまって日本女性のように坐って弁論に耽っていたが 彼は日本の大学に通いながら 四年間も製鉄会社で労働した強者だ」と描かれている。)

12月20日日本橋白木屋前赤木屋に行き先月買わされた債券400円を売る。

12月22日、小堀四郎氏が来て野菜を贈られる。世田谷の庭で自ら作られたものだという。今年まだ四十三なので職工にさせられないかと心配しているという。

・・世間の噂を聞くといくら職工を増加しても資材が欠乏しているためどこの軍需工場でも夜間勤務をしない。仕事は平時とおなじく昼間だけである。この様子でいけば来年六月までには戦争はいやでも応でも終局を告げるにいたるだろう。もしまたそれより長くなる時は経済的に自滅するだろうと。

12月26日、銀座を歩く。夜店がところどころに出て物を買う人がまったくないわけではない。梅の鉢物をひやかす人もあり。・・帰りの電車は乗客が少ない。

12月27日、午後三菱銀行に行ったが行員の大半が女子となり事務がはかどらずただ混雑するばかりである。(国債を売った金を預金しようとしたのだろう)

12月28日、市内の掘割にかかった橋の欄干で鉄製のものはことごとく取り去られその跡に縄を引いている。大川筋の橋はどうするのだろう。夜中はいよいよ歩けない都となった。オペラ館に立ち寄って見ると洋楽入り洋装和装混交の忠臣蔵を演じていた。平舞台で死神が洋風ダンスをして二重の上で判官が切腹するというようなものだ。(アチャラカというものだろう)煙草は昨日からまたまた値上げ。50銭のものが75銭となった。

12月30日、一昨日隣組から押し売りされた債券400円を転売しようと三時過ぎまた日本橋赤木屋に行き、それから浅草に行く。

東武電車が案外混雑していないので玉の井に行く。六丁目角の薬屋で買い物しようとすると主人が召集されたとのことでごたごたの最中だった。娼家の戸口には一軒ごとに正月一ニ三日正午から営業と貼り紙していた。ちょうど五時になったと見え洋服草履履きの男がちりんちりんと鐘を鳴らしていた。数年来なじみの家に立ち寄ってみたが今は老衰の身でなすべきこともない。閨中非凡の技巧をもつ者に逢わないかぎり為さんと欲するところいよいよ為すあたわざる年齢に達したようだ。・・漁色の楽しみが消滅するときたいていの人は謹厳となり道義を口にするに至りやすいものである。わたしは強いてそうならないように願うのである。

・・俳諧雑誌不易は印刷並び出版物統制の難にあい来年二月かぎり廃刊するという。

12月31日、今秋国民兵召集以来軍人専制政治の弊害がいよいよ社会の各方面に波及するにいたった。親は四十四五才で祖先伝来の家業を失って職工になり、その子は十六七才から学業を捨て職工になってから兵卒となって戦地で死に、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人みな重税の負担にたえない。今は勝敗を問わずただ一日も早く戦争の終了を待つのみである。しかしわたしがひそかに思うには戦争が終局を告げるにいたる時は政治は今よりなおひどく横暴残忍となるだろう。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似ている。国内の文学芸術の撲滅をしたあとは必ず劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取り上げをしないでは止まないだろう。かくして日本の国家は滅亡するだろう。

疎開という新語が流行する。民家取り払いのことである。

荷風マイナス・ゼロ (77)

大東亜会議 右端はチャンドラ・ボース 東條の左は汪兆銘(1943年11月)

 

昭和18年(1943)

 

7月5日、冗談剰語

一 東京市を東京都と改称するという。何のためだろう。その意味を理解しがたい。京都の東とか西とかいうように聞こえて滑稽である。

一 日本人は忠孝および貞操の道は日本にのみあって西洋にはないと思っているようだ。人倫五常の道は西洋にもあるのである。ただしやや異なるところをさがすと日本では寒暖の挨拶のように何事につけても忠孝忠孝と口うるさく聞こえよがしに言いはやすことである。また怨みがあって人を陥れようとする時には忠孝を道具に使いその人を不忠者と呼んで私行をあばくことである。忠孝呼ばわりは関所の手形のようだ。これなくしては世渡りはできない。

一 日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異ならない。その短所欠点はゆめゆめ口外しないことである。歯の浮くような世辞を言うべきである。腹にもない世辞を言えばみすみす嘘八百と知れても軽薄だとそしる者もない。この国に生まれたからには嘘で固めて決して真情を吐露すべきではない。富士の山は世界に二つとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから妙味がある。楠と西郷はえらいえらいとさえ言っておけば間違いはない。押しも押されもせぬ愛国者である。

一 隣の子供が垣を破ってわが庭の柿を盗めば不届き千万と言いながら、自分の家の者が人の家の無花果を食うのを知ってもさらにとがめない。日本人の正義人道呼ばわりはまずこの辺りと心得ておくべきである。

一 近ごろ流行の大東亜とは何のことだろう。極東の替え言葉なのだろう。支那印度赤道下の群島は大の字をつけなくても広いから小でないことは言わずと知れたはなしである。Greatest in the world などと何事にも大々の大の字をつけたがるのは北米人の癖である。今時北米人の真似をするとは滑稽笑止の沙汰であろう。

7月7日、フランス映画制作技師アルノーの映画案内を読む。・・アナトール・フランスの紅百合、ゾラの夢及び労働。スタンダール赤と黒などの名著も一度はみな映画になったことがあるという。

7月8日、(玉の井と神風連に奇縁のある種田政明から手紙)

7月9日、浅草に行く。四万六千日だが参詣の人は少ない。伝法院前で偶然名妓小槌に会う。すでに芸者をやめ引手茶屋青柳の帳場にいるといった。(1937年7月記事に登場)

7月11日、金兵衛で食事する。洗い場の女のはなしに今日子供連れの女乞食が料理場の戸口に来て50銭札を二三枚出して残飯が御座いましたら売ってください。どこのごみ箱をさがしても食べるものがありません。親子とも三日ばかり何もたべずにいますと言ったという。近所にも野良犬一匹いなくなったという。

7月14日、(オペラ館に行くと)防空演習があるので男女とも防火服を着て朝八時にまちがいなく楽屋入りするようにと楽屋口に掲示されていた。

7月20日、菅原明朗永井智子来話。来十月初旬独唱会開演のことについてであった。

7月23日、配給の野菜もとぎれ惣菜にすべきものもないので夕方新橋の金兵衛に行くと休業の様子だった。浅草公園米作の店をのぞくとここもまた休業の札を下げていた。吾妻橋きわの一平という店が暖簾を下げていたので入って定食を注文した。その値段4円。税金三割。料理は粗悪で口にすることができない。香の物に玄米の飯を一杯食べて卓を立った。客は片隅に四五人一座のものがいるだけ。隅田公園のベンチで少し休んでのち玉の井に行き数年前から知り合いの家を訪ねる。おりよくみな夕飯を食べていたのでここでわずかに飢えをしのぐことができた。ただし惣菜はおそろしく皮の堅い茄子の煮たものだった。帰途花川戸から新橋行の市電に乗る。夜はまだ八時過ぎなのに沿道の商店はおおかた戸を閉ざしているので街頭暗黒、鼻をつままれてもわからないほどだった。蔵前から小伝馬町あたりは最も暗く一点の灯火も見ない。銀座通りは尾張町あたりに露店の灯火がかすかに散歩の人影を照らすのみ。電車もそれほど混雑せず麻布谷町で降りるまで腰かけていられたのも不思議といえる。

7月24日、街談録

新宿盛り場の興行物に関係する人の語るところをきくと、近ごろの女子事務員店員また女学生らしいものが粗暴淫卑になったことは実に話にもならないほどである。結局これも戦争の弊害であろう。この女たちは四五人づれで飲食店喫茶店に入りこみ男の学生また若いサラリーマンなどと懇意になると、たちまちその晩のうちに怪しい戯れをする。みな互いに承知の上で男女各相手を取り替えてたのしむなどはさらに珍しくない。会合の場所はむかしの円宿などに行くのはまだいい方である。間借りの狭い部屋に幾組の男女が互いに見る目をはばからず乱れに乱れるのを常とする。女のなかにはかなり良い家のものもいる。・・新宿付近の薬屋ではどこもサックの闇値が騰貴しこのごろはゴム製一個3-40銭になったという。不良男女の集合する場所は新宿に次いで五反田銀座で浅草公園は震災後のむかしとは風俗が一変し現在はかえって健全無事になったという。

7月27日、外務省に勤務する某々氏が訪ね来て米軍がローマを襲いムッソリーニ内閣が転覆したと語る。杵屋五叟から鯊の佃煮をもらう。

7月30日、上野うさぎ屋主人が炭二俵を送ってくれた。店の若い者が炎暑の日盛りをおそれずリアカーで運んできたのである。台所の縁下に隠す。日米開戦以後世間をはばかり人目をしのぶことが多くなったのも是非もなし。谷崎氏近著初昔きのふけふ合冊一巻を贈られる。夜ひさしぶりに玉の井を歩く。広小路の両側に屋台店が出て夜遊びの人出がにぎやかなことは銀座にまさっている。

7月31日、銀河一夜ごとに鮮明となり深夜の風は水のごとし。土用半ばの秋風であろう。

 

8月3日、先月来町会からの命令だといって家々その縁の下または庭に穴を掘っている。空襲を受けたとき避難するためだという。しかし夏は雨水がたまって蚊を生じ冬は霜柱のため土くずれすることを知らないようだ。去年は押し入れの中にかくれろといい今年は穴を掘れという。来年はどうするのか。一定の方針なきは笑うべく憐れむべきである。

8月8日、五叟の愛児が二人来て庭の片隅に穴を掘る。近日町会から検査の者が巡視に来るというので申し訳のため隣との垣際に深さ二三尺の穴を掘っておくのである。

8月9日、明日から金兵衛が休業するという。料理場のガスが節減され炭の配給も少なくなったためという。

8月11日、××××××××の両人が飛行機献納資金募集のハガキを送ってきた。彼らが刑を受けた不良民であることは世間がすでに承知しているところではないか。国家存亡の危機もついにこれら不良民が売名営利の方便となり果てた。われらはこの度の戦争に純粋な感激を催せる機会がない。浩歎せずにいられない。

8月12日、このところ野菜の配給がなく香の物も少なくなったので浅草公園米作で食事をしようと電話で問い合わせると炭不足で十五日まで休業するという。

8月14日、浅草松屋に行き、肌着を買おうとすると品切れで一枚もない。西洋小間物は肌着だけでなくカラー、ズボン吊りその他すべて品切れである。麦藁帽靴下はたくさんある。・・踊り子ニ三人とともに森永に行き夕飯を食べる。米飯に大豆をまぜてあるので何となく馬の食うものを奪ったような心地がする。

・・踊り子美津子というのに誘われるままその家に行く。光月町太郎稲荷の近所である。姉妹三人とも踊り子でそれぞれ100円内外の給金を得て父母を養っている。父は職業がない様子だが母は洋裁をするという。わたしの独居の不便を知り帰りがけに台所から白瓜の香の物玉葱などを取り出し新聞紙に包み、いつも娘たちがお世話になりますと言って贈ってくれた。姉妹のうちでもっとも年下、年は十六という、の者が入谷町の市電停留場まで見送ってくれた。来合わせた電車に乗ると夜はまだ十時半ごろなのに乗客はわずかに十四五人。そのなかに吉原帰りとおぼしき水兵が四人いた。新橋に至るまで途中で乗る者はほとんどなかった。

8月16日、金兵衛で先の五六月中に雇われた女中がいる。もとは仙台の三越百貨店の売り子だったという。何故にか東京に来て金兵衛に住み込んでいたが料理場の手伝いばかりさせられ労働にたえかね郷里にかえったのは七月初めのことである。小作りで顔立ちがわるくなく立ち居振る舞いがもの静かなのでわが家で召し使おうと思いそれを金兵衛のかみさんに頼んだ。ところが同じ店のお客で数寄屋橋あたりに事務所をもつ人がかの女を事務員に雇いたいという。金兵衛ではとにかく東京に呼び戻して相談しようと再三手紙を出したがいまだに返事がない。掌中の珠を失った心地はきっと数寄屋橋の人も同じだろう・・

8月17日、(土洲橋病院で)院長のはなしに妊婦で流産するものが年々多くなった。栄養の不足にくわえて労働過度がその原因だろうという。

8月23日、ガス風呂使用に要する診断書をもとめそれから浅草に行き米作で夕飯を食べる。・・今日配給の白米に大豆が混じっていた・・

8月28日、金兵衛の西隣である寿司屋千成は配給の酒魚類が少なく燃料にも窮し闇取引で罰金を取られたため今月になってついに廃業し主人はすでに夜逃げしたという。東隣の亀寿司という店もひさしく戸を閉めたままである。金兵衛の店は酒ビールとも不足だがウィスキーの買いだめがある。魚類は高輪あたりの魚問屋で宮内省および皇族へ配給する魚の取引を一手に請け負っているものがいて、そこから内々に闇相場で魚が少ないときは鶏肉を送ってくる。これにより今日までどうにか営業をつづけて来たのである。金兵衛の横町で大和田という鰻屋も何か人知れない買い出しの道があると見えいまだに店を開けている。

8月29日、来月より女子縮髪機械は電力を費やすため政府で買い上げにするという。したがって女子パーマネント縮髪は本年中には消滅するはずだという。

8月30日、今春より隔月に町会から押し売りされた戦時債権が5-600円になったので、これを現金にしようと午後兜町の仲買片岡の店に行く。街中店頭ともに人の出入りが少なく寂寥たる光景は休日のようだ。・・雷門のほとりの氷屋で珍しく氷水を売っているのを見る。一杯10銭である。

8月31日、町の噂に米国飛行機の襲来が近くあるといって家族を市外に移転させるものが少なくないという。軍人で近郊に家を移すものが案外多いという。

 

9月1日、夕方六時過ぎ金兵衛に行く。食事中怪笛がひびきわたるのを聞く。店のものは警戒報だといって灯火を消す。

・・(聞いた話として、列車が混雑するので郵便貨車に客を乗せたところかえって混んで立つしかなく、おまけに暑さで服を脱ぐものもあり女性に被害が出た。)

9月4日、(文政年間の文人の日記に石鹸の記事があった。)百余年後の今日、人はシャボンの配給がないことを嘆く。これはみな軍人執政のなすところ恐るべし恐るべし。

9月6日、阿部雪子来話。この夏の初めての曝書をかね蔵書目録を作ろうとして、そのことを頼んでおいた女である。今日はあまりに蒸し暑く物憂いので目録製作は他日として夕方まで雑談する。

・・八月中このあと毎月八日には婦女はかならず百姓袴(もんぺ)を着用しろとお触れがあった。また婦人日本服の袖を短くせよと。新橋赤坂辺りの芸者の中にはこのお触れに先立ち百姓袴に元禄袖の黒紋付をきて客の座敷に行くものが少なくない。おいおい一般の流行になるべき形勢だという。

9月7日、踊り子ニ三人とともに表通りの映画館に行きショパン別れの曲(ドイツ 1934)というのを看る。

9月8日、都花屋米作などという料理店はおおかた休業の札を下げていた。区役所横町のかつてロスアンジェルスといった珈琲店で休もうと立ち寄るとすでに廃業して家人はどこかへ移転した様子。その向かい側の理髪店も戸を閉ざし人影がない。

9月9日、午後佐藤観氏来話。中央公論社員陸軍主計中尉フィリピンから帰還。マニラには食料品が多い。守備隊はおよそ十万人くらいだという。

・・上野動物園の猛獣はこのほど毒殺させられた。帝都が修羅の巷になるだろうことを予期したためであるという。夕刊紙にイタリア政府が無条件で英米軍に降伏したことを載せる。秘密にしてはいられないためだろう。

9月12日、電車の中の広告に××××著、日本は天皇道の国なりと大きく書いていた。かつて短刀をたずさえ銀行会社をゆすり歩いていた者が豹変してこのような著書を売る。滑稽というべし。

9月14日、菅原夫妻来話。・・智子女史の独唱会は警視庁の妨害がひどいのにくわえて管弦楽演奏の楽師が大半召集されたためやむをえず中止したという。

9月16日、無名生の手紙

深川門前町あたりの屋台店で煮込みという物の材料は牛豚などの臓物を味噌で煮たもの。焼き鳥の材料も同様です。この辺の牛めし屋は一杯60銭だが浅草辺りのものにくらべてはるかによい。京成電車新三河島駅ガード下おでんや。これは銀座新宿あたりのおでんやとは異なりまったくの庶民を客にする店です。飯は外米をまぜない純粋の白米でおでん一皿50銭でいろいろある。酒もあるが飯を食う人のほうが多いので夜十一時前に立ち去る。外食券は不要です。

9月19日、先月来白米の配給が少なくなってそのかわりとして干し饂飩また小麦粉を配給する。満足に米の飯が食える日はひと月のうち十七八日で残りの十二三日は代用食で飢えをしのがねばならないという。・・わたしは一食の米が一合弱で足りるので、ことに夕飯は新橋または浅草で食べるため幸いにして代用食は口にせずともすむのである。

9月22日、世の噂に都下税務署の役人で収賄の嫌疑で捕らえられたものが二三百名にのぼるという。

9月23日、隣組の人が油揚げの配給をもってきた。夕方出て金兵衛で食事する。配給の魚がないといって鯖の塩焼き、わかめの味噌汁、胡瓜もみ、香の物を出した。料理場の男が語るのを聞くとこんど新しい法令が発布され料理人店員会社員何にかぎらず四十才までの男子はいやおうなく軍需工場の職工に徴発されることになった。こうしていられるのも来年三月十五日までだという。

9月24日、世の噂に来年より官私立の大学中法文経済科廃止。学生はことごとく兵営に送りこまれることになるという。

9月25日、オペラ館に行くと一座の男女が二階に集合し座員二名が徴用されて行くのを送るところだった。

9月28日、来十月中には米国飛行機かならず来襲するだろうとの風説がある。上野両国の停車場はニ三日このかた避難の人たちで雑踏しはじめたという。わたしの友人のなかには田舎に行くのがよいとすすめるものもある。著書と草稿だけでも田舎に送りたまえというものもある。生きていても面白くない国だから焼死するもよし、とは言いながら、また生き延びて武断政府の末路を目撃するのも一興だろうと、さまざま思いわずらいいまだ去留を決することができない。

9月29日、銀座に行く。路傍に土俵を積みまたは土を積んだ上に草を植えたのもある。このごろの雨に土が流れ出て泥濘が沼のようになったところもある。洋品店呉服店の多くは戸を閉ざし一見荒廃の風景は国家すでに滅亡したかのようだ。

荷風マイナス・ゼロ (76)

www.youtube.com

荷風が4月17日に観たモスコウの一夜は、チューブにupされている。第一次世界大戦中のロシアが舞台で、フランス映画だから台詞もフランス語なので荷風の興味を引いたのだった。

巴里祭(1933)のアナベラ演じる令嬢とロシア軍中尉の恋が物語の軸とはいえ、ちゃんと演技しているのは年輩の婚約者であるアリ・ボール穀物業者の富豪だけで話そのものは薄い。日本に輸入されたのはヒロインの知名度と、トーキーのロシア音楽と豪華なセットがあったからだろう。それなりの大作なのでロシアの雰囲気は出ているが、時代考証は適当だ。

アリ・ボールはジャン・ヴァルジャンやビートーヴァンになった役者で、大芝居だが存在感があってこちらが主演といってもいい。

 

 

アナベラとアリ・ボール

 

 

www.youtube.com

5月6日に観た白鳥の死(1937)はダンス場面だけ網上にある。当時のプリマドンナが出演しているが、戦後のバレエに比べると身重たげだ。荷風は気に入ったようで二回見ている。

荷風マイナス・ゼロ (75)

累 竹原春泉画

 

昭和18年(1943)

 

4月2日、オペラ館踊り子に導かれて区役所前リスボンという洋食屋に入って食事する。一皿米飯付き1円である。客はたいてい公園の芸人だけである。

4月6日、浅草公園に行く。三四日前から米国飛行機襲来のおそれがあるといって街路は暗黒である。六区興行町の映画館は夕方閉場。芝居寄席は八時ころ打ち出しにするという。

4月7日、平安堂鳩居堂その他の筆屋にも真書細筆一本もないようになった。毛筆にする羊毛が支那から来ないためであるという。日本文化滅亡の時がいよいよ迫り来ている。

・・新潟長岡辺り空襲の警戒は東京の比ではないという。また東京市中の劇場映画館はどこも昼の中から大入り満員の好況で正月三が日のようだという。

4月8日、松屋で買い物。新橋で食事して帰る。街路に灯火なく暗黒なること昨夜のごとし。ただし電車の込みあうことは夜も昼に異ならない。酔漢がまた多い。

4月9日、隣家の婆が来て言う。近隣の噂によれば霊南坂上森村という人の屋敷は無理やりに間貸しをするよう政府から命令された。また市兵衛町長与男爵の屋敷も遠からず同じ悲運に陥るだろう。先生のお家も御用心なさるがよろしかろうとのことである。かねてから覚悟していたことながら憂悶にたえない。

・・空襲警報この夜解除の報があった。帰途の町の灯のあかるさに空も晴れわたって上弦の月が浮かび出ていた。

4月11日、羅宇屋の車がピイピイと笛を鳴らしながら門前を過ぎるのを聞いた。呼び止めて羅宇のすげ替えをさせる。・・羅宇屋の爺はわたしが四五本もちだした煙管を見てこのような銀煙管はただいまでは10円から20円は致します。道具屋では3-40円でも売らないそうですと言いながらしきりにわたしの古煙管を眺めていた。これはみな三十余年前に東仲通りの骨董屋で一本4-5円で買った。物価騰貴の驚くべきことはわたしの古煙管よりも羅宇屋直し賃の高くなったことである。羅宇屋は平然とした態度で銀延べの掃除が50銭、羅宇竹のすげ替えは一本2円50銭ずつ総計7円になりますという。大正七八年ごろ上等の羅宇すげ替えは一本4-50銭であった。

4月14日、仙台から来た人のはなしに、塩釜海辺の漁夫が沖合で米国飛行機また潜水艇に襲われるものがとても多い。東京の市場に魚類が乏しいのは思うに当たり前のことだろうと。

4月17日、オペラ館の踊り子らに誘われ松竹座となり西洋映画館の映画を見る。モスコーの一夜という題でトーキーはフランス語だった。偶然こんなところでフランス語を耳にした喜びはたとえようがない。

 

モスコウの一夜 1934

 

4月18日、イタリアの酒ベルモットを飲む。一杯金20円だという。可驚可恐。

4月20日言問橋の欄干その他鉄製と見えるものがことごとく取りはずされていた。日本橋をはじめ市中の橋梁も同じ憂き目にあったという。

4月23日、オペラ館の踊り子らとまた松竹座隣のフランス映画を見る。

4月25日、中央公論連載谷崎氏作小説細雪三月号をかぎり以後掲載を見合わせとなる。

4月27日、夜新橋の金兵衛で食事する。四五日来配給の日本酒が途切れたといって客をことわっていた。招魂社祭礼で酒はみな偕行社に買い占められたためだという。

街談録

これは去年冬のことである。偕行社内部の者が軍服用羅紗地を盗み出し市中の洋服屋に売り渡した。洋服屋は各自その店のお客にすすめ国民服一着金130円で売ったところこのことは早くも憲兵隊の知るところとなり憲兵省線の各停車場また銀座上野など繁華街の四辻にたたずみその軍服用羅紗地でつくった国民服を着た者を見ればすぐに引捕らえ憲兵本部に連れて行き尋問の末に始末書を出させたという。軍服用羅紗はその色合い地合いなどが普通の物と違うところがある。憲兵が見ればすぐさま判明するものという。

4月29日、阿部雪が来て大掃除の下掃除をする。

4月30日、不在中伊藤駒子もと銀座タイガー女給来訪。

 

5月4日、街談録

四月末ごろの祭日である。都人が食料品野菜鶏卵などを買い集めようと近県に行く者が多いので刑事らはこれを捕まえようと千葉埼玉あたりの汽車停車場に張り込んでいた。夕刻までに捕らえられたものは数千人の多さにいたったがその大半は鉄道および郵便局の役人だったという。

5月5日、夜新橋の金兵衛で食事する。金平糖を売りに来たものがいた。一貫目35円だという。砂糖の闇相場はその後引きつづき騰貴して一貫目20円から25-6円になった。そのため金平糖は35円なので高くはありませんと商人の言い草である。

5月6日、オペラ館踊り子らとフランス映画白鳥の死(1937)を見る。少女らはただ写真の画面に興味をおぼえわたしはフランスの言葉を耳にして暗愁をもよおすのである。

5月9日、午後阿部雪子来話。

5月10日、目黒大森あたり一帯は日照りつづきのため水道が枯渇し井戸のない家では飲み水にも苦しんでいる、湯屋床屋いずれも水がないため休業しているという。

5月11日、雪子来て大掃除の手伝いをする。

5月12日、警戒警報の笛が鳴りわたり街頭の灯火がことごとく消え去ったが空に半輪の月があった。帰路今井町のなだれ坂わが門前の御組坂も悠然として歩くことができた。

5月13日、市兵衛町二丁目の長与男爵邸の塀外に配給所の炭俵が積み重ねられていた。毎夜人が静まってから俵を破り炭を少しずつ盗んでくる。この夜は警戒警報発令中で街路は寂寥とし通行人は途絶えがちなので大いに収穫があった。明朝はガスを使わずに朝飯を炊くことができるだろう。

5月14日、浅草に行く。三社の祭であるが公園の内外は平日よりも静かで工夫らが仲見世から伝法院裏門あたりにつらなり鋳物街灯の柱を取り除いていた。

5月17日、菊池寛が設立した文学報国会なるものが一言の挨拶もなくわたしの名をその会員名簿に載せた。同会会長はわたしが嫌悪する徳富蘇峰である。わたしは無断で人の名義を乱用する報国会の不徳を責めてやろうかとも思ったがかえって豎子をして名をなさしむると思い返して捨てて置くことにする。

・・芝口の金兵衛で休む。おかみさんが配給の玄米を一升瓶に入れて竹の棒で搗いていた。一時間余りこのようにすると精白米になると言った。

5月18日、新橋駅北口の外にある三河屋という居酒屋は夕方五時からコップ酒を売る。四時前から群衆が二列になって店が開くのを待っている。番札の早いものを内々で1-2円で売る者もいるという。また東京駅ホテルのボーイは京阪行き汽車寝台券を3-40円で売るという。

5月19日、市中いずこといわず唐物屋呉服屋洋服屋などおいおい戸を閉ざすものが多くなった。表具師も三十代の者はたいてい徴用令で工場に送られたという。石川島造船所などでは小菅監獄署の囚人を使用しているという。内閣更迭の風説がある。

5月20日、路上禁煙と書いた貼り紙が市中いたるところ目につくようになった。去年冬ごろから始まったという。このごろまた防火用服装をせず平服で市中を歩けば翼賛会青年団と称する者がこれを誰何するという。ただわたしはいまだ幸いにしてその恥辱にあわない。

5月21日、金兵衛に立ち寄り夕飯を食べる。物売りの婆が来てカステラを巻いたのを出して一本7円50銭だといった。

5月23日、顔を洗う石鹸もなくなり洗濯用石鹼だけとなったためとりわけ女たちは困り果て糠をとるため玄米を瓶に入れ棒で搗くものがいよいよ多くなったという。一升の玄米が四五十分で白くなるという。

5月24日、ガス風呂使用のため診断書を作成させた。

街談録

洋画家某のはなしに、ある若い彫刻家が目下銅像の製作禁止となったのでその色が似ている黒い蝋石を用い軍人の形を彫り陸軍省に献上したが、陸軍省では有難迷惑だが拒絶することもできずしぶしぶ受納したが石の色が銅に見えるのを嫌いペンキ屋を呼び真っ白にペンキで塗ってあまり目につかない廊下の隅に置いたという。

5月26日、長唄常磐津の芸人もおいおい徴発され職工になるものが多くなったという。

5月27日、近ごろ物品の闇相場を聞くと次のようだ。

砂糖 一貫目 金30円 一斤4円余

白米 一升  金34円

鶏卵 一個  金30銭 

葛粉 百目  金10円

洋服羅紗地 男一人分 340円 仕立て上がり一着 5-600円

鶏肉 一羽  金15円

南京豆 一貫目 金3-40円

5月29日、青森りんご一箱をもらう。鉄道小荷物便で箱を開いて見ればその半ばはくさっていた。

 

6月1日、電車7銭のところ10銭に値上げとなる。また酒および割烹店で酒を売ることがこれまでは夕方五時からだったがこの日から夕方六時に改められたという。

街談録

このごろ南洋での山本大将(五十六)の戦死、つづいて北海の孤島(アッツ)に上陸した日本兵士の全滅に関して、一部の愛国者はこれは楠公の遺訓を実践したものとした。これに反して他の憂国者の言うところをきくと戦死の一事がもし楠公の遺訓だとすればむしろ楠公戦死の弊害を論じないわけにいかないとする。楠公の事績は建武年間の歴史を公平に冷静に研究したのちはじめてその勲功を定めるべきである。楠公新田義貞とを比較し一を忠臣の第一とし一を尋常平凡の武士とするのは決して公平な論ではない。これはちょうど日露戦争で東郷大将の勲功を第一とし上村中将をその第二位に置くようなものである。・・かつて福沢先生が楠公の敗死を一愚夫が主人から託された財布をなくし申し訳ないといって縊首したものに譬えたのは、今日その比喩のいよいよ妙であることを知るに足るであろう。うんぬん。

6月2日、たそがれ時浅草から向島の土手を歩く。国民服をきた職工がその家族をつれて土手の夕暮れを散歩するものが多い。時勢につれて隅田の情景の変化するさまは注目すべきである。

街談録

公園の芸人某から玉の井の噂を聞くと、例の抜けられますと書いた路地の女の相場はまず5円から10円となった。閨中秘戯に巧みなものはだんだん少なくなった。花電車という言葉もおおかた通じないようになった。お客に老人が少なくなり青二才の会社員また職工が多くなったためだろう。この土地で口舌を使ってすることをスモーキングという。一部賑本通り西側の大塚という家には去年ごろまで広子月子なな子勝子という四人がどれも5円でスモーキング専門の放れわざをしていた。今は時子という女がひとり残っている。そこから四五軒先の土井という家の女も15円で口舌のサービスをする。その先の市川という家にも同様の秘術をするものが一人いる。しかしこれはお客にも自分のものを舐めさせなければ承知しない淫物である。桑原の家には金さえ出せばのぞかせる女がいる。無毛の女はこの土地ではあんがい忙しくその数もずいぶんある。一部広瀬方、四部長谷川方にいる女は無毛を売りものとして曲取りがたいへん上手である。うんぬん。

6月3日、棚の上の洋書で読み残したものも次第に少なくなった。洋書とともにたくわえておいた葡萄酒も今はわずかに一壜を残すだけ。英国製の石鹸も五六個となりリプトン紅茶も残り少ない。鎖国攘夷の悪習はいつまで続くのか。

6月6日、午後浅草に行く。昨日は市中劇場その他興行物が休みだったので公園一帯の人出は正月三が日のようである。オペラ館で少し休む。支配人田代氏がきて公園はいまだに軍需景気だという。

6月7日、汽車乗客制限以来熱海温泉の旅館遊客は半減のありさまだという。また旅館主人は組合事務所に毎朝集合し軍隊教練を受けるという。

6月8日、仲見世の人通りを見ればいつもの世を憤る心もたちまち穏やかになって言い知れない安慰をおぼえることは今もなお昔に異ならない。

6月11日、午後庭を掃いていると二十ころの洋服の女ふたりが門の戸を開けひとりは外に立ち一人が来て携えた風呂敷の結び目を解きかけ干瓢椎茸はいりませんかという。値段を聞くと百目2円だといって紙包みにしたのを出した。容貌もそれほど醜くないのでどこから来たかと問うと四国の宇和島から行商に来るといって去った。

6月13日、蒲田大森あたりの水道がまた水切れとなって住民は飲料水にも窮しつつあるという。これでは防空防火演習もできないといって喜び笑うものもいるという。

午後二十八九とも見える醜からぬ和服の女がきて名刺を出し京都に住むものだが東京の名家先生たちの書画を集めたいと思って滞在しているといって風呂敷包みに五六本揮毫用紙を巻いたものを示し四五日中にいただきに参ります、これは些少ながらといって京都の湯葉ひと包みを置いて立ち去った。この土産物とその言葉使いによれば京都の女というのは噓ではない。何となく薄気味わるい女である。

6月20日、金兵衛の板前から砂糖を買う。一貫目5円、やがて50円に上がるだろうという。

6月23日、幸橋税務署から所得金額通知書がくる。本年は文筆所得乙種所得金1000円とある。一昨年は6000円だったのを去年はわたしが抗議して2600円とし今年はさらに減じて1000円とした。わたしが筆を焚いた事情を推察したのか。笑うべきである。

6月25日、オペラ館を訪ねる。新舞踊土橋の雨とか題するもの、累の殺しである、が上演禁止となったという。歌舞伎座で真景累ケ淵も先日禁止となったがその理由は人が殺されて化けて出るのは迷信で、国策に反するものだという。芸術上の論はさておき、人心から迷信を一掃するのは不可能なことである。近年軍人政府のすることを見ると事の大小にかかわらず愚劣野卑で国家的品位を保つものはほとんどない。歴史あって以来時として種々野蛮な国家が存在したことはあったが、現代日本のような低劣滑稽な政治が行われたことはいまだかつて一度もその例がなかった。このような国家と政府の行く末はどうなることか。

6月27日、長唄の芸人にも徴用令で工場へ送られるものが次第に多くなった。杵屋巳太郎のせがれ三十才ころの者はすでに工場で働いているという。また田園調布の辺りは街頭の追いはぎと強盗の被害が毎夜におよぶという。夜帰りの婦女で強姦されたものも少なくないとの噂である。

6月29日、オペラ館楽屋を訪ねる。大道具職人の部屋に切り餅の焼いたのを持ってきて一切れ30銭で売る者がいた。踊り子は大勢寄り集ってこれを食っていた。三四人の踊り子とともに楽屋を出ると五十番という支那料理屋に行き1円の定食を食えば生ビール一杯が呑めると語る者があるのを聞いて皆々走って行った。そのとき別の踊り子が歩み寄りモーリでは七時から汁粉を売る、またハトヤでは珈琲に焼きパンがあると知らせる。わたしはひとりの踊り子とハトヤに行き茶を飲んだあとまた表通りの映画館で白鳥の死を見る。オペラ館にかえり舞踊一幕を見て出れば日はまったく暮れ果てあたりは暗黒深夜のようだった。

荷風マイナス・ゼロ (74)

ガダルカナル島


ニューギニアの東隣にニューブリテン島があり、1942年1月に日本軍は英濠軍を破り占領した。ラバウルに要塞が造られ敗戦まで存続した。水木しげるラバウルに送りこまれ、かろうじて生き残っている。

そこから1000km南東にガダルカナル島があり、オーストラリア攻略のためそこをも要塞化しようと日本軍は労働者(大半が朝鮮人)を送り飛行場を建設した。8月5日に完成したが7日に米軍が奇襲をかけて占領し、ヘンダーソン飛行場と改名した(地図上のAir Strip)。米軍の反攻は翌年までないと予想していたため、600名の守備隊しかおらず抵抗の余地もなかった。

以後ガダルカナル島をめぐり日米の攻防がつづくが、大量の兵員を送りこみいくつかの海戦をはさんでも制空権をにぎられているため日本軍は犠牲をふやすばかりだった。輸送船団はことごとく沈められ、武器食料の補給がない兵たちは飢えた。12月31日に撤退命令が出されたが、日本軍3万の半数が餓死戦病死したと考えられている。初めての米軍による反攻で、ミッドウェーにつづく太平洋戦争の転換点とされる。

 

昭和18年(1943)

 

1月1日、炭を惜しむため正午になるのを待って起き出て台所で焜炉に火を起こす。焚きつけは割り箸の古いものまたは庭木の枯れ枝を用いる。暖かい日に庭を歩み枯れ枝を拾い集めることも仙人めいて興味なくもない。焜炉に炭火のおこるのを待って米一合をといでかしぐ。惣菜は芋もしくは大根蕪のたぐいのみである。時には町で買った菜漬沢庵漬を食うこともある。しかし水で洗うのがいかにもつらい。とかくして飯を食い終われば午後二時となり、室内を掃除して顔を洗う時はいつか三時を過ぎ、煙草など吞んでいるうち日は傾いてたちまち暗くなるのである。これは去年十二月以降の生活。ただ生きているというだけである。

町の噂

一 銀座尾張町西側の老舗二軒、そのひとつは足袋屋、そのひとつは大黒屋という塩物屋、いづれも去年十一月ころに店を閉ざした。大黒屋は薬舗丸八と同じく銀座の大地主で当代の主人は一時役者のような身なりをしてダイヤモンドの指輪を三つ四つもはめ、純金の杖をたずさえて歩くほど気障な男だという。

一 去年横浜港桟橋に横づけしたドイツ軍艦二隻は支那人の仕掛けた爆弾のため破壊されドイツから送られた軍用機械もまた破壊されたという。

一 浅草公園の道化役者清水金一は公園内の飲食店で殴打され一時舞台を休んだという。なおまたエノケン緑波などという道化役者の見物を笑わせる芝居は不真面目なので芸風を改めよとその筋から命令があったという。

1月3日、三時過ぎ地下鉄で浅草に行って見ると、群衆の雑踏すること今年はさらにひどく去年の比ではない。雷門から東武駅の内外は真に立錐の余地もない。仲見世も人並みに押し返されて歩きにくいので観音堂に詣でることもできない、また玉の井にも行けないので、上野行の市電に乗る。市電はどこも思いのほか雑踏せず。広小路の夜店を見歩き新橋をすぎて帰る。

1月8日、河風もそれほど寒くないので箱崎川の岸に沿って歩き新大橋に出る。乗合の汽船で永代橋に行こうとすると桟橋も札売り場も取り払われて跡もない。岸の上に立って川下川上を見渡すと曳船が石炭船をひいて行くだけでかの一銭蒸気の形は見えない。ここにおいてこれも時勢のために廃滅したことを初めて知ることができた。一銭蒸気は明治時代のなつかしい形見でさてもさても惜しむべきことである。

1月13日、去年の暮に町会から売りつけられた国債を現金に換えようと午後兜町山二商店に行く。店長は三十年前からの知り合いである。

・・オペラ館楽屋を訪ねるともと常盤座にいた踊り子四五名が今年正月からこの楽屋に来たといってみな喜んでわたしを迎える。この別天地にはかつて戦争の気分がない。夕方芝口に行こうとして楽屋を出るとどこの煙草屋にも人々がその店先に長蛇の列をつくっていた。去年の暮れから煙草の品切れが今にいたって続いているからである。値上げがしたいなら早く値上げをするがいい。いたずらに品切れをつづけて人民を苦しめるのは思うに得な政策ではないであろう。

1月18日、25銭の巻煙草45銭となる。

1月19日、町中に流言あり。ロシア侵略のドイツ軍はなはだふるわず。また北アフリカ遠征の米軍が地中海からイタリアをおびやかしつつあるという。願わくばこの流言が真実であろうことを。

(東部戦線ではドイツが夏季攻勢でスターリングラードまで迫ったが、9月からソ連軍が反攻しドイツ第6軍を完全に包囲した。同軍は2月2日に消滅した。85万人の死傷者と10万人の投降者を出した。北アフリカでは、1942年11月のエルアラメインの戦いで敗北したロンメルはエジプトから撤退した。)

1月20日、市内の経師屋はこのごろ麩糊のよいものがなくなったため掛け軸の注文は馴染みの顧客でなければ引き受けないようになったという。

・・風が静かで暖かなので今日もまた食うものをあさろうと千住に行く。大橋のあたりではかつて軒並みに名物の佃煮を売る店があったが今は残らず戸を閉ざしていた。葛餅を売る問屋だけ一軒もとのように人々が行列をしていた。

1月21日、小堀四郎氏は先日その夫人(小堀杏奴)とともに来訪の際わが家の炭火が乏しいのを見て近いうちに炭俵を送りましょうと言われたが、果たしてその通りに、今日の午後豪徳寺ほとりの家から遠路をいとわず炭俵を自転車に積んで訪ねて来た。深情謝するにことばなし。氏の親切でことしの冬はこごえずに過ごすことができるであろう。

1月25日、街談録

〇ある人が昭和十二年から今年まで日本政府が浪費した戦費を合計しこれを支那軍隊戦死者の頭数に割り当てて見たところ一人当たり約2000円になったという。すなわち支那人を一人殺すのに2000円を費やしたことになる。このたびの戦争の愚劣なることこれをもって推察することが出来る。

〇(2.26参加の兵卒で議事堂に立てこもってのち帰順した一隊はすぐに武装解除され、数日後汽車に乗せられたが車窓は密閉されたままでどこに送られるかもわからなかった。やがて船に乗せられ上陸した港は釜山らしかったが、そこからまた行く先のわからぬ汽車に積載された。最後に下車したのはハルピンで同僚八人はここで分けられ、その一人は蒙古の名も知れぬ要塞の守備隊に編入され、昭和十六年まで六年間勤務し去年ようやく帰国除隊を命ぜられた。六年間勤めてわずかに上等兵になっただけだった。その男は除隊後現在は大森のある工場の職工になっているという。)

1月29日、日光街道の杉並木を伐って軍事用材とするとの風説がさかんである。またかの杉並木の杉はあまりに年を経ているので油気が失せ用材には適さないというものもいる。いずれにせよ国家の窮状あわれむべきである。

1月31日、金兵衛で食事する。来合わす人々が語るのを聞くと川崎の女郎屋で玉川の丸子園という連れ込み宿はすでに兵器工場職工の宿舎となった。大森品川辺りの待合料理屋もまた近いうちに同じ悲運に陥るだろうという。人心の不安は日を追ってひどくなっていく。

 

2月3日、電話局からわが家の電話を三月三十一日かぎりで取り上げると通知書が来る。また町会から本年中隔月に150-60円債権を押し売りすることを申し来たった。和寇の災害はいよいよ身辺に迫ってきた。

2月4日、ロシア軍大勝を博すという。喜ぶべし。

2月5日、合羽橋のほとりでニ三年前オペラ館に雇われていた踊り子に逢う。満州興行の一座に加わりさすらいの旅から帰ってきたばかりだと言った。とある漬物屋に惣菜の筍を売るのを見て買うと100匁1円だという。わたしは浅草辺りを歩くときはかならず風呂敷に包んだ重箱をたずさえてよさそうな物があれば買ってかえるのである。漬物惣菜のたぐいはわが家の近くよりも浅草辺りの陋巷にかえって味のよいものが多い。玉の井中島湯の向こう側の煮しめ屋にも時々味のよいものがある。

2月7日、夜読書のかたわら火鉢で林檎を煮てジャムを作る。砂糖は先日歌舞伎座の人からもらったのである。(リンゴは菅原明朗から)

2月9日、わが家に配給された石鹸、粗悪で使用しないものが数個あったので踊り子に贈る。先月から座付きの踊り子が激増して二十余人となった。

2月14日、阿部雪子という女から羊羹をもらう。(不思議な女性阿部雪子の初出)

・・(いとこの大島五叟が三味線職人の男を連れてくる)この職人をわたしの代理人にして町会で防空演習の際出てもらうことにしたのである。

2月19日、噂のききがき

荏原区馬込あたりでは良家の妻女で年ニ十才から四十才までのものを駆り出し落下傘米軍襲撃を防御する訓練をしたという。その方法は女らがめいめいに竹槍をつくりこれを携え米兵が落下傘で地上に降り立つとき、竹槍で米兵の眉間を突く計略だという。軍部から竹槍の教師が来て三日間朝十時から午後三時まで休まず稽古をしたという。怪我した女もあったという。良家の妻女に槍でつく稽古をさせるとは滑稽至極。何やら猥褻な小咄を聞くようである。(馬込は高級住宅地。それつけやれつけの連想だろう。)

2月21日、(金兵衛で)炭が欠乏して魚を焼くことができないといって料理はことごとく煮たものばかりである。

2月22日、洗濯屋の主人が来て米が欠乏しているという。五升ほどやる。このごろ日々の見聞は食物のことばかりである。

 

3月1日、タクシーは夜九時で切り上げ。電車は十一時半ころ切り上げとなり、世間はますます暗黒に陥る。待合茶屋勘定税金二十割という。

3月5日、池上あたりでは庭木もやがて材木にするため強制的に伐り倒されるところがあるようになったという。

3月6日、午後オペラ館楽屋に行く。このごろ公園の興行場は午後から夕方近くどこも大入り満員。夜はかえって見物が少なくなったという。

3月8日、流言録

築地二丁目に河庄という待合がある。おかみさんは大正の初めころ浦子といった新橋の芸妓である。この待合は上海戦争のころから陸軍将校の遊び場となった。塀外に憲兵の立番をしている晩は軍人中でも大頭の者が攀柳落花の戯れに耽る時だという。今年三月一日は芸者買いに二十割の税金がかかる最初の夜だったが、軍人の宴会があった。東條大将は軍服のままで公然と自動車を寄せたとこれを目撃したものの話をここに記す。

3月10日、早朝から飛行機の音が轟然としている。今日は市民一般は外出のさいは男は糞色服にゲートル。女は百姓袴(もんぺ)を着用すべしとその筋から御触れがあったという。

3月11日、午後浅草公園を歩いてオペラ館楽屋で休む。女優のなにがしが詩を作った、昨夜稽古がおそくなり電車バスがなくなり暗い町を歩いて鶯谷の家にかえる道すがら作ったといって書いたものを出して見せる。商女不知亡国恨のおもむきがある。(杜牧の詩。酒家の伎女は亡国の詩を歌ってもその意味を知らない)浅草は何かにつけて忘れがたきところである。

3月13日、午後阿部来話。餅をもらう。(阿部雪子は勤め人で荷風からフランス語を教わっていた。)

3月14日、平田禿木歿行年七十一という。(一葉文学界同人)

3月15日、オペラ館女優踊り子らと木馬館裏のベンチで笑談する。露店の甘酒は店ごとに値段がちがう。ひとつは8銭、ひとつは10銭、また12銭というのもある。どれを味わっても薄くて甘味にとぼしいのは同じである。角のビヤホールの前には夕方五時の開店を待って行列の人が長蛇をなしている。

3月25日、午後土洲橋に行き薬と診断書をもらって帰る。ガス風呂を焚くため医師の診察書が必要なためである。

3月28日、浅草に行く。田原町表通り猪料理山口屋の店先に人が多く立っているので喧嘩かと近寄って見ると何かわからないが鶴くらいの大きさの鳥を幾羽となく束にして吊り下げているのを通行の人はみな歩みをとどめて眺めていた。そのなかにはぼんやり口をあけてよだれを流さぬばかりに見とれていたものもいた。市民飢餓のありさま哀れむべし。

流言録

一昨年翼賛会成立ののち日々街頭に掲示されたポスターの意匠文案をつくったのはもと奈良の筆墨商古梅園の家に生まれた一青年だという。・・その家の息子某は二科の洋画家だったがどんな伝手を得たのか、翼賛会に入りこみポスター文案の専任者となった。昭和十五年二千六百年祭のころ町の辻々に立てられた「祭は終わったさあ働こう」という掲示、また「贅沢は敵だ」「進め一億火の玉だ」といったたぐいのものはみな古梅園の息子が案出したものだという。年齢は四十がらみで色がわりのきざな洋服を着て一見活動写真俳優のような風采の男だという。銀座で聞いた。

3月30日、向島漫歩。・・小道の角々に黄色い服を着た男が四五人ずつ立っているので道をきくついでに防火演習が始まるのかと問うと、夕方五時から寺島町吾妻町あたり一帯で演習すると答えたので曳舟通りを歩き玉の井の色里に行ってみた。演習はすでに始まり女たちが路地の中にあつまり屋根に梯子をかけてポンプで水をそそぐものありバケツを運ぶものあり。叫声笑声が相交って喧噪かぎりない。前から知る家に立ち寄り留守番の老婆と語る。このほど警察署長が代わってむやみにやかましく商売がしにくくなりました。燃料節約とやらでお客さまにお茶さえ上げられなくなりましたからお茶代ももらえませんと嘆息した。

3月31日、去年中オペラ館の舞台に出ていた男の俳優某、徴用令で職工になり右手の五指を失ったものに逢う。兵卒ならば名誉の負傷者として過分の手当てにもありつけるのに工場から解雇されひどく困窮しているという。・・帰途電車で一人の酔漢五十年輩の洋服姿が乗り合わせたドイツ水兵二名に戯れているのを見る。醜態憎むべし。

 

赤印はマイコープ。

 

ミッドウェーとならぶ第二次大戦の転換点とされる欧州東部戦線でのドイツ軍の敗北は、1942年の夏季攻勢の結果としてもたらされた。ドイツ軍攻勢は物流のハブで軍需工場拠点のスターリングラードヴォルゴグラード)攻略と、現アゼルバイジャンバクー油田占領をめざしたものだった。後者はカフカス山脈を越えなければならず、すでに精神の平衡を失っていたヒトラーの妄想の産物だった。戦力を二手に分けたためロストフ攻略までは容易だったが、スターリングラードの手前で進攻は止まってしまった。

 

ドイツ軍夏季攻勢

 

同市ははげしい空爆で全市が廃墟となり戦術目標は達したものの、ヒトラーは完全制圧に固執し瓦礫の町の争奪をめぐって8月から独ソの市街戦が開始された。バクーをめざした軍は南部マイコープの油田に達したが、すでにソ連軍に破壊されドイツ軍は燃料調達ができなかった。マイコープは「春の祭典」のモデルとなった、クルガン文化発祥の地だ。

スターリングラードの制圧がほぼ近づいたころ、11月から市の外縁でのソ連軍の攻撃が開始されドイツ第6軍は逆に包囲されてしまった。それでもヒトラーは死守を命じたので、撤退もできず第6軍85万人の命運は尽きた。同時にソ連軍の全面反攻が行われ、ドイツ軍は占領地からの敗走をかさね欧州戦線の大勢が定まった。

 

ソ連軍反攻。

荷風マイナス・ゼロ (73)



太平洋戦争での日本の最大範囲 都市空襲を阻止するための6月ミッドウェー攻略失敗が、戦争の転換点となった。しかしまだ連合軍には空爆を続ける力はなかった。次にソロモン諸島ガダルカナル島の攻防が焦点となり長期戦が翌年2月まで戦われた。

 

昭和17年(1942)

 

10月1日、新橋駅のほとりを過ぎる。路傍の広告を見ると頭山満翁口述英雄を語ると書いたものがある。勤皇志士遺墨展覧会またソロモン海戦記またマレイ語教授の広告。それに続いて陸軍大将宇垣一成民族科学講習会などいうのもある。停車場入り口には国民服の小役人が机を据え弾丸債権というものを売ろうとして声をからして通行人を呼び止める。・・金兵衛の戸口をくぐると食卓についた一人の客が店のものに向かいしきりに米国飛行機襲来の日が近いと語っていた。

10月2日、久しくオペラ館を訪ねなかったので夕食の後おもむいてみると踊り子の多くが去って残ったものは七八人となった。この春ごろまでは少ない時でも二十人ぐらい居たのである。金龍館常盤座でも踊り子が少なくなってレビュウの演芸が困難になったという。この夜オペラ館の演芸はいつもの軍歌剣劇とか称するもので何の面白いところもないが見物は相応の入りであった。

10月3日、人の話にジョニーウォーカーウィスキー一壜金100円。キュラッソー4-50円。ベルモット3-40円くらいだという。

10月6日、ある人のはなしに市中の色町の薬屋に花柳病予防のサックが品切れになったという。

10月11日、門外に遊ぶ子供のはなしを聞くと今日から時計の時間が変わって軍隊風になるという。午後の一時を十三時に二時を十四時などと呼ぶという。

10月24日、偏奇館修繕費350円余を支払う。

10月28日、浅草公園に行く。仲見世の菓子屋はおおかた玩具屋となり角の紅梅焼は半ば戸を閉めていた。

 

11月2日、午後浅草を歩く。観音堂階前の鉄製用水桶、唐金燈籠、仏像および弁天山の釣り鐘などみな恙ない。鳩もまだ餓死していない。弁天山下のベンチに十七八の娘が襟付の袷に前掛けをしめ雑誌を読んでいるのを見る。明治時代の女風俗をそのまま見ることができるのはこの土地以外にはないだろう。

11月6日、野菜も切符で買うようになった。八百屋も町会で定めた店のほかは他の店では売らないようになった。結局野菜の欠乏がはなはだしくなったためであろう。野菜は冷凍して南洋占領地に送るのであるという。東京市民の飢餓も遠くないであろう。

11月12日、門前の落ち葉を掃いているとき菊の鉢植えを売りに来たものがいたので二鉢ほど買った。一鉢3円だといった。

11月16日、浅草に行く。東橋際の乾物問屋で葛を買う。100匁1円80銭だという。物価の騰貴が測り知れない。仲見世を過ぎるとき人はそれほど雑踏せず、酉の市の熊手を持つ人も多くなかった。オペラ館楽屋に入るとかつてこの座の作者だった小川丈夫が来合わせたので踊り子の大部屋に入って語る。・・舞台裏でレヴューの踊りを見ていた時ギャングの親分岡田という男が来て書幅にぜひ揮毫してほしいという。

・・人々の語るのを聞くと来十二月からガス風呂を焚くことを禁止されるという。

11月22日、政変以来作品を公表せずいわゆる文壇からまったく隠退したので出版商新聞記者文学志望者など雑客が門を叩くことが跡を絶った。これは最も喜ぶべきことだ。

11月24日、十一月になって今年のように毎日よく晴れて暖かい日が打ち続くことはいまだかつて知らなかったことである。乱世のさまも打ち忘れ人間生命のうれしさがただ訳もなく味わい知れる天気といえる。

11月30日、熱海大洋ホテル主人木戸氏電話でついに徴集され我孫子高射砲兵営に送られると通知あり。

・・南鍋町サロンハル閉店(濃厚サーヴィスで知られた)。

 

12月1日、本年配給の炭が立ち消えして火鉢の灰に埋めることができない。小さい七輪に入れておこす。・・立ち消えの粉炭うらむ日暮れかな。

12月4日、短編小説軍服起稿。

12月5日、金兵衛で食事する。隣席の酔客が語るのを聞くと日本橋通り高島屋デパートで奢侈禁制品に入る絵葉模様金銀縫い取りの呉服物を作っていると、刑事らが探知し厳しく取り調べると、注文先は東条首相の妻女らとわかり刑事らそのまま手を引っ込めたと。

12月8日、短編軍服を中央公論社嶋中氏に郵送する。・・このごろ市中は街灯を点じない。道路は暗然としている。横浜港内で怪火爆発の事があったためという。

12月11日、町会および隣組から市民税の五倍の金額に相当する国債を買えと町内各戸に触れ回った。わたしの市民税は40円なのでこの年の暮れに迫って200円あまり奪い取られることになった。

12月12日、嶋中氏から返書があった。小説軍服は掲載中止となる。

12月26日、今月初めからガス風呂は医者の診断書がなければ禁止とのことにつき夕方土洲橋の病院に行き帰途金兵衛に立ち寄り夕飯を食べる。

12月27日、朝早く起き出るときは炭を費やすことが少なくないので昼近く日陰が窓に射しこむころ寝床を出て米をといで炊く。冬寒くなってから毎日このようである。四時ごろ家を出て浅草に行って見たが買おうと思う食料品が得られずあたりを散歩する。東武鉄道停車場には日曜日にかぎり近県の温泉遊山場行きの切符を売らないためか人がはなはだしく雑踏しない。興行町もそれほど騒がしくなく世の中は追々真底から疲労していくようだ。

12月28日、砂糖闇相場一貫目17-8円という。

12月29日、新橋上野その他の停車場では年末の旅行者を制限し切符を売らずそのため地方から上京している者たちは年内には家に帰ることができず困却しつつあるという。

12月31日、隣家のオーストリア人から芋大根蕪をもらう。これは日頃わたしが牛肉配給券を贈る返礼だろう。肉類は配給されても硬くて食い難いのでつねに隣家に贈るのである。

・・新橋駅付近は街灯薄暗く寒風吹きすさび行く人もまた稀なので大晦日の夜とも思われない。銀座通りも同じであろう。

・・今月から配給米に玉蜀黍をまぜるに至り消化がますます悪い。世の噂に来春から玄米になるとのことであるからわが胃腸の消化力がはたしてこれによく抵抗することができるか否か。余命のほどもおおかた予測することができる。宋詩に世間多事悔長生ということもあるのであまり長生きはしたくない。これを今年除夜の言とする。

荷風マイナス・ゼロ (72)

妖絃怪猫伝(1938)

 

昭和17年(1942)

 

7月15日、町会の役員が来て防空用古樽金7円、むしろ一枚4円づつを取りに来る。

高価驚くべし。

7月16日、この日税務署の通知を見ると本年はまた去年よりも多く一回分623円40銭、一年分で金2490円60銭となる。わたしの実収の三分の一は税金として取り上げられるのである。戦争の被害はいよいよひどくなった。世の噂をきくと日本橋通の山形屋浅草田原町の池田園など江戸時代からの旧家がいづれも税金の負担に堪えず閉店したという。

7月21日、浅草に行く。公園に入ると盆過ぎで人出が少ない。区役所の入り口に日本皇道会とかいた高張提灯を出し赤尾敏の名をかかげていた。入場料20銭払って入る者が少なくない。浅草はいかなる世でも面白おかしい所である。

7月23日、銀座尾張町乾物屋大黒屋が閉店したという。

7月31日、今宵は氷があると見えどこの氷屋にも人がむらがっていた。氷水一杯10銭でその量はむかしの半分よりも少ない。

 

8月10日、先月ころより市中にチリ紙が品切れだったがこの度配給制となり一日一人分三枚あてだという。

8月12日、金兵衛に行くと料理場の男二人いずれも妻子あり年三十四五が徴用令でニ三日中に軍需工場に送られるという。

8月15日、金兵衛で食事する。隣家の亀寿司で軍人が酔って刀を抜き客ニ三人女中などを斬った騒ぎがあった。宵の口で人が出盛るころだったので近所一帯に大騒ぎとなった。

8月20日、昨日電話で幸橋税務署へ出頭すべしと言ってきた。午後におもむいて直税課長に面談した。文筆所得金6000円だったのを3000円とした。

8月22日、町中に噂あって煙草専売局が廃止され煙草の制作が中止されるであろう、軍人関係のところへは支那製の煙草を輸入し市中には一時煙草がなくなるだろうと。

8月25日、今年は女の洋服がその裾いよいよ短くなって膝頭すれすれである。白粉つけずに日に焼けた顔に剃刀をあてたこともないようで頭髪は蓬のように乱れ近寄れば汗くさい。

8月27日、電車内で偶然もとタイガーの女給で昭和八九年ごろイタリア大使の妾となっていた信子というものに逢った。年はすでに三十四五であろうにむかしに変わらず二十四五に見える。西銀座のある酒場に行って働いていると語った。世界の形勢時代の変遷には少しも煩わされることなくその境遇の変化にさえそれほど心を労さない様子である。これを見るにつけ無智の女ほど強いものはない。

 

9月5日、夕方食事のため新橋駅を過ぎる時に巡査刑事らが不良少年を検挙するのを見る。

9月8日、金兵衛で食事する。居合わせた客からいろいろの話を聞いたまま記す。

一 (小田急の相模原に土地を所有していた人がいた。突然憲兵署に呼び出されこの辺の土地は軍部で入用になったので即刻ゆずりわたせ、日本国内の土地はもともと皇室のものなので書面に署名捺印すべしといわれ、憲兵の言のとおりに捺印した。時価15-6円の土地の買い上げわずかに5円だったという。)

一 仙台辺りでは日曜日に釣竿を持ち歩くものを、憲兵が私服で尾行し、人のないところに至るとこれを捕らえ工場その他の構内の雑草を取らせあるいは土を運ばせ、1日の賃金80銭を与えて放免するという。

一 伊豆西側の海岸に山林をもつ人のはなしに、その地のミカン園は除虫剤と肥料欠乏のため樹木が次第に枯れ今年は果実の収穫がおぼつかないという。

9月11日、芝浦波止場付近では憲兵が私服で見張りしてその辺を徘徊するものは誰かれの区別なく拘引するという。先日ひとりの洋装した女を捕らえたところ、この女は靴下をとめる金具のなかに小さい写真機を装置し、ときどきスカートをまくり靴下が下りたのを引き上げるふりをして港内停泊の運送船などを撮影していたという。写真機は米国製で日本にはないものという。

9月16日、東京でいままで名物といわれるものを作っていた老舗はおおかた店を閉ざした。蔵前の鮒佐、並木の濱金、築地の佃茂その他なお多いだろう。

9月20日、噂によれば化物の見世物怪談および猫騒動の芝居など禁止されたという。

9月29日、十日ほど前から両足と両手がマヒして起き伏しが自由にならず歩行するときよろめきがちになった。また灯下に細字を書くことが困難となった。昨日土洲橋に行って診察を請うたが病状明らかならず治療の道はないようだ。わたしの生命もいよいよ終局に近づいたようだ。乱世の生活は幸福でない、死は救いの手である、悲しみにおよばずむしろ喜ぶべきである。

9月30日、門外で遊ぶ子供の話を聞くと文房具屋の店に墨が品切れになったという。