タマーシャー本

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マドゥー・カーンビーカル Madhu Kambikar

 

インドにおける大衆芸能と都市文化を読むことができた。マハーラーシュトラの大衆芸能タマーシャーを調査した飯田玲子が、学位論文に加筆したものだ。豊富なフィールドワークにもとづくもので、書誌学的でなく読みやすい。タマーシャー記事で紹介したマドゥー・カーンビーカルにも直接取材し、ラーヴァニー歌詞を採録している。

 

いくつも新しい知識や観点が得られた。

タマーシャーの一座(ファド)は、マドゥーの出身であるコールハーティーkolhatiコミュニティーをふくむ下層民によって構成されている。しかし特定のジャーティではなく、諸カースト、宗派、経歴の人々を内包したアジール避難所として存在してきたという。戦前は独立闘士の隠れ家でもあり、タマーシャーの政治性に影響を与えてきた。

飯田の取材したタマスギール(タマーシャーの人々)は、カースト(ジャーティ)や宗教におおむね無関心だった。これは被差別身分が他者による規定にすぎないからだろう。

一座の数は400を超えるが、これはタマーシャー人気が健在であると同時に避難所としてのタマーシャーでの生き方を求める人の多さも示すのではないか。都市の常設劇場には一座のための部屋が20くらいあり、そこで寝起きしている。一座は10人くらいが単位で、ひとり一畳あたりの空間だ。

 

タマーシャーには芝居をふくむ総合演芸と踊りだけのタマーシャーがあるが、近年はメディア展開のおかげで後者が優勢のようだ。

踊りのラーヴァニーには流派やグルの縛りが存在せず、自在に変容している。そのため踊り子は一座をいろいろと変えることができる。この点、渡り職人のようにも思える。

タマスギールはかつて性労働も稼業としていた。このため血縁をたどれる母系制社会になっている。

収入は農村のほうが多いが、石を投げられたりする。都市の劇場は、メディア展開などのさらなる地位向上の場と考えられている。携帯を駆使してさかんに情報を交換しあっている。ただしVCDや映画に出演してもギャラは出ない。あくまで顔と名を売る手段にとどまる。

 

などと書き連ねるとほんとに切りがないので、購読をおすすめする。

もうひとつはずせない特典は、ラーヴァニーの歌詞が多数翻訳紹介されていることだ。

映画のラーヴァニーがエロティックだと感じたことはないのだが、飯田によれば現場での歌舞は性が大きな要素となっている。

たとえば初潮の歌などがある。日本もふくめ世界中にこのような性の各場面の歌がかつてはあったのでないか。民俗学などですでに採譜されたりしているのだろうか。