春の感謝祭(15)

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古典音楽家で最高の評価をえているのが M.S.Sublakshmi なら、舞踏家はバーラサラスワティBalasaraswati だ。どちらもデーヴァダーシー家系の出身になる。画像は1934年16才時だが、ただものではない。

 

カラークシェティラーを開くことになるルクミニ・デーヴィは1933年に文化公演を観てサディル சதிர் と呼ばれたデーヴァダーシーの踊りに関心をもった。そこから改変をくわえ理論化し、独立を後押しする民族文化運動の一環としてバラタナーティヤムの一派を創始した。

 

カラークシェティラー派のスタイルは、ジャン・ルノワール河(1951 仏) に挿入された Radha Burnier の踊りによくあらわれている。背筋を伸ばした直線的な、禁欲的雰囲気のダンスだ。ルクミニ・デーヴィは伝統文化を救済しようとしたのだが、当時植民地権力による反ナウチ運動と称されたナウチ・ガール(踊り子)廃絶の動きがあった。そのため従来の文化を清浄化しようとした。またそのことでバラモンや支配層の子女による習得がたやすくなった。

 

反ナウチ運動は、デーヴァダーシーと売春を結び付けたイギリス植民地権力による社会浄化運動だった。遅れたインドを導くことが強欲な支配の根拠だとしたのだが、卑猥だといってテーブルの脚に布を被せたヴィクトリア朝的偽善の発露でもあった。

 

しかしまた寺院売春はたしかに存在していた。踊り子を神にささげるという建前は、きびしい接触儀礼から低カーストの女性をいったん棚上げし性奴隷化する仮構だったのではないか。在地の腐敗したインド支配層も反ナウチの動きには抗しがたかった。

 

サディルの革新をめざすもう一方の旗頭だったバーラサラスワティは、ルクミニ・デーヴィと対立関係 にあった。批判はシュリンガーラ(愛欲)のラサの排除、バラモン化に向けられたとされる。一方でバーラは、デーヴァダーシーの大衆向けな色欲的踊りも批判したという。 残念なことに若いころの映像記録はないので、その踊りがどんなものだったかはよくわからない。

 

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二十ころのバーラサラスワティ(左)は、 M.S.スッブラッシミーとこんな写真を撮っている。(1937年のスタジオ撮影)

 

 現在バラタナーティヤムには大きく、パンダナルールPandanallurスタイル メーラーットゥールMelatturスタイル 、ヴァルヴールVazhuvoorスタイル 、カラークシェティラーKalakshetraスタイル があるとされる。

パンダナルールはバーラサラスワティの流れで、タンジョール・カルテットに源がある。 メーラーットゥールはバーガヴァタ・メーラーに近縁し、ハリニ・ジーヴィター のスタイルだ。ヴァルヴールは愛欲を重視し、映画人の門下が多い。